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世界はひとりの男のきまぐれで存続した~今を生きられる幸運について~

やあみんな、かずまだよ。
いまこの記事を、北京から2700㎞離れた場所、ローマまで残り5400㎞というところで書いているよ。
東京から北京まで約4時間、それから北京でトランジットしてさらに12時間ほどかけてローマという旅程なんだけど、実際に旅してみるとヨーロッパの遠さが本当に実感できるね。

とはいっても飛行機で1日で到達できるのだから、原始時代の昔を思えば、ずいぶんと世界は行き来しやすくなったと言うべきだろうね。

秋の冷たい海を丸太をくり抜いた船で航海しなくて済む幸運や、新雪の野を犬ぞりで横断せずに済む幸運を、身じろぎも出来ない狭いシートの上で祝うことにするよ。

海さえもひといきに超えられる現代科学、万歳

さて今週は世界を飛び回っているから、あえて「この世界」そのものについて書いていこうと思うよ。

世界の何を書くかというと、「いま生きている幸運について」だね。

この話の始まりは、原始時代へと遡る。
その昔、人類は非力なサルだった。

猿人

これは比喩でもなんでもない。なぜなら、類人猿の仲間であるチンパンジーやゴリラには鋭い犬歯があり、彼らはこの牙を使って仲間やほかの動物の皮膚を食い破ることが出来る一方で、我々はなんの武器も持たずに生まれてくるからだ。
硬い皮膚もないし、鋭い爪もない。
つるつるの裸の猿として産まれてきて、そしてそのまま大人になる。

しかし、ある時点で人類は知能を獲得し、そしてついに火を手に入れる。
野を焼き、森を焼くことのできる人類は、かつてこれまでどんな動物にも成し得なかった、環境を変える力を手に入れたのだ。

我々人類はライオンと素手で戦っても勝てないが、森に火を放てば、非力な子供でも女でも森を壊滅させることが出来るようになったのだ。

それは対象を選ばずに燃え広がる

ここが重要なところだ。

そう、個々人の力の大小に関わらず、強大な力を行使できるというところだ。

「人類は非力でも環境を変える力がある」

そして話は1983年に飛ぶ。

当時、ソ連とアメリカは冷戦中で、お互いに軍拡競争を繰り広げ、核兵器の砲塔を向けあってにらみ合っていた。
そんな緊迫した状況のなか、1983年に大韓航空の飛行機がソ連軍によって撃墜され、世界は一気に緊張状態に突入する。
アメリカ軍のタカ派は激昂し、核兵器で報復すべきだ、と主張していた。ソ連の書記長は核戦争を予感し、厳戒態勢に入った。
世はまさに核戦争の起きる直前であった。

核戦争前夜

そして1983年9月26日、ソ連空軍のペトロフ中佐のコンピューターに「アメリカが核攻撃を行った」というメッセージが届いた。
当然のごとく、ソ連にはこういった事態にどう対処するかは前もって決められていた。
それは持ち得るすべての核兵器をもってアメリカを壊滅させるということだ。

しかし、ペトロフ中佐は核攻撃を行わなかった。
「これは誤作動である」と判断して、攻撃を保留したのだ。

そしてそれは確かに誤作動であった。

もし1983年9月26日にペトロフ中佐が当時のソ連のすべての核兵器でアメリカを攻撃していたら、いまごろ人類は絶滅していたかもしれない。
我々は、コンピューターの誤作動で、たった数文字の文章で、歴史を終えていた可能性があったのだ。

機械の誤作動は人類を滅ぼし得る

彼の冷静さが、いま地上にいる何十億人という人間の人生を作り上げた。
俺だってそうだ。彼が核戦争の引き金を引いていたら、俺は1988年に産まれていないだろう。

そう、ここで話は冒頭につながっていく。

我々は火を手にした。
それは森を焼き、強い動物をも飲み込んで丸焼きにしてしまう物凄い大量殺りく兵器だ。
焼け野原になったその場所へ我々の祖先はとことこと歩いて行って、焼けた木の実や動物の肉をビュッフェのように舌鼓を打つことが出来た。

火は動物の襲撃から身を守ってくれた。
寒い夜にも暖めてくれた。
暗い洞窟を照らし、お互いの顔を見て笑いあえるようにしてくれた。
火で調理した食物は消化吸収にすぐれ、消化にかかる時間やエネルギーを減らし、知的活動に割く時間を増やしてくれた。

そして。

我々は核を手にした。
それは地球の生命をすべて滅ぼすほどの破壊力を持ち、放射能の影響を何万年も残すことが出来る。
人間や動物を一瞬で蒸発させ、壁の影に変えることが出来る。
建物を吹き飛ばし、地形すら変えるだろう。

しかし核は大量のエネルギーを安価に人類にもたらした。
ローマのように木を燃やしてエネルギーを取っていたら森林がなくなってエネルギーもなくなり滅びる、という心配はなくなった。
安い電力が工業を発展させ、人々の暮らしを豊かにした。
昔は明かりを灯すのにもろうそくや油など、高価なエネルギーが必要で、夜はすぐに寝るのが当たり前だった。
それが1時間電球を灯してもほんのわずかな金額で済むようになった。

それは火と本質的には同じだ。
人間の力をはるかに超える強大さで、環境すらも変えてしまう、ある種制御の難しい力だ。

しかし破壊的な面ばかりではない。
それは使い方によっては、ヒトを幸福にもし、笑顔にもする。

(賢く使える人間ばかりではない、という一面も見落としてはならないが)

* * *

我々は、とてつもなく強い力を手にしている。
身に余るような、恐ろしいほどの力を。

人類は相変わらずひとりひとりの力は弱い。
何万年も何十万年も経っているのに、牙も犬歯もない。
そのかわり、ひとりの狂人が地球やその全生命を滅ぼすこともできるようになった。

現代社会で、イスラエルやハマスやロシアやウクライナやイスラム国やアメリカや北朝鮮の、どっかの誰かがとち狂っていたら。
人類はいつ死に絶えてもおかしくない。

不完全で愚かな人類は身に余る力をコントロールしうるか?

しかし、そんな暗い話を書きたいわけじゃない。

発想を転換し、俺たちはそもそもロスタイムを生きていると考えれば、面白いだろう。

ユカタン半島に隕石が落下して、恐竜が絶滅し、哺乳類の先祖の生存も危ぶまれたあの日から。
トバ火山が噴火して、すべての人類をあわせた人口がわずか2000人にまで減ったあの日から。
1983年にペトロフ中佐が核攻撃を誤報だと判断したあの日から。

我々は「たまたま絶滅をまぬがれた」幸運なパラレルワールドを生き続けていると考えれば、一日一日の体験のすばらしさを十分に味わえるだろう。

* * *

俺はよくみんなにこんな問いを出す。

「明日死ぬとしたら、今日は何をする?」
「一年後に死ぬとしたらどう生きる?」
「死ぬときに何と言って死にたい?」

この問いを使うことで、終わりから逆算し、生き方を見つめ直すことが出来る。
そして、後悔のない人生を生きることができるようになる。

そんな意図を持った質問だ。

しかしこれはなにも、コーチングのために面白半分で聞いているわけではない。
いつ死ぬかわからないというのは、本気で思っているからだ。

生と死は分かちがたい双子である

死は身近にある。
メメントモリ。
死を忘れるな。

俺はこれを常に感じている。

そして、人類の愚かしさを肯定するということは、この種の危険(狂人の暴走)も肯定し受け入れるということだ。

人類は豊かになった。
貧困を遠ざけ、テクノロジーは発達し、医療は進歩して寿命は延び、乳幼児も健康に生き長らえられるようになった。
知能指数も上がっていて、教育も行き届き、民主的な国で自由に生きられる人口が増えた。

世界は発展し、よりよくなっている。

しかしその一方で、人間は動物であり、裸の猿であり、本質は原始人であることには変わりがない。
我々は数万年もの間、遺伝子を変化させず、脳を変化させず、何も変わっていない。
「お金」や「時間」や「スマホ」や「現代社会」に適応するには、進歩が速すぎたからだ。

我々は感情的で、理性よりも欲望が強く、衝動的で、怠惰で、ずるい生き物だ。

世界がどれだけよくなろうとも、人間の本質は変わらない。
少なくともあと数万年は。

余談だが、「完全な」人類を目指して遺伝子を改変し、悲しみを感じる心を消したり(幸せに生きるためには余分だと考える「賢い」大人がやりそうなことだ)、衝動性を抑え込んだりするかもしれない。しかしそれはもう「ホモサピエンス」とは呼べない、別の種族になるだろう。

テクノロジーは発達した。
だがそれでも正義に酔う人や、敵を殺せという声はなくならない。
人類はそういう風にデザインされているからだ。

だからこそかつて地球にいた数十種類の人類たちは地上から消えた。
ホモエレクトゥスもホモネアンデルタールシスも、その他のめぼしい人類たちも、「敵を殺せ」という人類の本能によって滅ぼされた。

だからこそ、戦争は起こるし、なくならない。

人類の兄弟たちを殺しつくしたのち、今度は人類同士で違いを見つけ(肌の色や宗教や文化や政党や思想)、戦いを始める。

ヒトは敵と味方を区別し、悪や敵を殺す快楽を好む。ネットで有名人を袋叩きするのもその延長線上にある。それは本能的なものであり、教育では変えられない。100年後にもネットリンチは変わらずに繰り返されているだろう。規制されない限りは。

ヒトは生まれつき正義と悪という二元論を好む。そういう脳のつくりなのだ。

啓蒙主義が広がり、「教育さえすれば悪は撲滅できる」という幻想がかつてあった。
しかしどれだけ教育しようとも、ヒトがヒトであることには変わりがない。
教育はヒトを変えられない。

だから、いつだってイカれた人間の手によって地球は終わり得る。

* * *

しかしそれは悲観すべきことじゃない。
毎日自分の人生に起きることを十二分に実感し、心の底から体験を感じ、楽しむことが出来たのなら、その人生はどこで終わったとしても生きる価値がある。

俺は息子たちにあえて言い残しておきたい。

人類はいつでも滅びられる。
その力を何十年も前にヒトは手にした。

そしていま生きているのは、ただ幸運なだけだ。

超ラッキーな数十億人の人々

俺たちは世界を体験しに生まれてきた。
そしていつでもそれは終わる可能性がある。

だからこそ、生きている間にしか味わえないことを、存分に楽しもう。

いずれ死ぬしても、生きることは無駄ではない。
物質は残らないが、感じたものは残る。

だから俺は世界を旅する。
お金を稼ぐのは、時間と経験を買うためだ。
時間と経験こそ、生きる価値だ。

* * *

人類はおろかで、不完全だ。
でもそれでいい。
そんな人類だからこそ、生まれてきて面白い。

挫折や葛藤、苦しみ、嫉妬や衝突、怒り、恐怖、すべて不完全だからこそ感じられる。
完璧な生き物ならドラマは起きない。

そして友情や愛情、恋や革命は、生きているからこそ味わえる。
肉体を持っているからこそ、さまざまな体験ができる。

人間はおろかで、不完全だからこそ、いつ世界が終わるかもわからない。
しかし、それでも、俺は人間が好きだし、この世界には生きる価値がある。絶対に。

人類が発生したこと、まだ生きていること、奇跡の二乗を味わいつくそう。

みんなもこの地球を、人間を、時間の許す限り、楽しんでほしい。
この瞬間を、この肉体を持つという奇跡の体験を、心の底から感じよう。
いつ終わってもいいように。

この記事を子供に捧げる。

読んでくれてありがとう。
また来週、たぶん地中海のどこかから書くと思う。
次の記事も読んでくれたらうれしいな。
それじゃまたね。

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