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私たちは何者か、何者でもないのか

今日の朝ドラ「ブギウギ」で、こんなシーンがありました。

所属していた歌劇団が潰れてしまい、
自分独自の楽団を立ち上げた主人公、福来スズ子。
しかし、なかなか公演をさせてくれる場所が見つかりません。
スズ子の人気のなさを懸念する楽団のメンバーの一人がつぶやきます。

「歌劇団の後ろ盾があってこその、福来スズ子だった」

この一言に、ふと思うことがありました。

本当の「自分」が何者であるのかは、

何かの後ろ盾がなくなったときに、真の意味で気付く
のではないか、と。


私は長年、会社員でした。

担当する仕事をこなし、会社やお客様に迷惑がかからないよう努力してきました。

また、全国の合格率10%未満の国家試験を取得し、会社の中でも(ほんの少しですが)プライオリティが付いていました。
その資格保有者というだけで、すごいねといわれる世界にいたのです。

そして当たり前に、お給料やボーナスをもらっていました。

ですが、会社を辞めた後、気付いたことは「私には、なにもない」ということでした。

もちろん、実際には、「なにもない」なんてことはないのですが、それを見つけ出すのにはかなり時間がかかりました。

もらっていたお給料やボーナスは、単に提供した時間への対価だったのだろうか、とさえ思いました。

資格保有者としてちやほやされていたのは、その会社にいたからであって、一歩会社の外に出れば、その資格の名前を言ったところで価値は分かってもらえません。
そして、実際のところその業界でなければ役にも立ちません。

また、培ってきたお客様との信頼関係も、その会社にいるから意味があるのであって、会社を辞めればそれを持ち越すことができません。

(もちろん、業種や職種、仕事の内容等によっては、それが叶う場合も多々あると思います。)

私の場合、会社の外に出たら、自分は何者でもありませんでした。

何者でもないので、信頼も、収入も、一から作っていく必要がありました。

そりゃ当たり前でしょ、と今なら思えるのですが、当時は、会社員として何某を積み上げてきた自分こそが自分である、と勘違いしていた感があるのです。
うーん、うまく言えないのですが。

その会社のお膳立てがあり、その色に染まっていたからこそ社会人として上手くいっていた部分があるのに、それをさも自分の力で得たかのように思い込んでいた、という感じ?

会社や職場といった何らかの組織に属している時、私たちはそこでの役目を果たしています。
それはとても素晴らしいことです。

でも、それが本当に自分らしいのかどうかは、時折見直す必要があるかもしれません。

キャリアが増えるごとに、役職が付いていくごとに、「自分@属する組織」という位置づけが強くなり、@マーク以下の比重が大きくなる気がします。

それはそれで悪い事ではないし、むしろそれを望む人もいるでしょう。

ただ、これから個人の時代になっていくにあたって、そこにしがみつき過ぎると、本来在りたい自分から遠ざかっていく場合もあるんじゃないかと、思ったんです。

会社を辞めてしばらくは、自分のために取得していた資格の名称を名乗っていました。
私@△△®(保有資格名)、みたいに。

でも、それも結局は、その資格の協会の後ろ盾があってこそ名乗れたわけです。(協会に入っていないと名乗れない仕組み)

それが自分らしさだと思えるのならいいのだけど、私はなんか違う気がずっとしていて。

それでやっとそういうのを手放して、何者でもない自分になることを受け入れようと思えるようになりました。

先に何者かになって、それに自分を合わせていくのと、

何かを目指した結果、何者にかになるのと、

どちらがブレないか。

答えは人それぞれでしょう。

朝ドラの一言から、ふと降りてきたことを書いてみました。
スズ子が今後、どんな風に自身のスタイルを築いていくのかが楽しみです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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