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日常は奇跡の連続でできている

以前、こんな光景を目にした。

実家の裏庭で遊ぶ子供達が、とてもキラキラしていて、太陽の光と、庭の木々や草花と、晴れた昼下がりの空気感と、子供のエネルギーが、奇跡のように融合していた。

その光景は決して初めて見るものではなかったけれど、子供達の年齢、季節、天候、彼女たちの体や心の状態、そしてそれを眺める私自身がそこにいることができたことも含め、あらゆる小さな条件が一致したから見ることができた、奇跡の瞬間だった。

私たちが日頃、目にしているあらゆる光景や体験は、ある意味どれも奇跡的に起こっている。

それが繰り返されると「当たり前の日々」だとか「日常」といった言葉に置き替えられていくので、うっかり忘れてしまいそうになってしまうけど、実は日常っていうのは「奇跡の連続」でできているんじゃないかと思う。

ひたすら過ぎ去る毎日が「ただの日常」ではなく、「奇跡の連続」で作られていると気付くと、どんな小さなことにも喜びと感謝の気持ちがわいてくる。


ところで、私は、日没直後や日の出直前の空を見るのが好きなのだけど、その理由は、その時間帯は空が一刻一刻止まることなく変化していくから。

明るさ、色合い、雲の表情、星や月が見えたり逆に見えなくなったり。
急に光の筋が広がったり、雲が真っ赤になったかと思えばすぐに色が消えていったりする。

空がそこにあるのは、当たり前のこと。

でも、ひとつとして同じ空はなく、
その日その日の様々な条件に基づいて創造される奇跡だと言える。

空の移ろいは、ほんの5分ほど見ているだけでもどんどん変化していく。

カーテンを開けて外を見たら空がいい感じになっていて、急いで着替えて外に出て見よう、なんて思って着替えている間にどんどん変化していってしまって、最初に見たその空の景色はもうなくなっていた、なんてこともある。

子育て期の毎日も、どこかそれに似ていて、
当たり前の中に潜む一瞬の奇跡は、その時にしか見ることができない。

子供は、たけのこみたいに成長していく。
つまり、昨日と今日を見比べたらその違いが分かるんじゃないかってくらいに成長が早いってこと。

だから、私たち大人が、日々の膨大なタスクや尽きることのない悩みなんかに意識がいっている間にも、子供はどんどん成長していく。

昨日できなかったことができるようになっていたりする。

下手すると、いつ、それができるようになったのか分からないまま、時間が経ってから気づいたりする。

その時間は、その時しか、ない。

日常が、奇跡の連続でできていると思うと、今という時間を蔑ろにしてはいけないと感じるのだ。


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