成功のために努力は必要か

 努力が報われる社会が実現するとは思わないが、まず努力が報われることが良いとも思わない。努力は中間的なことであり、それ自体は無価値だと思う。何かを実現したいと考え、そのために努力するとして、それが報われるとは限らない。必ず報われるとしたら、非常に恐ろしい社会になると思う。努力しさえすれば、人は能力がなくても、難関大学に合格し、司法試験に受かることが保証されるとしたら、そんな社会はディストピアでなくてなんだろう。
 おそらく努力が報われる社会を称揚している人は、確実に努力が反映される社会の実現を目指すよりは、努力の価値を信じているのではないだろうか? ひとかどの人間になるには努力が必要というのはあながち間違いではないだろう。ただ、そこにも注意すべきことがある。ひとかどの人間になった人は確かに努力しただろうが、その場合、努力は快楽を含むものであったと思う。そのとき、本人は努力として意識していないのではないだろうか? 努力が苦痛でしかないとしたら、そのような努力をすることは人生の浪費になるだろう。
 努力を称揚することの間違いは、努力の抽象化にあると思う。確かに成功した人は他の人よりも努力しているかもしれない。しかし、彼/彼女がそれを努力と見なしているかどうかはわからない。人は誰でも得意不得意がある。たとえば、私は経理が不得意で、経理の勉強はしたくないが、経理が得意な人は違うだろう。そのとき、私が経理の勉強に払った努力と経理が得意な人が払った努力は大きく質が異なるだろう。にもかかわらず、そうした努力の質を不問にして、ニュートラルな努力というものを想定することが間違いなのである。
 よって、団塊の世代がよく言っている「成功のためには努力せよ」というスローガンは破棄しなければならない。むしろ、成功のためにはできるだけ努力が要らないことをせよと言うべきなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?