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10.想念形体(エレメンタル)~現世での解釈と事例と応用2

更にメッセンジャーでのエレメンタルに対するダスカロスの言及を深掘りしてみます。

中毒や欲望のエレメンタルと戦ってはいけない。相手は目に見えない存在だし、手ごわい。そういうエレメンタルに対して攻撃的になり、戦いを挑むと、それにエネルギーを与えてしまうことになる。その力を消すには、無視することだ。逃げるのではなく無関心でいることによってエレメンタルの力を吸い取ってしまい、それを中和してしまうのだ。すると、そのエレメンタルは溶けてなくなってしまうか、エーテル界に浮遊して、そこで他の人に拾われたりする。

メッセンジャー

ここでは、ダスカロスはエレメンタルは溶けてなくなると表現していますが、「7.想念形体(エレメンタル)~性質と分類」では、

エレメンタルを破壊することはできません。いったん一つのエレメンタルが創られたら、それは活性化された状態か、もしくは休止状態という、どちらかの状態で必ず存在し続けることになります。

出典元不明

と記しています。この辺りの表現の違いは別として、具体的に中毒や欲望などを備える執着している事象に対して、どのように対処・対応すれば良いのでしょうか?
例えば、私は電子タバコを吸っていますが、止めよう止めようと思えば思うほど吸いたくなります(笑)。また、緊張状態になったり不安になったりすると吸いたくなります。過去の経験の蓄積によって、私がそのような状態になった時に、私の回りのエレメンタルがグッと引き寄せられるからなのでしょうね。
タバコを「意識すること、我慢すること=戦うこと」だと思いますが、そうしない為には、他の何か(五感や瞑想)に集中して「忘れる」のが良いのでしょうね。または吸う時間を少しずつ空けていったり、代替えのエレメンタル(ニコチンゼロやガムとか)に置き換えるか・・・・。
まあ、それが簡単にできたら苦労しないと思うわけですが・・・(苦笑)

スピリチュアルに成長して行くと、私たちがエーテル界に残したエレメンタルによって、同胞たちが好ましくない状態に堕ちて行くことに対して責任を意識するようになる。

他人があなたのことをどう判断するか、どう考えるか、気にしないことを勧める。私たちは内なる自己によって裁かれる。内なる自己がどう判断するかだけを恐れなさい。

真理の探究者はもう欲望的思考によるエレメンタルをつくることをやめて、意識的につくられたエレメンタルを完全にコントロールできるようになるところまで行かなくてはならない。

メッセンジャー

自己と向き合い、自分の思考をコントロールする・・・・要するに自分の感情や思考に責任を持て、という事ですね。そのためには、自己客観視を養わなければなりません。主観的にはならずに、ちょっと引いたところから自分を眺めて自分自身を観るという訓練は何かあるでしょうか。

自己客観視というと、「内観」という方法があります。これは、自分自身の状態を観察する方法、自己反省法などとも云われます。ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)も内観の一種です。

経験上、若い頃は自己顕示欲が強く、感情的にもなり易いと思います。カッとなったり、羽目を外したり、舞い上がったり・・・・。これは自己確立・自己形成の成長期の段階では当たり前の状態のように思いますが、枯れてくる(歳を取る)と(笑)、感情の起伏も緩やかになってきますね。というか、怒ると血圧が上がるとか、興奮して動くと骨折したりするなど、肉体を労わる思考が先にガードをかけるように感じます。話がズレました^^;

どのようなエレメンタルを私たちが投影しても、それがいずれ自分に戻って来るという法則がある。

邪悪なエレメンタルを送るとすると、その対象となった相手は、送った人間と同じ周波数で振動している部分だけが影響を受ける。でなければ、それは彼のオーラにぶつかり、元の力の7倍になって、送った本人に跳ね返って来る。

メッセンジャー

「邪悪」とは、人を傷つける、憎む、蔑む、妬む、嫌う・・などの感情でしょうか。
日本の江戸時代には丑の刻参り(うしのこくまいり)がありました。これは、丑の刻(午前1~3時頃)に神社の御神木に、憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪いの一種です。
まるで邪悪なエレメンタルを送っているかのような風習ですね。恐ろしいです。7倍の力で跳ね返ってくるというのも恐ろしいです^^;

人を呪わば穴二つ」という諺は、人に害を与えようとすれば、やがて自分も害を受けるようになる。、というたとえです。呪いは、誰かに知られてしまえば効果が発揮しなくなるどころか、本人に跳ね返ってくるという伝承があり、呪詛者は人に見られないよう、そっと内密に行なったそうです。まさに上述の邪悪なエレメンタルを送った状態ですね^^;

良いエレメンタルを、まだそれを受け取る準備ができていない人間に送ったとする。すると、それはその人間のオーラにぶつかり、帰って来る。そのような場合、エレメンタルは彼のオーラに跡を残して来る。その力はそこに残り、その人間が似たような波動で振動する準備ができた時点で手助けをする。したがって、善はなくなることが決してないということを知っておいて欲しい。現世でなければ、この後の輪廻で、影響が出てくる。私たちが自分の敵だと思い込んでいる人たちは実際、無知なだけなのだ。

メッセンジャー

この考え方は、人々の祈りが、けして無駄にならないということを意味しています。勇気を与えてくれますね。たとえ、今生の現世で成就されなくとも、その人の次の転生先で影響を与えてくれるようです。

また、「敵だと思い込んでいる人たちは無知なだけである」とありますが、シルバーバーチは次のように云っています。

寛容性は霊性の真髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません。それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は’死’と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐れみを覚えるようになります。これは、悪や残忍や不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。

真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。

シルバーバーチの霊訓8 P125-6

このシルバーバーチの霊訓の引用の最後の文言が次のダスカロスの言葉へと繋がります。

自分たちを愛してくれる人たちを愛するのは、とても人間的で理解ができることだ。しかし、自分を憎んでいる人たちを愛するのは聖なる状態なのだ。それはスピリチュアルな面で私たちを向上させる。

メッセンジャー

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ここで私が思い浮かぶのは、「河野義行さん」です。
下記のリンクサイト様で詳しく紹介されています。

~人はいかに恨みから抜け出し、赦すことができるのか~

~河野さんいわく 赦しとは心の位置をあげることだという。
それは 任意の働きかけだという。周囲の人から ぼこぼこにされるような ことがあっても 心の位置は自分の任意で動かせるものだ~

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もし、わたし、自分自身が、このような事件に巻き込まれた後、河野さんのような心の状態に身を置けるのか、想像すらできません。

私たちの魂は、生まれ出でた原初からエレメンタルが作られ、転生のたびに継承され、カルマを形成していく・・・それは現世でも来世でも、各々の魂が直面いかなければならない。「神はその人に背負えない荷物は負わせない」「神は乗り越えられる試練しか与えない」と云われますが、誰もが道半ばなのかもしれませんね。

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