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9.想念形体(エレメンタル)~現世での解釈と事例と応用1

エレメンタルの解釈についてメッセンジャーでダスカロスが様々な例を挙げているので取り上げてみます。

人が外に投影したエレメンタルは、いずれそれを作った人間の潜在意識に戻ってくる。
この根源に帰るというエレメンタルの傾向が、カルマの法則を可能としている。
ダスカロスは過去世の中で印刷機を発明する考えに熱中していた。その執着の結果として、現世では現世では政府の印刷局で働くことになった。

私たちの今の性格や周囲の状況は、私たちがこの三次元に降り輪廻のサイクルを始めた時以来作ってきた数々のエレメンタルの総合的な結果である。

私たちの今の性格や周囲の状況は、私たちがこの三次元に降り輪廻のサイクルを始めた時以来作ってきた数々のエレメンタルの総合的な結果である。

この世界を良いところか悪いところか、どのように見るかは、私たちが自分の中にどういった種類のエレメンタルをつくり出して外に投影するかによって決まる。

自分に何ら価値のない事柄は、三次元の世界(現世)においても価値を持つことは絶対にない。自分の中で価値があるからこそ、外の世界でも価値があるものとなる。

エレメンタルが形成される時、そのイメージは左右二つの目の間にあるチャクラから出ている。そのエレメンタルはサイキック体(≒幽体)の後頭部に戻ってくる。

怒り、見栄、憎しみ、傷心や自惚れなど
のエレメンタルは、自己意識を持つ人格の中に既に形成されている。これは、(現世や過去生において)たくさんのエレメンタルが繰り返し作られてできた産物である。

ある人が邪悪な想念を他人に対して抱く時、彼の作り出すエレメンタルは蛇の形をとり、色は大体は不快な緑とか、いくつかの暗い色合いである。しかし、そのように見えるのはダスカロスの文化背景から連想するからで、他者では言語や文化背景で違うからコヨーテに見えたりもする。別に蛇や他の動物に固有の邪悪な性質があるわけではない。

エレメンタルはこの人生においてだけでなく、後に来る輪廻を通してずっと付いて回る。したがって、エレメンタルをつくる者は、遅かれ早かれ、自分自身が作り出したエレメンタルと対面する時が来る。

自分を嫌っている人々まで含めて、寝る前に愛の想念を送ると、心を鎮めることができる。このような行為で彼らの武器を取り去ってしまう。それによって、私たちを夢の中で苦しめるようなエレメンタルを送ることができなくなる。

メッセンジャーより

ここで「カルマ」が出てきました。「カルマ」とは「因果律」「業(ごう)」の事ですね。確かにこの世に初めて降り立った時から、何度も生まれ変わり、それぞれの人生でエレメンタルが作り出され、そのエレメンタルが消えることがなく付いて回るのであれば、まさにカルマに置き換えても同じですね。
カルマ(業)の説明をウィキペディアから抜粋して記します。

(ごう)とは、カルマ: कर्मन् karman[注釈 1])に由来し、行為、所作、意志によるの活動、意志による身心の生活を意味する語[2]。原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、暗いニュアンスもない[3]

仏教およびインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる[2][4]。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[4]。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、その原因を説くのである[5][6]。

業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である[7] これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる[8](善因善果、悪因悪果)[9]。
業 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2021年8月15日 (日) 07:55

業 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

シルバーバーチの霊訓では、あちこちで「因果律」が出てきます。幾つか紹介しましょう。

因果律というのは必ずしも地上生活期間中に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すと、その罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化であることだけは確かです。
(シルバーバーチの霊訓1 P180)

私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。
(シルバーバーチの霊訓3 P71-2)

業というのは詰まるところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。
(シルバーバーチの霊訓4 P81-2)

この引用の最後の、「それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。」の部分ですが、スピリチュアリズムでは、個人のカルマ、地域のカルマ、民族や国のカルマなどと表現することがあります。すなわち、多くの人は、育ってきた環境、地域に染まって生きていくのであり、その家庭や地域などの道徳や常識、慣例や風習などに影響を受けます。ですので、そこには、その「場」のカルマ、エレメンタルの濃いい偏りなどもあるかと思われます。

つづく~

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