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ピアノのバッハ 8: バッハが愛したクラヴィコード

ヨハン・セバスチャン・バッハ (1685-1750) は当代随一の鍵盤楽器奏者でしたが、モダンピアノが発明される以前に他界した音楽家でした。

ですので、バッハの鍵盤音楽は、パイプオルガンやチェンバロの音響の発想に基づいて書かれているというのが通説です。

教会堂に備え付けられた巨大なパイプオルガンや、演奏会場で伴奏などに使われた華麗な音色を持つチェンバロは、バッハにとってとても大切な楽器であることは疑いないのですが、実はバッハが普段日常的に使用していた鍵盤楽器はクラヴィコードという楽器でした。

ウィキペディアより

このような平板な箱型の楽器。

箱の内部には音を鳴らす弦が張り巡らされています。楽器というよりも、実際のところ、家具のような姿をしています。

叩いた鍵盤のハンマーの先に取り付けられた爪が弦を「引っ掻く」チェンバロとは別の構造の楽器で、鍵盤を叩くと、連動しているハンマーの先の部分が弦を「打ち付ける」というピアノに似た構造の楽器。

外見はともかく、楽器のタイプとしてはモダンピアノの先駆と言える画期的なものでした。

ルネサンス時代後期からバロック時代初期に発明されて以来、実は数百年もヨーロッパの裕福な家庭で最も一般的に親しまれていた楽器はこのクラヴィコードなのでした。

弦を爪弾くチェンバロは、構造的にクラヴィコードよりも複雑であるがために、より優雅で金属的で大きな音が鳴りました。

価格的にもクラヴィコードの方がずっと安価でした。

だからなのでしょうか、バッハもヘンデルもバッハの息子たちもハイドンもモーツァルトもみな一様に、クラヴィコードに日常的に親しんでいました。

モーツァルトは旅行先まで担いでいったクラヴィコードで数々のオペラを書いて、晩年のハイドンはチェンバロやピアノのない部屋でクラヴィコードを用いてオラトリオを作曲したりしていました。

寡聞にしてよく知らないのですが、ベートーヴェンの場合も子供の頃には親しんだのでは。

しかしながら、演奏会でクラヴィコードが使用されるということはまずありませんでした。

クラヴィコードが作り出す、フォルテピアノ(古いタイプのピアノ)とチェンバロの中間のような楽器の音は鋭い響きとは言い難い。親しみやすい音色だとも言えますが、あまりに音量に乏しくて、まるで現代の電子キーボードに似ています。

電子キーボードはアンプにつなぐことでたくさんの観衆のためのコンサートでも使用されますが、それ自身だけでは大きな音量は作り出せない構造になっています。

クラヴィコードは上部の蓋を閉めると、薄くて長細い箱になり、現代の電子キーボードのように持ち運びも可能。だからモーツァルトは持ち運んだのでした。

取り外すことのできる脚がついているものと、ついていないものもありました。

いわばクラヴィコードはバッハやモーツァルトの時代の携帯キーボードだったのです。

バッハのクラヴィコード愛

世界最初のバッハの伝記作家フォルケルは、大バッハはクラヴィコードをチェンバロよりも好んでいたと伝えています。

フォルケルは1749年生まれですので、1750年に死去したバッハに直接会ったことはありませんが、カール・フィリップ・エマニュエルやヴィルヘルム・フリーデマンといったバッハの息子たちと直接手紙を通じて親しく付き合ったことで大変に見事な伝記を完成させました。

息子たちから伝聞とはいえ、フォルケルの語るバッハの姿は一次資料の価値があります。

当時はほとんど忘れられていて、知る人ぞ知る存在だった伝説のバッハの生きざまが生き生きと描かれているのが素晴らしい。

モーツァルトの最初の伝記作家ニッセンがお姉さんのマリアアンナ(ナンネル)に取材したのと同じなわけで、非常に信憑性が高いのです。

1802年出版
ベートーヴェンが三十二歳の頃
ベートーヴェンが読んだという記録はありませんが。

バッハがクラヴィコードをチェンバロよりも好んだ理由は

  • 持ち運び可能だったこと

    • 弦が長く張られた、いわばグランドピアノの形をしたチェンバロは容積があり、持ち運ぶのは大変でした。

    • 箱型のクラヴィコードは比較的軽くて、普通の馬車の荷台に積むことも、立て掛けて座席に置いたり、膝の上に抱えて持ってゆくこともできました。

  • 調弦が容易

    • チェンバロ同様に演奏前には調弦が常に必要でしたが、クラヴィコードは弦を爪弾くチェンバロよりも、調弦は容易だったようです。張られた弦にハンマーの先が直接打ち付けるという、後年のピアノよりも単純な構造なので、調整もしやすかったでしょう。

    • ギター奏者が演奏前に調弦する感覚でしたのでしょうか。

    • バッハは割と複雑なチェンバロの調弦も自分でしたらしいので、クラヴィコードの調弦もお手の物だったのでは。

  • 強弱の表現が可能

    • バッハがクラヴィコードを好んだ最大の理由。

    • チェンバロやオルガンには強弱表現がないので、アクセントの付け方の習得がチェンバロ奏者やオルガン奏者の大切な技術なのでしたが、ピアノという楽器は「フォルテピアノ=イタリア語で強弱という意味」と呼ばれたほどに、鍵盤を押す力を変えることで弱い音と強い音が弾き分けらるという画期的な楽器でした。

    • 現代のピアノに通じる表現力をクラヴィコードは持ち得ていたのでした(響きが全く違いますが)。

    • まるで弦楽器や声のように、音楽の強弱を鍵盤楽器で行えました。

    • だからバッハはクラヴィコードを弾くとき、現代のピアノを弾くように、表情豊かに音の強弱を対比させていたはずです。クラヴィコードはとても表情豊かな楽器だったのです。

  • ヴィブラート!

    • さらには鍵盤楽器の中で唯一ヴィヴラートが演奏可能だったのです。

    • ハンマーの先が弦に直接触れて揺らすのですが、鍵盤とダイレクトに連動しているので、鍵盤を微妙に上下させると弦を震わせることができたのです

    • なんて単純な構造!

    • チェンバロではトリルで代用していた音の揺れも、弦楽器や管楽器、声楽のように表現できたのです

  • 代用楽器として最適

    • ですので、鍵盤楽器だけれども打楽器ではなく、クラヴィコードで弦楽器の音楽をまるで弦楽器の響きで演奏することも、ある程度までは可能でした。

    • バッハの弟子は、師匠が自作の無伴奏ヴァイオリン曲をクラヴィコードでよく弾いていたことを伝えています。チェンバロで弾くと音が派手過ぎて別の楽器の試し弾きには向かなかったでしょう。

  • 小さな音量

    • 出てくる音は小さいので、遠くの聴衆に音は届かず、演奏会には向きませんでした

    • ですが、家庭では家人が寝静まったあとに小さな音で音楽を奏でることができたのでした。

    • 甲高く良く響くチェンバロを夜中に弾かれると、家族ばかりか近所迷惑です。バッハは大家族を安月給で養っていた苦労人だったのですから。

    • 小さな音は作曲職人には最適な楽器だったのでした。まさにバロック時代のキーボード。

このような理由から、バッハがクラヴィコードを偏愛していたことは明らかですね。

ヴァージナルとの違い

箱型の家具のような鍵盤楽器と言えば、音楽史や西洋絵画に詳しい方はすぐにヴァージナルを思い浮かべますよね。

大英帝国の礎を築いたチューダー王朝のエリザベス一世はヴァージナルを愛好していて、かなりの名手であったと証言されています。女王が使用していた楽器も現代まで伝えられているほど。

エリザベス一世

しかしながら、クラヴィコードと似た外見とは裏腹に、ヴァージナルの発声原理はチェンバロと同様のものでした。

グランドピアノ型ではない、場所を取らない家具型チェンバロがヴァージナルだったのです。

ヴァージナルは、英国同様に海洋進出国家オランダの全盛期の富裕な子女のいる家庭に広く普及していました。

ですので、ヨハネス・フェルメール (Johannes Vermeer: 1632-1675) の名画にはヴァージナルが何度も描かれています。

ヴェルメールはバッハ生誕の十年前に亡くなっていますが、フェルメールの名画が伝えるような風景の世界にバッハは生まれてきたと思うと感無量です。

音楽は裕福な市民たちの贅沢な娯楽であると同時に、教養として商人たちの子女の大事な嗜みだったのです。

わたしはフェルメールを見るたびに、ヴァージナルの金属的な音色をすぐに連想してしまいます。

1670-1672
ちなみにバロック絵画の中で
楽器は「儚さ」の象徴
奏でられて空に消えてゆく音とは我々の命そのものなのです
1670-1672
1653-1675
1662-1665
ヴァージナルはルネサンス期からバロック期にかけて
新しい楽器のピアノが登場するまで広く愛されたのでした
でも家具としての価値を含めた装飾も含めて
クラヴィコードよりもずっと高価
鍵盤の数は時代や地方の製作者によって異なります
特注されて作られるのが常でした
だから置かれる部屋のサイズに合わせて大きさはまちまち
写真の楽器では三オクターヴほどしか音がありません
音域がピアノに比べると狭すぎ
画像は全てウィキペディアより。CCBY4.0です

イタリア製ヴァージナルで奏でられるインヴェンション第二番。この楽器は多角形。

家具なので長方形であるとは限らない。タンスの上に鍵盤が取り付けられていることも。

ピアノで弾くバッハの正当性

ですので、ピアノに似た音量表現が可能なクラヴィコードをバッハが偏愛していたという事実を踏まえてみると、バッハの鍵盤楽器をバッハが触れることもなかったピアノで演奏する是非などを議論することも意味深いわけなのです。

最晩年にベルリンで息子カール・フィリップ・エマニュエルが仕えるフリードリヒ大王を表敬訪問をした際にピアノの前身のフォルテピアノを弾いたという記録がありますが、老バッハの創作には影響は与えるには至りませんでした。

ですが、もっと若かったころのバッハはクラヴィコードでどんなふうに自作の傑作鍵盤音楽を奏でていたのでしょうか。

演奏会では決して使用されなかったクラヴィコードですが、バッハ時代の楽器でバッハを演奏するべきという風潮を受けて、当時の楽器の数々が原題にも再現されています。

YouTubeにはとても面白い動画がたくさんあります。

世界最高のバッハ演奏を無償で配信してくれているオランダ・バッハ協会 Netherlands Bach Society はクラヴィコードに関する素晴らしい番組を制作してくれていて、大変に感銘を受けました。

語られる言葉はオランダ語で英語字幕なのですが(日本語字幕なし)、音楽中心なので、理解は難しくないと思われますので、ぜひともご視聴ください。13分の素晴らしいレクチャーです。

バッハではなく、ハイドンの愛らしいエステルハージソナタ・ヘ長調(ソナタ第23番)から始まるのがユーモラス。

バッハがメインのプログラムのはずなのに(笑)。

バッハの楽譜の表紙に書かれている「Clavier = 鍵盤楽器」という楽器は何であるのかという永遠の謎を、チェンバロやクラヴィコードやスピネットといったバッハの時代の楽器などでゴールドベルク変奏曲のアリアを弾き比べて、楽器の構造などを説明してくれます。

Bebung(ベーブング)と呼ばれた、鍵盤で奏でるヴィブラートも実演しています。

1825年のヨハン・シャンツピアノや、1991年のスタインウェイピアノでも弾き比べて、バッハの時代には可能ではなかった音楽表現(長い残響はバッハの時代にはありえなかった)が検証されますが、最後まで、バッハの鍵盤音楽はどの楽器で弾くべきかの結論は出てはきません。

ですが、バッハにとって楽器はとても大切なものだったという学者先生たちの主張を踏まえると、ピアノの残響機能というピアノらしさを前面に打ち出した、ピアノでのバッハ演奏は正しくはないと言えるでしょう。

let's not beat about the bush
If we try to play Bach or Mozart as authentically
as possible on period instrument or replicas
with all the knowledge we've acquired
we should be happy if we can play it in a way
that the composers would recognise their own music
遠回しな言い方はしないではっきり言おう
我々が知り得る知識を最大限に使って
古楽器や複製で正統に
バッハやモーツァルトを可能な限り演奏して
作曲家たちが彼らの音楽であると
認識できるやり方で演奏できれば
我々はしあわせであるべきなのだ

後世の楽器であるモダンピアノを思いきり鳴らして奏でられるバッハやモーツァルト作品は、彼らに自分の作品であると認識されるのでしょうか。

よく言われることですが、楽器のピッチはバロック時代から現在のビッチはだいぶん上がっていて、当時のA=415~420hzは、現在ではA=440, または442。

つまり、現代のコンサートホールのハ長調の曲は、バロック時代の人の耳には嬰ハ長調に聞こえてしまうわけです。

以前、バロックヴァイオリンのクイケンのコンサートにゆくと、聞き慣れていたバッハの無伴奏曲の全ての曲が半音くらい低く調弦されていて驚かされました。

さて、ピアノ演奏では、スタカート気味なタッチでペダルもできる限り使わないというのが、現代のわれわれが知り得る限り、最もバッハ的に正しい「ピアノのバッハ」。

グレン・グールドやアンドラーシュ・シフのピアノにおけるバッハ演奏は、マルタ・アルゲリッチやスヴャトスラフ・リヒテルなどの弾く豪快なバッハよりも、バッハらしいと言えるでしょうか。

でもグールドやシフは、フルコン・モダンピアノのピアノらしさを押し殺してバッハを奏でているともいえるのです。シフの独特のレガートもまたグールドとは違い、バロック時代にはなかったものですが。

グールドのあの奇妙奇天烈なバッハ演奏は、実は非常にバッハ的なのです。

大学のピアノ科の先生は絶対にグールドの弾き方の真似を許容しないのですが。

残響が響き渡るホールでペダルを最大限に使って豪快に十八番のパルティータ第二番ハ短調を弾く、老いの衰えを微塵にも感じさせない79歳のアルゲリッチ。

60年以上、この曲を弾き続けてきた彼女。

わたしはドイツグラモフォンの1960年代のうら若いアルゲリッチのバッハ録音を長年聴き続けてきました。

そして動画は2020年のもの。

現代聴くことのできる最上級のバッハ音楽なのだけれども、バッハのクラヴィコードではこんな風には絶対に響かなかったことも間違いないのです。

小さな音色で独りだけで奏でる音楽

さて、クラヴィコードで奏でるバッハはどのように響くのか?

いろいろ聞き比べてみましょう。

まずは日本の演奏家の大藤莞爾さんの演奏。まずは「インベンション13番イ短調」。インベンションの中でも人気曲ですね。

初心者のための鍵盤音楽のインベンションは家庭用の音量の小さなクラヴィコードで弾かれるにふさわしい。

陽気で楽しい「インヴェンション7番ヘ長調」。

クラヴィコード演奏専門のメンノ・フォン・デルフト Menno van Delftmによる「半音階的幻想曲とフーガ」。

バッハの「ヴァイオリン・パルティータ」(本来はニ短調)をバロック演奏の大家ホグウッドが奏でると:

平均率曲集第一巻第一番も素晴らしい。バッハの時代には、派手なチェンバロよりもむしろ、このような家庭的なクラヴィコード演奏されていたはず。

わたしはチェンバロのキンキンした派手な響きがどちらかというと苦手なので、金属的な響きが若干後退しているようなクラヴィコードの響きをより好みます。

微妙な相似なのかもしれませんが、リュートやハープを鍵盤で奏でているような音色。

録音では録音マイクの捉えた音は大きな響きに聞こえますが、本来の音色はクラシックギターのように繊細な音色。

わたしには本物のチェンバロを購入するような経済力はありませんが、クラヴィコードならば購入できるかもしれません。

優れた電子キーボードはクラヴィコードの音色も見事に模倣再現してくれるのですが、やはり電子音よりもわたしはアナログな楽器を鳴らしてバッハやモーツァルトに親しみたいですね。

リストやブラームスやラフマニノフのモダンピアノの響きは比類なく華やかで素敵なのだけれども、19世紀以前の音楽を弾くにはあまりにも豪壮すぎる。

家庭向きのクラヴィコードのために書かれたバッハやモーツァルトの鍵盤音楽は、普段着の音楽、フェルメールの絵画に描かれたような世界の音楽にはもっと繊細な響きが欲しい

バッハやモーツァルトの家庭用鍵盤音楽には、チェンバロやピアノよりも、家具でもある楽器クラヴィコードが一番ふさわしいようです。

フェルメールのスタイルで書かれたバッハの肖像
Stable Diffusion XLで作成
似ているでしょうか(笑)
ピアノを奏でるバッハ
ピアノを奏でるバッハ

クラヴィコード、そんな楽器もあったのだと知っておいていただけると嬉しいです。

ピアノのバッハは演奏できる鍵盤楽器の多彩さゆえにとても興味深いのです。


追記:この動画、すごいです。自分もDIYするのでスウェーデンから取り寄せて作ってみたい。

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