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ピアノのバッハ 10: 三という数字による構成美

前回のゴルトベルク変奏曲のお話からの続きです。

1. 神憑った数学的構成

グレン・グールドの録音を長年偏愛して聴き続けてきましたが、ピアノ演奏を本格的に独学で始めたのは、クラシック音楽愛好家としてかなり年季が入るようになってからのことでした。

ですので、耳で完全にゴルトベルク変奏曲を誦じてしまってから、幾何学的とも呼びたくなるゴルトベルク変奏曲の不思議な楽譜に初めて接するようになったのでした。

楽譜を読んで驚きました。

ゴルトベルク変奏曲の中の変奏曲たちの構成の素晴らしさに。

音符たちの数学的有機性の見事さに。

神技としか言いようのない数学的な思慮の上に全ての音符が完璧に配置されていることにも。

バッハはまさに数字フェチにして究極の数学オタクなのでした。

音楽の数学的な追及の深さにおいて、バッハ以上にこだわった人物は、おそらく人類史上、どの文化にも、どの時代にも、どの国にも存在しなかったことは間違いのないことでしょう。

2. 一曲が32小節の音楽が三十二曲集まった曲集

2.1 主題のテーマはジャズ的なコード進行

まずは変奏曲の主題を始まりを眺めてみましょう。

最初の音符の一拍目には
二オクターヴ離れた
二つのソの音が同時に鳴りますが、
楽譜をよく見ると、二つの音符の間には
縦並びに二つの四分休符が置かれています
つまり四声の音楽なのです

主題は冒頭のアリアの一番耳に残るソプラノ声部(一番上のわかりやすいメロディ)ではなく、一番下のバスの主題。

バス主題は三拍子の付点二分音符なので、休みなく主題はアリア全曲を通じて絶えず鳴り響きます。

バスの主題(つまりコードの主音)から変奏曲が作り出されるのは、後々の20世紀のジャズのコード奏法とまるきり同じ発想です。

ジャズはコードという最低限の決まりごとに従って、テーマとなる音楽を変奏させるのですが、例えば、A7-D7-Gというコードは、ゴルトベルク変奏曲風に書くと「ラー、レー、ソー」ですね。

ゴルトベルク変奏曲風では、「ラー」はA7かもしれないし、Amかもしれないし、Adimかもしれない。

自由度がジャズ以上なので、ゴルトベルク変奏曲は限りなく多彩で自由なのです。

古典派やロマン派の作曲家は歌の主題(一番わかりやすいメロディ)の形を変えて変奏しましたが、バロック時代のバッハはジャズのスタイルと全く同じなのです。

つまり、ジャズがバッハを始めとするバロック時代の作曲家のスタイルを継承しているのです(バロック時代の通奏低音という記号がコードの源)。

最初の16小節の主題
ソー、ファ―、ミ―、レー、シー、ドー、レー、ソー
ソー、ファ―、ミ―、ラー、ファー、ソー、ラー、レー
と美しくト長調の音階を一音ずつ、
時には三度や五度で跳躍して、
ドミナントのレで前半終了

この主題、アリアの楽譜を眺めていても、なかなか気が付かない。

それはバッハが本来は演奏者が即興演奏で加えるべき装飾音をすべて楽譜に書き込んだために(演奏者は勝手なことをするなという指示でしょう)楽譜が複雑に見えるのです。

実際にサスペンションなどが加えられていて、よほど音楽に通じている人でないと、楽譜を眺めてもなかなか主題がどれなのか読み取れません。

実際の楽譜に描かれたバスのテーマを抜き出してみましたが、
赤紫の部分は先取音(アンティシペーション:次小節の音が早く表れる)と
係留音(サスペンション:前小節の音が持続して不協和音となる)のために
主題がわかりにくくなっている
後半の16小節
ジャズ的に書けば、コードでは次のようにも書けます
D7-G/B-C-Bm7- E7-C-Am-E
C-Bm-A-D- G-C-D7/F#-G

2.2 数学的シンメトリーな構成

前半16小節と後半16小節で合わせて全部で32小節。

三十ある変奏曲の一曲一曲は

32小節(16+16)の長さ

または第21番変奏曲や第三十番変奏曲のように息の長いテンポの変奏曲では8

16小節(8+8)の長さ

この場合はゆったりとした一小節が主題の二小節分を担います

繰り返し記号が付いていますが、リピートするかしないかは演奏者次第。

ここでの32小節という数字が大事。

そして全曲を見渡すと、曲全体は

アリア+30の変奏曲+アリア・ダ・カーポ(繰り返し)

1+30+1=32

という風に、32曲でできている。

形式としては、全曲はバロック時代に好まれた最初のアリアに始まってアリアに終わる循環形式。

完璧なシンメトリー。

主部の変奏曲総数は30なので

  • 三つに区切って10変奏ずつでまとめて三部にも

  • 二つに区切って15変奏ずつまとめて二部

とすることも可能。

音楽的にも、どちらでも区分できるようになっています。

実際に五つめの曲は区切りの曲として、それまでの四曲から違った作風の音楽へと切り替えるような役割を担う音楽が置かれています。

第5変奏曲は二段鍵盤を細かい32分音符が駆け巡る音楽でそれまでの音楽とは明らかに異なります。第10変奏曲はフーゲッタ、第15変奏曲は全曲中最初のの短調という具合に。

真ん中を区切る第16変奏曲は序曲の形式の音楽。全曲を二つに分けて左右対称にするのです。

三つに分ける場合はキリスト教の三位一体に通じます

カノン(輪唱)という、音楽の主題がまったく姿を変えることなく繰り返し繰り返し現れる音楽が、三曲めごとに置かれていて、三という数字が重要視されているのは明白です。

数学的にシンメトリにおいて優れた、曲全体の構成美が素晴らしい、非常に美しい外観を持った変奏曲集なのです。

まとめると、次のように表記できます。

32=1+30+1
32=1+10+10+10+1
32=1+15+15+1
32=1+3+3+3+3+3+3+3+3+3+3+1

三十二曲は曲の性質に応じて
このようなグループ分けも可能

3. 三拍子の世界

バッハはキリスト者なので、三位一体(父・子・精霊)を暗示する「三」という数字は非常に意味深い。

三は神学においては完璧な数字とされています。

西洋音楽で三拍子が大事なのには深い意味があるのです(偶数拍子は不完全なリズムとして、中世の教会では忌避されました)。

たくさんの面白い数字の3にゴルトベルク変奏曲では出会えるのですが、まずは主題のアリアが三拍子の音楽。

二拍目にアクセントのあるサラバンドという舞曲です。

冒頭四小節の装飾音を取り除くと
こんな単純な音楽に
タ・ター/タ・ター/タ・ター/
と二拍目の二分音符にアクセントが置かれる
アップビートの音楽がサラバンド

三拍子で踊る音楽のサラバンドなので、三十ある変奏曲の多くは三拍子に設定されています。

三拍子がこの曲全体の基本のリズム。

でも全て三拍子だと単調すぎるので、二拍子や四拍子も注意喚起のアクセントのように含まれます。

後世の作曲家シューベルトは、有名な未完成交響曲ロ短調を最初の二つの楽章を三拍子にしてしまったので、第三楽章の三拍子の舞曲の楽章を続けることができずに作品を途中で投げ出してしまったくらいですから、変化のある拍子のリズムの構成はとても大事なのです。

大貴族だけれども教え子だったエステルハージ嬢に対して、身分違いの恋をして失恋したから交響曲が未完成になったというのは俗説です(笑)。

多彩さと全曲の統一感を高めるために、バッハは偶数拍子の変奏曲でも、一拍の中に三つの音符を込めたりもしています。

同じ三拍子でも、四分音符で三つではなく、八分音符が三つだったり、十六文音符が十二個だったりする場合も。

非常に多彩な三拍子でいっぱいなのがゴルトベルク変奏曲なのです。

3.1 ゴルトベルク変奏曲に遍在する3

全曲を見回すと、第四変奏曲から第八変奏曲まで三拍子(四分の三拍子と八分の三拍子)が続いて、第九変奏曲はCに似た記号の四拍子。

https://mammothmemory.net/music/sheet-music/reading-music/common-time-and-half-time.html

第十変奏曲はアルファベットのCに似た記号に縦線の入った、二分音符を一拍と数えるアラ・ブレーヴェ(ルネサンス時代の教会音楽の声楽曲の拍子)。

第十一変奏曲は三の倍数の十六分の十二拍子。

そのあと三拍子が続いて前半最後の曲は平行短調の二拍子。ここで前半終わりを印象づけます。

後半部最初の第十六変奏曲は序曲と題された豪快なアラ・ブレーヴェ。四分の三拍子の第十七番の次の第十八番変奏曲もアラ・ブレーヴェ。

第十八変奏曲の冒頭
Cに縦線の拍子記号は
「拍子は全てブーレヴェ(二文音符)」
または
「不完全拍子の四拍子を半分で=
だから縦線で二つに分けている」
という意味
第十八変奏曲はアラ・ブレーヴェに最もふさわしい
教会音楽の手法で書かれています

第十九番、第二十番は三拍子。

第二十一番はCの四拍子。

そして第二十二番はアラ・ブレーヴェ。

その後は締めくくりの第三十番「クォド・リベット=お気に召すまま」まで、十八拍子を含めた三の倍数の拍子の音楽が連なるのです。

3.2 全ての変奏曲の特徴のまとめ

でもこんな風に文章で書いても分かりにくいだけなので、各変奏曲の特徴を次のような表にしてまとめてみました。

ウィキペディアにも似たことが書かれていますが
わたしの分析の方がわかりやすいはずです
安易にウィキペディアに頼らずに
こんな風に自分で考えてみると
新しい知識は自分の血肉となります
楽譜を読んでみると
クラシック音楽はより一層面白くなります
勉強すると知識を学ぶと楽しいのがクラシック音楽
この点においてはクラシック音楽は
一生涯楽しめる、奥の深い趣味です

32曲のうちで3拍子は20曲(緑色で塗られた表の二列目)。

偶数拍子は12曲(青色)。

でも偶数拍子の曲も、複合拍子を採用している場合は音符は三分されることも。

3という数字が支配しているということは、もしかしたら教会音楽家のバッハが娯楽作品にも神の遍在を込めているというような深読みもできるかもしれません。

3.3 メロディの二重奏、三重奏、四重奏

多声音楽なので、いくつの声部がどの曲にあるかの理解も大事。

三声の音楽は三位一体の3に通じているのでしょうか?

全体として、二声(12曲)三声(14曲)四声(6曲)と、3声の音楽が最も多い配置になっています。

意図的ではなく、偶然だと言い切れるでしょうか。

三声は右手と左手の三重奏。

二声よりも変化に富んでいて、四声ほど複雑ではなく、演奏も一般的に四声よりは容易。

やはり三声が多いことから、音楽的な専門性よりも娯楽性を重んじているなという印象を受けます。

二声の場合(右手と左手の二重奏)は単純な曲になりがちなので、たいていは速いテンポになります。

ですが、四拍子を細かい音符(32分音符)で分けたりすると、響きが煩雑になるので、自然とテンポも遅くなったりします。

こうした音楽の常識は楽譜には書かれていないバロック時代の決まり事である暗黙の了解。

第三変奏曲(右手と左手の三重奏)は八分の十二拍子(複合拍子)。

第三変奏曲の後半部
赤と橙と青で三つの声部を色分けしてみました
右手は見事なユニゾンのカノン(次回に解説します)
左手は完全に独立したメロディ(伴奏ではありません)

この曲は四拍子なのですが、左手の四分音符は三つの八分音符に分けられた複合音符。

12を4で割ると三なので、全体で12の八分音符、一拍当たりは三つの音符が含まれるのです。

こんな風に偶数楽章さえも、全曲を通じて全く三だらけ。


偶数拍子が三拍を含むという複合拍子( Compound Meter)の解説については次のNote記事が秀逸です。

3.4 二拍子と三拍子の違い

音楽的に、三拍(1、2,3)というのは行進するための基本の二拍子 (1,2,1,2,)とずれています。 

1, 2, 3,

では行進できません。

右左、右左という手の動きに動きに合わないからです。

人間の歩く基本は二拍子、でもなぜか踊るときの舞曲の多くは三拍子(二拍子のダンスもありますが)。

三拍子は、自然の歩みとは違った良い意味で人工性な拍子。

言い換えるならば、音楽的芸術性をすぐに実感させるリズムです。

三拍子が西洋音楽特有のリズムなのかは分かりませんが 、三位一体に通じる三拍子はバッハにはとても特別なものなのでした。

三拍子が西洋音楽で極端に重要視されるのはキリスト教文化を背景に持つ欧州文化の特徴でもあります。


四拍子がCの記号で書き表されるのは、完璧な数字の3が完全な円=○だとすれば、四拍子は完全数3(円)よりも歪という意味です。

不完全な円、円の右側が欠けた形として表記されて、アルファベットのCによく似た記号が拍子記号として使われるようになったのです。

英語のCommon TimeのCではありません。

クラシック音楽の楽譜には不完全円のCの記号によく出あいます。

西洋古典音楽の数百年の歴史の名残りなのです。

ウィキペディアより
9拍子は二重円・3拍子は円
この二つはPerfectum(完璧な拍子)
6拍子は欠けた二重円
2拍子は欠けた円=C
この二つはImperfectum(不完全な拍子)
234と一拍目を強調する4拍子は比較的新しい拍子で、
キリスト教中世には存在しませんでしたが
のちにCとCに縦線でそれぞれ偶数拍子は表現されるようになるのです
Alla Breveとは拍子の全てがBreve=二部音符という意味
英語的にHalf timeだと
四拍子が二つに分けられているという意味
4/4の省略形に見えるCですが、実は不完全円の4拍子が始まり
数字表記はバロック時代に始まった新しい記譜法でした
Common TimeのCではありません
第九変奏曲の冒頭
Cの記号は四分の四拍子を意味しています
(三拍子ではない不完全な音楽!)
この場合は右手の八分音符は四つでつながれていて
リズムは二拍のようにも見えますが
Cなので二拍子として演奏してはいけません
速度が速くなりすぎます

4. バッハの書いた生涯最高の娯楽音楽

ゴルトベルク変奏曲は、弟子たちの教育目的のために書かれた生真面目すぎる平均律曲集などとは違って、カイザーリンク伯爵の眠れぬ夜を楽しいものにするためのエンターテインメントな音楽なので、音楽的に大変に多彩で、異なる曲想の音楽が順番に現れるように計算され尽くしているのです。

バッハは生涯のほとんどを真面目な教会音楽のために費やしましたが、例外的にケーテンの宮廷楽長として娯楽音楽の創作に精力を尽くした数年間がありました。

1717年から1723年までの五年ほどの期間、バッハは後輩のハイドンのように、アンハルト=ケーテン宮廷の宮廷楽長でした。

ブランデンブルク協奏曲や、無伴奏ヴァイオリン曲などの室内楽や、結婚カンタータなどの世俗的な音楽(エンターテインメントな音楽)を世に送り出した奇跡の数年間です。

1741年出版のゴルトベルク変奏曲は、その後の人生を教会音楽家として過ごしながら、作曲家として成熟したバッハが、人生の終わりに近づいた頃に創作した、音楽愛好家のための数少ない娯楽作品

こんな作品が面白くないわけがないのです。

何度聴いても飽きることがないのは、バッハによって徹底的に計算されつくした設計ゆえなのでした。

バッハは作曲家として完璧なデザイナーなのでした。


次回はゴルトベルク変奏曲の核心であるカノンについて。

コーヒーをたしなむお父さんバッハと
長女カテリーナ・ドロテア・バッハ (1708-1774)
「コーヒー・カンタータ」のコーヒー大好き娘は
バッハの娘たちがイメージされているのでしょうか
SDXL1.0による想像図

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。