削除された「鏡の国のアリス」のエピソード(1)
八回にわたってノンセンス物語詩「スナーク狩り」を語り終えましたが、ルイス・キャロルにはまだまだ書きたいことがたくさんあります。
そろそろ別の作家に取り掛かりたいところですが、ルイス・キャロルという人は非常に興味深い人物でいまだ語り足りない。
数学者ルイス・キャロル作品の数学パズル的な側面にはあまり興味はないのですが、彼の発達障害、自身が発達障害を持つゆえの得意分野への天才的発想、発達障害であるがゆえに同じ発達障害を持つ人たちへの高い関心と同情に非常に興味があります。
「スナーク狩り」の登場人物たちや、アリスが不思議の国や鏡の国で出会うおかしな人たちは例外なく、類型的に分類できてしまうほどに特殊な人格をもった人たちばかりです。
小説を読むことは、一般的に現実の人生についてのさまざまな分析や考察を読むことができて、他人の人生を追体験できることが素晴らしい。
その意味において、夢の中のノンセンスなアリスの物語など、読んでも何の役にも立たないと言われるかもしれませんが、発達心理学という学問が社会的に教育的に非常に重視される時代、発達障害や精神病的困難を抱える人たちのオンパレードであるルイス・キャロル作品を読むことはますます価値を持つわけです。
発達障害な人の特徴は、自分の得意分野では天才的な活躍をするのに、それ以外の分野では社会的・機能的な欠陥を露わにすること。
社会的に他の人と協調することが苦手なのは、自分の気持ちに正直すぎたりするためでしょう。ある意味、非常に子供っぽい。馬鹿正直すぎるのです。
ここではあえて発達「障害」と書きますが、脳の構造が世の大多数な人たちとは少しばかり違う人たちが障害を抱えていると社会が認定することは問題ですが、発達凸凹な人はあまりに個性豊かすぎるのです。
ですので、発達障害を持たない人には、そんなクレイジーな登場人物ばかりに出会うこれらの本は精神的問題を抱えた人たちのことを知るための最良の教科書とも呼べるかも知れません。
例えば:
白ウサギ: 時間に遅れるという強迫観念に駆られている典型的な自閉症な人物、こだわりすぎて別の思考ができない、手につかない人の典型。
三月ウサギと帽子屋: 儀式的な行動を好む典型的ASD行動の持ち主たち。自分たちが決めた独特の決まりとやり方でしないと気が済まない。だから彼らのお茶会は何とも滑稽。
チェシャ猫: 気まぐれでユーモアのセンスが非常に独特、これもASD的典型。こういう人は作品を作り始めても未完成で投げ出す。チェシャ猫はすぐにいなくなる。作曲家のシューベルトのような猫。
伯爵夫人:どうでもいいことにこだわり、教訓をありとあらゆることから導き出そうとする。社会性の欠如は明らか。
グリフォン:自分と意見が合わないとすぐに攻撃的になる。この特徴は本当に困りものです。
トランプの赤の女王: あまりに感情豊かで、感情的。Off with his head!=首を切ってしまえ!と腹が立つと情緒をコントロールできない。これもASDな人がよく苦しんでいる。ADHD的でもある。
ハンプティ・ダンプティ: 唯我独尊、自信過剰、他人の意見を受け入れない。知能の高い自閉症者の典型。天才型。
ドゥードルディーとトゥードルダム: 他人の意見を聞かず、相手の気持ちを一切かまわない。一緒にいると大変です。
書いてゆけばキリがないのですが、このような偏った考え方をする人ばかりに「小さな淑女」であるアリスは出会い、どんなに丁寧に対応しても、彼らにひたすら罵倒され、または揶揄われるのです。
アリスの本を読む子どもたちは、躾を守るいい子のアリスが思いもかけない無礼に出会うのが楽しいのでしょうか。わたしは子供のころはアリスのどこがおもしろいのかさっぱりわかりませんでしたが。
さて、今回はまだあまり知られていない「不思議の国のアリス」の続編「鏡の国のアリス」から割愛されたエピソードのお話。
失われた物語に登場していたのは、老いの苦しみを抱えた不思議な人物でした。
出版されて広く知られてきた「鏡の国のアリス」には含まれてはいないお話は非常に興味深く、アリスの物語を少しでも面白いと思われる方はぜひ読んでみるべきです。
物語を推敲するとは
原作者が創作活動をするとき、出来上がった作品を推敲校訂することは当たり前に事ですが、ホラー小説作家のスティーヴン・キングは
という名言を残しています。
つまり一万字の作品を書き上げても、キングは九千字になるまで推敲するというのです。それがキングの数々の名作の秘密。
とても良いと思われる完成度の作品に落ち着いても、そこから重複した内容や文章の形容詞などを削ってさらに簡潔にすると作品は完璧になるのだとか。
勇気ある行動です!
自分が愛情と労力を注ぎ込んで完成させた作品の一部を割愛することは時には断腸の想いさえも思わせますが、そういうことは文章を彫琢する上で非常に大切な作業です。
わたしもまた、このNoteの投稿で書いた文章を思いきり伐採することを繰り返して完成稿を作り上げて、できるならば数日そのまま寝かせておいて、再度読み込んで、さらに磨き上げて初めて「公開」します。
でも時には削ってしまった内容を捨てられないことも。
そこでルイス・キャロルですが、最近「鏡の国のアリス」を再読して、キャロルにも割愛削除した章が存在することを知りました。
最初の草稿を読んだ、実績ある挿絵画家のテニエルは、この章には絵を描きたくないと作者に手紙を書いて、ダメ出ししたのです。テニエルが作画拒否した背景には、彼個人の問題があるようなのですが、それはまた次回に。
そういうやりとりがイラストレーターと作者の間にあったことが手紙から長いこと知られていたのです。
やがて作者の死後、80年ほども経た、1974年のこと。失われた草稿が発見されたのでした。
見つかった草稿から、まだ完全に完成に至っていない段階で不採用になったことがわかります。
ですので、いま削除された章を読むと、本格的な手直し前なので、前後のつながりがいささかおかしな感じがしないでもないですね。
前後のつながりにいささか統一感が欠けるのは、作者はおそらく出版前に必死に手直したであろうという証拠。キングの言葉に通じます。
削除された章、この段階では完成度は少し落ちるけれども、短編として読んでも悪くはない。内容はルイス・キャロルらしい言葉遊びもあり、人物の造形にも真実味があって、なかなか読み応えのあるものです。
タイプされた原稿に作者自身の肉筆でいろいろ手直しのペンが入っていることなどから、わたしはこの章を作者の真作であると思います。
どういう経緯で作品完成後百年もの月日を経て、突然失われた章が陽の目を見るようになったかは不可解ですが、まだ知らなかった別のアリスが読めるのはなかなか意味深いと思います。
成長して子供らしさを若干失ったアリスの物語「鏡の国のアリス」(1771)
まずは「鏡の国のアリス」がどういう物語だったかを少しばかり復習してから、それから削除された作品を読んで見たいと思います。
ルイス・キャロルの出版された二冊のアリスには、当然ながら作者自身の人生の出来事が色濃く刻み込まれています。
ルイス・キャロルの本名はチャールズ・ドッジソンですが、前回紹介した英国王ジョージ六世のように吃音障害を患っていて、自分の名前を満足に発音できなかった人でした。
本人はドッジソン Dodgson ではなく「ドッドソン Dod'son」みたいな発音をしていたそうです。
だから自分のことをおどけて絶滅した「Dodoドードー鳥」と呼んでいたほどでした。
自己紹介するたびに「ドッドソン」と名乗っていたのです。
「不思議の国のアリス (1865)」にドードーが出てくるのは当然のことでした。ドードーには馴染み深かったのです。
そして鳥や動物たちがあふれかえった、あのレースの中の動物たちはそれぞれ作者がよく知る人物たちがモデルなのだとか。そこには作中のアリスのモデルとなった、アリス・リデルの一家も含まれています。
アリス物語創作のきっかけとなった、ドッドソンの上司であるリデル一家の子供たちは作品創作のインスピレーションでした。
ドッドソンは彼らとの数年間の家族ぐるみの交際を人生最良の時間に一つとして大切にしましたが、同時に子供たちの成長して変わりゆく姿を眺めていないといけない時間でもありました。
イナ(ロリーナ)、アリスやエディスの三姉妹にドッドソンが初めて出会った頃は、下の二人は小さな子供そのものでした。
発達障害を持つ人の多くが子供好きなように、ドッドソンは彼女らを子ども扱いせずに友人として遇しますが(30歳の独身男ですが、彼のような人物は子供を子供扱いせずに一緒になって同じレベルで遊ぶのです)、子供は成長して、幼虫が蛹になって成虫になるように、どんどん変わってゆく。
物語の主人公の名前になったアリスと出会ったのは彼女が5歳頃で、聡明で可愛いアリスが大好きだったドッドソンは彼女に10歳の時に話したお話を2年かけて出版しましたが(「地下の国のアリス」という世界に一冊しかない私家本をアリスにはプレゼントして、その作品を膨らませたのが「不思議の国のアリス」)、本を出版した頃に12・13歳となってしまっていた思春期のアリスは、もうあの頃のあどけない子供のアリスではなく、アリスはチャールズおじさんにもはや関心を全く示さなかったのだとか。
よくある話です。
子供が子供のままである時間は本当に短いもので、大人は、あまりの子供の変わりように悲しく感じることも多いものです。
なんとなく世界名作劇場の「愛少女ポリアンナ」1985年放映の挿入歌を思い出しました(笑)。「今のままでいて」という願い。切ないです。
「幸せ探しゲーム」Glad Gameというどんな悲劇的な悲しい出来事の中にもポジティブな一面を見つけて、いつでもポジティブ思考を失わないでいようと信じて生きる不幸に見舞われ続けるポリアンナもまた、大人になって子供だった自分を忘れてしまったのでしょうか。
「赤毛のアン」シリーズを読んでも、アンが大人になってゆく続巻以降は最初の本ほどには面白くないのは同じ理由だからでしょう。
さて、実在のアリス・リドルですが、80歳過ぎの長命を生きたアリスの生涯を知ることはドッドソンの幸せはまさに本の中にしかないのだなと思わざるを得ないのです。
子供らしさを失わないチャールズおじさんが好きだった、おませだった小さな女の子はすぐに成長してしまいました。アリスは子供だった頃を忘れて、判に押されたような典型的な上流階級夫人の一生を送ったのでした。
ドッドソンが愛した、小さなアリスは幻のようなものだったのでは、と思わざるを得ません。
ドッドソンはアリスのリデル一家との交際をやがて上司の大学内の政治抗争などから敬遠するようになりますが、ドッドソンはあの幸せだった時間を忘れないために、あの頃のアリスの思い出をアリスの本に込めたのでしょう。
それが次作「鏡の国のアリス」。
前作「不思議の国のアリス」では、ネズミたちに天敵の猫の話をするなど(つまり子供らしく相手の都合を考えたりしない)天真爛漫だった七歳のアリスは、新作では六か月後の七歳半に設定されていて、「鏡の国のアリス」のアリスは前作よりもずっと思慮分別のある、ずっと大人びた子供として描かれているのです。
夏の日の光の中にいた無邪気な前作のアリスは、「鏡の国のアリス」では暖炉の火が部屋を温めている冬の室内から夢の世界へと赴きます。
大人びたアリスは、ハチャメチャな前作とは違う、鏡面世界という正反対の世界だけれども規律の整ったチェスの世界を旅して女王となります。
でも、女王への昇格とは、おそらく子供の時代の終わりの象徴なのでしょう。
八歳を前にして子供時代の終わりとはずいぶん早熟な子なのですが、女の子はそんなものでしょう。
物語のモデルとなった実際のアリスは10歳だったのですが、彼女の年齢を七歳に下げたのは作者であり、半年でアリスがずいぶん変わってしまったと作者が思った印象がおそらく含まれているのでしょうか。
でも早熟な女の子は八歳にして恋愛ばかりに空想を思い描いたりしています。
異性への関心は大人の世界の始まりです。
「鏡の国のアリス」が出版されるのはさらに6年後のことで、アリス・リデルはもうすでに、恋を知っていて結婚を夢見る19歳の美貌の少女でした。もはやあの頃の面影などどこにもない、外見はとても美人だけれども、ある意味、面白みのない平凡な女性になっていたのでした。
アリス・リデルは子供のために書かれた「鏡の国のアリス」をもう面白いと思わない年齢だったことでしょう。
陰鬱な鏡の国
「鏡の国のアリス」はしばしば暗い作品であると評されます。
夢の世界なのに、作中には前作にはなかったチェスのルールの厳格な支配があり、前作ほどの自由さが失われているからです。
そして作品の最後に掲げられた詩には、アリス・リドルの名が隠されていてるのです。
おそらく本作は、作者にとってあれほど大好きだった(子供の頃の)アリスへのお別れの本だったのではないでしょうか。
人は人生の節目を刻むために儀式的なことを行うものです。結婚式や記念日の旅行やパーティなどです。
自閉症な人は儀礼的なことが大好き(自閉症という概念が発見されたのは20世紀も半ばのことで、19世紀人ドッドソンは医学的診断など受けてはいませんが、彼の天才は間違いなく発達障害によるものだと私は思います。モーツァルトやダ・ヴィンチやゴッホなども同様です)。
ハンプティ・ダンプティがプレゼントを「非誕生日のプレゼント」と名付けることにも通じます。
作品を締めくくるのはこういう詩です。
太字の部分に注目してください。
「鏡の国のアリス」とはそういう作品です。
アリスが女王に昇格する前の失われた章
唯我独尊なハンプティ・ダンプティや心配性の白の女王などのユニークなキャラ、そして「ジャバウォック退治」や「セイウチと大工」など多彩な詩で彩られた大傑作「鏡の国のアリス」。
でも「鏡の国のアリス」にどこか悲壮感が漂うのは当然のことでしょうか。
上記の詩の言葉には嘆きが込められている。訳してみます。
赤のナイトを仕留めた (チェスなので駒を取り合います) 勇敢な(でも非常にずっこけた)白のナイトは彼自身が作り上げたという渾身の詩をアリスのために読み上げて、別れを告げてさってゆきます。
アリスはこのナイトのことを何年の後にも鏡の国の出来事の中で最も印象深く覚えていたと作者は書いています。作者の願望そのものでしょう。
老いた白のナイトはアリスに感動的な別れを告げる(本人はそう思っている)。
こういうキャラは、アリスの物語には他には誰もいない。
ナイトはアリスがクイーンとなり、別の存在になってしまうことを知っている。だから大袈裟に別れを告げて去ってゆく。
こうして読んでゆくと、前作よりも大人びたアリスの物語は悲劇にならないでしょうか。
失われた一章は、このナイトの別れとのすぐ後に置かれていました。
ポーン(歩兵)だったアリスがチェス盤の一番向こうにたどり着いて、女王に昇格する直前の一章(出版された完成版の中では長大な第八章の後半部分。この章は作品構成的に長すぎるのです。本の中で最長な章。きっとこの一章が割愛されたので全体のバランスが悪くなったのです)。
ここに置かれていたことに、わたしは特別な意味深さを感じますが、そのことはまた次回に。
さて、作者の分身である落馬ばかりしている白のナイトが読み上げる別れの歌を聴き終えてから、アリスが女王の王冠を手に入れる手前の部分の文章、それでは読んで見ましょう。
The wasp in a wig 「かつらを被ったスズメバチ」
「鏡の国のアリス」の第八章
白(White)の騎士(Knight)ナイトと別れて、いよいよチェス盤の八つ目に足を踏み入れようとするところ、この部分をから訳してみます。
本によっては間が空いていないこともありますが、「鏡の国のアリス」の初版本では次のようなアスタリスクで、マス目が変わったことを表していました。
チェスのマス目の境界とは、1から8の縦の列のこと。
女王になる一歩手前で
さてアリスですが、本文は従来は She bounded across… (飛び跳ねて)という文で切れていて、そこにマス目の境界の空欄が置かれています。
飛び跳ねたという表現で間にアスタリスクが数行あり、続きは
へとつながります。
そして王冠を見つけて、女王に昇格するのです。
ですが、上述のように、実はこの空欄には割愛された章(または数段落)が存在していたことになります。
空白にあったかれども削除された章…
ここから幻の章の本文です。
「… as She bounded across,(飛び跳ねて)」から続けて…
こうして女王になって昇格を目の前にしたアリスは、女王らしい振る舞いをしようと特別な親切心を奮い起こして、癇癪持ちのスズメバチおじいさんに話しかけて、二人の物語が始まります。
次回に続きます。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。