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傑出して美味しいフレンチトースト / 『クレイマー、クレイマー』

皆さんこんにちは。
いかがお過ごしでしょうか。わたくしはと言いますと、映画を観たいという想いと映画に費やすことのできる時間との均衡が全く取れておらず、悲しみに暮れているところです。超過需要といったところでしょうか。嗚呼、映画を浴びたい。

とは言いつつも、今年もいよいよ終わりに近づいてきたので毎年恒例、年間映画視聴本数をカウントしてみましたところ…
見事300本超えました。嬉しい。非常に嬉しい。


持論として、
「愛は量ではないが、量は愛である。」
と言うものがありまして。

やはり、好きならば止めることは出来ないし、その結果としてたどり着くのは量であると思うのです。無論、量があっても密度がなければその意味は皆無な訳ですが、体積だけを誇示するような奴はそもそも論に組み込んでおりませんので…

とにもかくも、2022年は個人的には中々に手強い1年でしたが、満足いくまで映画を愛せた点に関しては、いつになく充実した1年に思います。
まぁ、まだ11月半ばですし、明日何が起こるかわかりませんし、大晦日に落ち着いて美味しいお蕎麦が食べられるように残りの1ヶ月半も励みます。




前置きが長くなりましたが、
今回は、みなさんご存知『クレイマー、クレイマー』について論じたいと思います。

ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープが共演し、離婚と親権、親と子の在り方を描いた本作は、1979年度のアカデミー賞において作品賞、監督賞を含め多くのタイトルを獲得しました。


本作を論じるにあたって、ひとつ問題を提起したいと思います。
「本作における、法廷場面挿入の意義とは何か。」です。


そして、その結論としては、クレイマーとクレイマーの対話への会場提供と、法と愛の冷温のコントラストを指し示す役割を担っていると考えました。



本作は、大きく2つのプロットに則って構成された作品です。
1つ目は、父親であるテッド・クレイマーの成長、2つ目は、子供の親権をめぐる問題です。

まず、繰り返し挿入される反復描写に見出されるのは、テッド・クレイマーの父としての成長であり、例をあげるなら、息子ビリーを学校へ送りに行くシークエンスでは、初めはビリーの学年さえもわからないかったテッドが、後半に挿入される同様のシークエンスでは、父として息子を叱り、余裕を持ってタクシーを捕まえる(前半では、慌ただしくタクシーを捕まえようとする姿を見せている)様子が描写されています。

息子の学年が分からない、父テッドを映したシークエンス
父として息子の非を叱る様子を映したシークエンス


また、テッドが解雇されるシークエンスと、裁判に負けて上訴するかを弁護士と話し合うシークエンスでは、同様の構図(この時、店の間取りや人物の配置までもが酷似している)が用いられており、どちらもテッドが相手を残して店を出て行く様子が描かれています。
しかし、ここには心情面での明確な違いがあります。前者は、どこでも良いから翌日中には再就職しようとするといった、息子を手放さないためには手段を選ばない自己中心的なテッドの姿が描写されている一方で、後者では、ビリーを裁判に持ち出すぐらいなら、自分が親権を諦めた方がビリーにとって幸せであると考え、子の幸せを最優先させる親として成長したテッドの姿が描写されているのです。

前者のシークエンス
後者のシークエンス



そして、本作における反復描写で最も秀逸なのは、間違いなく、作品の冒頭と結末に挿入されている“フレンチトースト”のシークエンスです。

この2つのシークエンスでは、父と息子の“フレンチトースト”を作る過程でのコンビネーションと物理的なフレンチトーストの出来栄えに、テッドの成長や親子の絆の増幅が説明されています。

しかしながら、このとき最も注目すべきはその点では無く、カメラの「被写界深度」です。

焦げたフレンチトーストを慌ただしく調理する前者では、クローズアップやミディアム・クローズアップが多用されており、さらにはOTSショットを挿入したりと、テッドとビリーが同時に画面に収まる瞬間がほぼ無く、両者の表情が同時に伺えるタイミングは皆無です。
一方で、別れを惜しみながら、物悲しくフレンチトーストを調理する後者のシークエンスでは、ロング・ショットとまではいきませんが、前者と比較して被写界深度が深く、テッドとビリーの両者が同じ画面に収まっています。

濱口竜介監督作品、『寝ても覚めても』のラストシーンでしばし説明されているように、例え両者が今後は違う道を歩もうとも、同じ画面に収まっているだけで、そこには強固な心理的結束が見出されるというセオリーが本作においても見受けられます。

以上のように、テッド・クレイマーの父親としての成長を反復して挿入する描写によって描いていますが、それは神の視点にある我々観客にのみに与えられた情報であり、テッド・クレイマーと対立関係にあるジョアンナ・クレイマーは知り得ません。

彼らの不調和の原因とは、互いの話に耳を傾けなかったことにある、という事実は作中で度々言及されており、本作における裁判シーン挿入の意義とは、彼らの真摯な対話への会場提供と、法が持つ“冷たさ”と、家族愛が持つ“温かさ”のコントラストを指し示す役割を担っていると考えます。

裁判のシークエンスにおいてジョアンナは終始目に涙を浮かべており、その理由とは、テッドの父親としての姿に心を動かされているから、そして自らの愚かさ動揺しているからに他ならない。
加えて、冒頭のジョアンナが家を出ようとするシークエンスにおいて以下のような、シーンが挿入されています。

このように、部屋にポツンと置かれた1つカバンは、親の身勝手さとそれに伴うビリーの孤独をメタ的に表現しているように見受けられます。

裁判所において弁護士に詰問されるジョアンナは、その“冷たい”空間で、テッドへの“温かな”愛情を見出し、さらにビリーを実は等閑にしている事実に気がつくのです。

テッドに関してもジョアンナに関しても、当初は自分本位な人物として描かれていますが、このように裁判所における両者の対話を通じて、次第に親としての責任と自らが大切にしたい事柄の再発見を成し得る。それが決定的にラストシーンで描かれています。
ジョアンナは裁判で勝訴したもののビリーの幸せを考えて、親権はテッドに譲ることを示唆するようなオープンエンドで締め括られるのです。






思いの外長くなってしまいましたが、以上、わたくしが『クレイマー、クレイマー』に見出した"傑出して美味しいフレンチトースト"論です。

最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、フレンチトーストにアイスクリームをトッピングしてあげたいぐらい嬉しいです。

ありがとうございました。

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