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二重化されたスクリーン / アッバス・キアロスタミ

皆さん、こんにちは。
日に日に秋の香りが強まってきて、嬉しく思う今日この頃です。

新学期も始まり、夏休み中のように飲むように映画を見る日々とはいきませんが、自分のペースでゆっくりと映画に向き合っております。


私が夏休み中に読んだ本の1冊に、
ジャン=リュック・ナンシー著『映画の明らかさ アッバス・キアロスタミ』
というものがあります。

これに大変感銘を受けまして、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーについて興味が湧いては湧いて仕方なかったところに、タイミング良くナンシーのシンポジウムがやっておりまして、無論そのシンポジウム、拝聴しました。

というように、お陰様で私の夏の後半戦は「脱構築」の理解に費やされたわけですが、今回は本作に触発されたキアロスタミ作品に対する私の思考を、本記事にて綴ろうと思います。




キアロスタミを語るとき、やはりキーとなってくるのは "車窓" でしょう。

彼の作品のその多くが、ロード・ムーヴィーとどこかの誰かが称することもあるように(その形容に関しては議論の余地があると大いに思いますが)、車での移動の中で紡がれる物語です。

ハンドルを握り、前進する主人公は時に車を止め道ゆく人に話しかけます。

そのときカメラ・アイは、スクリーンそのものと、それと同一線状にある車窓のフレームを2段階に捉える、即ち、スクリーンを二重化します。


ナンシーが引用したゴダールの言葉を、ここでも引用しましょう。

大切なものは視線の中にあるのであって、主題の中にあるのではない。スクリーンの上にあるものは既に死んでいて、それに生命を吹き込むのは観客の視線だ。

ナンシーが言うことには、存在するということは、何らかのものがあるのではなく、それが続くということであり、映画は映像(=イメージ)ではなく、非連続性が連続する姿の様です。

キアロスタミがスクリーンを二重化する所以とは、彼の作風であるメタフィクション性を物理的にカメラ・アイの内部に創造し、フィクションのフィクション性をノンフィクション化することが可能となるからだと考えます。

映画は、人の視線無くしては存在することが出来ない。
私たち観客の視線が注がれたとき、初めて映像(=イメージ)の姿をした非連続性の連続としての物語がスクリーンに現れます。

そのとき、観客とスクリーンと物語という3者の距離あるいは奥行き、これの誠実さが自ずと物語の価値に帰結するのではないでしょうか。
だからこそ、キアロスタミは徹底して車窓を介した人の視線を捉えるのだと思いました。




今回は、作品論ではなく作家論として文章を書いてみました。
最後まで読んでくれた方がいらっしゃいましたら、温いコーラでも一気飲みしちゃうぐらい嬉しいです。

ありがとうございました。





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