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映画『映像研には手を出すな!』の「動いてる……俺たちのタロースが!」について

動いてる……俺たちのタロースが!

齋藤飛鳥ちゃん、梅澤美波ちゃん、山下美月ちゃんが出演した映画『映像研には手を出すな!』。昨2020年の4月に前譚となるドラマ版が放送され、9月に当映画が公開された。現在Blu-rayほか各作品が絶賛発売中。

その映画において、とある登場人物によって発せられた台詞が上記の言葉である。

この台詞が!とにかく、大好き!である。あの海辺よりも甘いチョコよりも大好きである。映画本編において一番涙を誘うのがこの台詞でさえある。映像研トリオの言葉にそうされても良いようなものを、まさかのロボ研・小林による言葉にやられてしまった。

そう、この言葉は、ロボ研の部員である人物・小林(演:赤楚衛二)が、その部活動において自身らで長年コツコツ整備してきたロボット・タロースが(映像研によって製作された)アニメの世界の中で動いている様を見て発したものだ。

しかもこれは原作には無い台詞である。今回の映画化に際し付け加えられた言葉である。この映画にしかないこの台詞こそが、この映画を名作たらしめたる最重要素となったように思う。

ロボ研の彼ら(小林、小野、小鳥遊、小豆畑)は、上記のように長きに渡って自前のロボットをろくに動きやしないのに大切にしてきた。それを守るため、雑多に増える部活動を成敗しようと生徒会が発した「部活動統廃合令」に際し、映像研と手を組む判断をしたのだ。

そして、アニメの世界の中で、タロースの活躍する様を観ようとした。

それは映画本編クライマックスにおいて実現する。映像研によって製作され、芝浜高校文化祭にて上映された作品『ロボvsカニ』の中でタロースは鮮やかに動いた。そしてそれを見た、ロボ研・小林によって発せられた言葉が上記の台詞である。

はっきり言って、創作讃歌である。

見たかったものが見れる。動かないはずのものが動く。少なくとも「ロボット」というもの、それも人間が乗り込んで操縦し、かつ人間同様の四肢を駆使して、となると、現実的には不可能に近いこととされてきた。

でも見たい。俺たちのタロースが動いているところを見たい。じゃあどうするのか。

だからアニメなのである。

ある意味、一般的な「アニメ化」と同じ話だ。漫画とはあくまで静止画の連続である。”だからこそ”の良さや価値は重々承知している(し、何ならそっちもむしろ好きだ)が、だがしかし、映像として動いているところをいざ見てしまったら感動するほかない。

動かないはずのものが動く。一枚の紙に描かれた静止画であったキャラクターが映像の中で動く。ハリボテ同然にただ突っ立っていただけのロボが映像の中で動く。

それを達成できることが「アニメ」の素晴らしさの一つなはずだ。“実現”という言葉の意味がどこまでを含めるかはさておき、しかし「動いているところが見たい」という願いをまず叶えることができるのは、動画の文化であるアニメの力だ。

小林の台詞はそれに対する感動があまさず表れたものだ。実際の映画の中での彼(を演じた赤楚衛二くん)は、やや声を震わせながらこの言葉を発していた。それが涙の混じったものなのか、熱を抑えきれなかったものなのかは定かではないが、しかしどちらであっても彼の想いを如実に受け取れる発語であった。

それは、おおげさでなく「夢が叶った」瞬間を捉えたものであったように思う。彼やロボ研の部員たちは、タロースが動くこと、それを目の当たりにすることを夢見ていた。

だが彼らはそれを内心諦めてもいた。だからこそ小野は熱い想いを爆発させ、その言葉に浅草氏と水崎氏は心打たれて涙し、金森氏はうんざりしたのだ。

その夢を実現したのは「アニメ化」という手段であった。「フィクションの中なんだから、実現とは言えないのでは?」なんて思う人もいるだろうか、いやいや、それを「実現したんだ!」と正面から肯定しているところまで含めて小林の台詞は尊いのである。

見れないはずのものを見ることが出来る。それを叶えられる力がこそ、フィクションじゃないか。

映画『映像研には手を出すな!』において最も感動したのは件の小林の台詞であるのだが、またこの台詞はこの映画に、原作・アニメの『映像研には手を出すな!』と比べても、一つの革新性を付与したとも感じる。

映像研の面々は、ご存じの通りアニメの造り手である。浅草氏は監督、水崎氏は作画、金森氏はプロデューサーだ。一方で小林をはじめとしたロボ研勢はと言うと、製作にはかかわらない、アニメを観る側だ。つまり「視聴者」である(タロースの原作者、と言えるかもしれないが)。

原作では、上記の通り小林のこの台詞は存在しない。原作の当該エピソードでは、水崎氏が両親に女優の道へと進むことを望まれていた中で、アニメ制作を志す彼女と両親との和解が主軸となっていた(これは映画でも描かれていた要素だ)。

つまり(原作では)決着の部分からはロボ研の面々の視点が外れていったのである。

だがしかし、映画版ではそこに、敢えて台詞が足される形で彼らの存在があった。意図して「視聴者」の視点が取り込まれたのである。

それによって、この映画『映像研には手を出すな!』という作品内に「創作物の産む感動」を純粋な形で取り込む事ができたように思う。

原作においても出来上がったアニメを観た者の姿は描かれるが、そんな事よりも映像研の3人による反省点やら改善の余地やらの議論に耽る姿がピックアップされたりもしていた。その気持ちはわかるが、しかしそれは、敢えて言うが、ある種造り手の悪いところでもある。

出来上がったものを目の当たりにして、まず感動する。それはまっさらな状態の受け取り手だからこそ出来ることなのかもしれない。

だがその事こそ、何より大切であるとも思う。例え改善の余地があっても、良いものをまず「良い」と思う、言う。それは完成したものを正面から受け取ることのできる立場だからこそ出来ることだ。

作り手のこだわりはわかる。細かいアラが気になってしょうがない気持ちはすごいわかる。しかし、まずは出来上がったそれに対して感動しようじゃないか。見たかったものが見れたこと、タロースが動いていることをまず純粋に感動できるのは「視聴者」なのだ。

上に書いた「創作讃歌」とはそういうことだ。小林の言葉には、出来上がったものを目の当たりにした受け取り手の感動が端的に表れている。観た者による感動は、いつだってフィクションを肯定するものでもある。

アニメに限らず、例えばイラストだってそうだ。数多ある乃木坂46のメンバーを題材にしたイラストにおいて、実際にあったシチュエーションを基にしている場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。

「このメンバーがこの衣装を着たら……」「このメンバーが演じたあのキャラとあのキャラが同じ空間に共存していたら……」「このメンバーが自ら描いたラクダに乗っていたら……」そんな空想を紙一枚の上に実現することが出来るのは、イラストという創作の力で実現できる奇跡の一つだ。

あるいは、物語の世界に入り込む、お芝居もまたその一つ。例えばスーパー戦隊/仮面ライダーの出演者には、作品を子どもの頃に熱中して観ていたと話す俳優が度々いるが、彼ら・彼女らは当時憧れたヒーローに自分が本当に変身することが叶っているわけである。それもまたフィクションによる実現だ。

それこそ、乃木坂メンバーである久保史緒里ちゃんや寺田蘭世ちゃん、中田花奈ちゃん、梅澤美波ちゃん(≒金森氏)は幼少期から憧れていたセーラー戦士になることができたし、能條愛未ちゃんに至ってはセーラー戦士への憧れを持っていたのはもちろん、この世界を志した原体験がセラミュであり、いつか出演することを夢見ていた。彼女はフィクションもノンフィクションもまとめて夢を叶えたのだ。

小林を演じた赤楚衛二くんにしたって、『仮面ライダービルド』を観たこっちからしたら「変身してる……俺たちの長瀬が!」なのだ(『アマゾンズ』Season2は大変に名作である)。

そうした、実在しないはずのものを見れる/出来る、これを叶えられるのは創作・フィクションの力なはずだ。

そしてそれは、観た者が感動してこそだ。だから、視聴者ないし「受け取り手」を担った小林の言葉が何より尊い。「フィクションの中で”実現”した」と観た者が受け取ってはじめて、それは達成される。造り手と受け取り手が互いの想いを授受することでようやく成功するように思う。

原作でも、特に語り草となっている水崎氏の名ゼリフが、その事を表している。

チェーンソーの振動が観たくて、死にかかってる人がいるかもしれない。

私はチェーンソーの刃が跳ねる様子を観たいし、そのこだわりで私は生き延びる。大半の人が細部を見なくても、私は私を救わなくちゃいけないんだ。

動きの一つ一つに感動する人に、私はここにいるって、言わなくちゃいけないんだ。

そのこだわりを見たい人がいる。映像の中で"実現"することを待っている人がいる。それは、こだわりを持っている張本人が何より証明していることであり、同志がいることをまた信じている。だからこそ、やる。

本人からしたら、いざ完成してみたら気になることが出てきたりもするだろうが、しかし造り手がそれに「こだわっている」事に気付いただけでも受け取り手は涙しうるのだ。

映画『映像研には手を出すな!』においては、映像研メンバーが全身全霊を以て『ロボvsカニ』を造り、そして小林はじめロボ研メンバーはそれに感動した。それを明確に示したのが小林の言葉であるのだ。

完成された作品を目の当たりにし、それに感動する。小林の台詞には、そうした造り手と受け取り手の相互関係が現れており、そのことがこそ、すべての創作への讃歌となっているように思う。

アニメ制作に熱中する3人組を描いた映画『映像研には手を出すな!』は、その彼女らと関わった人物らの存在によって、アニメはおろかすべての創作を肯定したのだ。

「視聴者側の視点」を広大解釈すれば、乃木坂46ファンから見た「映像研トリオ」に対して抱いた感動にも通ずるかもしれない。

要は、梅・ヤマと一緒にいる飛鳥ちゃんを見て「笑ってる……俺たちの飛鳥ちゃんが!」ということだ。まあ別にいつも笑わないわけでは全くないんだけども、ともかくこの映画撮影を通して、3人の関係性がほぼゼロ状態からあそこまでのものに構築されたことに大いなる感動を覚えたのは紛れもない事実だ。

フォーカスが広がったか絞られたかはさておき、つまり、映画『映像研には手を出すな!』の価値はそこにもあると言いたい。

間もなく10年に達する乃木坂46のストーリーにおいて、これからも先頭に立っていくであろう齋藤飛鳥・梅澤美波・山下美月の3人の中で堅く熱い絆が生まれたことは、のちのちにもきっと強く影響するだろう。

まして、飛鳥ちゃんは「背中を見せたいタイプなので」と自ら強がって言ったりする様子がまま見られるが、彼女が後輩たちと無邪気にじゃれあう関係性を築けたことは何より感動的だ。そのことが映画『映像研には手を出すな!』が造られた一つの意義でもあるように思う。

乃木坂46をこれまでもこれからも観ていく者として、今回の映画『映像研には手を出すな!』が、そのストーリーの中で重要なポジションに位置することは明白だ。そしてそれは常に乃木坂46を観ているからこそ感じ取れる事でもある。

それがまさに、映画『映像研には手を出すな!』を観た乃木坂46ファンとして「出来上がったものを目の当たりにして、まず感動する」である。

もちろん映像研トリオに限った話じゃない。乃木坂46で見たいものは一体何か? 愛するメンバー達が、何があっても欠けることなく逞しく仲睦まじく活動している様だったり、先輩後輩同期それぞれの関係性をもって支え合い時に叱咤し合い成長していく様だったりするじゃないか。

クールに構えがちな飛鳥ちゃんが映像研トリオの関係性において赤ちゃんのように扱われつつ、本人も無邪気に楽しそうにしていることもその一つだ。メンバー達が乃木坂46として歩んでいく道中に、また互いの関係性が構築される過程において、彼女らの内に生まれる”芽生え”がまた、それを観ている我々の「動いてる……俺たちのタロースが!」を産むだろう。

そう考えれば、小林の台詞は創作讃歌である一方で、”変化”讃歌ですらあるかもしれない。

まとめ

なんか思っていたのと違う感じにまとまってしまいました。言いたいことを色々詰め込んだら飛躍しすぎた気がする。でもまあこれはこれで良し。

ともかく、小林の台詞を以てして、映画『映像研には手を出すな!』は原作・アニメには無かった表現を含むことに成功し、本作品を名作たらしめたのだ、ということが主張したかったのです。

以上。








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