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『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』感想

劇中のメンバーの発言を度々取り上げていますが、記憶の限りで書いているので正確ではない場合があります。どうぞお手柔らかに。

※※※

感想としては「この映画が今の形で完成して良かったな」というものに尽きる。

「今の形」とは具体的に言えば、公開日程が予定から延期になったことに伴い、7月に行われた無観客配信ライブ『KEYAKIZAKA46 Live Online, but with YOU!』とその際の改名発表の映像、メンバーへの新たなインタビュー、『誰がその鐘を鳴らすのか?』披露の様子が追加された状態のことである。

映画ラストのブロックにこれらが追加されており、そしてキャプテン・菅井友香一人を見下ろしていたところから、少しずつ街一帯を映すように上昇していく映像で幕を下ろす。

もし延期がなかったら、平手脱退まで(当初9thシングルになる予定だった『10月のプールに飛び込んだ』制作~平手がそれに参加できない旨がメンバーに伝えられる様子、そして2019年末の紅白歌合戦、平手がメンバー達に別れを告げる様子)辺りが締めくくりとなっていったのではないだろうか。

この映画がそこで幕を下ろしていたら、「欅坂46=平手友理奈」であり「平手友梨奈の軌跡」を描いたものとして受け取ってしまったかもしれない。インタビューが劇中で使われたメンバーはあくまで「証言者」としてそれを語る存在であり、グループの過去の映像は実質的に平手にのみフォーカスを当てた映像、という。

しかし出来上がったこの映画には、上記の追加映像があり、また冒頭でも追加インタビューと併せて撮影されたであろう菅井の映像が挿入されている。

それらがあることで、彼女達は紛れもなく「当事者」となり、むしろ「平手という大きな存在と向き合い続けた/対峙し続けた"欅坂46"である彼女達」の物語となったように思う。菅井をその代表として、冒頭と終盤で「これは現メンバーの主観による物語である」と提示されたのだ。

過去の映像や明かされた秘話などに変化はないが、それは単に平手だけ映したものではなく、それと共にあった彼女達を映したものと言える。

ボロボロになっていく平手一人を映した映像も(例えば、舞台裏でおそらく「無理」「もう出来ない」という言葉と共に首を振りながらも『不協和音』の披露に向かっていく様子など)、それを間近で見続けたのは紛れもなくメンバー達である。

上でカッコ書きした『不協和音』にしても、その直後であろう『角を曲がる』にしても、いざ彼女がステージに立つと、そこで行われるパフォーマンスにはどうしても魅了されてしまう。

こちらを惹き付ける、ある種魔力めいたそのセンターとしての存在感やパフォーマンスの完成度(極限を見せる人間力も、か?)が「表現力」という曖昧な言葉の正体ではないか。

そしてその「表現力」を前にしてはひれ伏すほかない。

しかし横に並ぶメンバー達はひれ伏している場合ではないのだ。越えられない壁でありながら敗北宣言に甘んじることは許されない位置に常にいさせられたのがメンバー達である。彼女達は、そうした「平手という存在」と常に共に在り続けることを強いられていたのだ。

平手が休業することになったライブの様子も度々描かれたが、そうした状況でのメンバーの認識や意見も「平手がいなくても私達は出来る」「平手がいてこその欅坂46のパフォーマンス」と、個人々々によって違いがあったように見受けられた。「平手という存在」への立ち向かい方が均一ではなかったのだ。

守屋茜は自身の認識は後者であったとインタビューで語っており、齋藤冬優花はその狭間の葛藤が爆発したことを振り返っていた。

小池美波は、平手の代役として『二人セゾン』のセンターを務めるに当たり、その重圧に涙する様子が比較的長く尺を割いて描かれた(後に彼女が「平手の『二人セゾン』と対になるものを」という答えに辿り着いていたことは重要なポイントである)。

それこそ小池はメンバーの中でも特に「平手友梨奈の欅坂46」と対峙し続けていた一人のように思う。インタビューからは、平手ワントップ状態に対し、その事への葛藤やそれを超えたいというフラストレーションを感じていたように見受けられた。

そんな彼女達と平手との闘いの日々、それが欅坂46というものであり、この映画で語られたことだったのかもしれない。

もちろん実際は、言葉通りの「闘い」なんてものでなかったことは明白である。平手はメンバーにとって大切な仲間であり、誰よりも守ってやらなければいけない最年少であり。平手が"ああなる"以前であるデビュー前の映像では笑顔でじゃれ合う姿も多々あった。

平手が倒れ込む様子は劇中で何度も見られたが、その度に石森虹花や上村莉菜をはじめとしたメンバー達が常に傍へと駆け寄っていた。

このような、彼女達の関係性を強調した場面は今回多くはなかったが(なぜなら彼女達の役割は語り部だったからである)、本来そうした部分まで含めて「欅坂46」であるわけで。

それは、2017年末に一度グループを去ろうと進言した平手のことを引き止める形で現れたりもした(今となっては、受け入れる選択も間違いではなかったかも、とも思えてしまうところである)。

結局は2019年の紅白出場を最後にグループから去る訳だが、だからこそ平手もメンバー一人ひとりと別れの言葉とハグを交わした。

むしろ平手が誰よりもグループのことを考えていた。それは上記の2017年末の様子からも窺えるし、メンバーが本作中でもそれ以外でも度々語っている。

グループを離れる決断も、「平手を中心とした欅坂46」という現状(とその都度の結果)が不健康であると彼女自身が感じたからであろう。当然、平手自身既に心身ともにボロボロであり限界を感じていたであろうことも察せれる。

(余談)

個人的に、平手の「表現力」とは「演技力」の極地だと思っていた。それはつまり"憑依"とか"別人格"とか言い表せるものによって成されているのだとばかり思っていたのだけど、今回その考えを改めた。

劇中で何度も使われた2018年ツアーでの『ガラスを割れ!』で、センターポジションから花道に駆け出してしまい、曲の披露後足取りもおぼつかないままステージから落下する様子(気付かないままにこやかにMCを進めるメンバーと対比する演出が極悪!高橋監督ったら、実に映画人である)を見るに、彼女はひたすら「衝動」の人なんだなと思い至った。

かつては彼女の内であやふやで曖昧だった(あるいはまだ成熟していなかった)それが、楽曲や歌詞、ダンスという「形」を与えられるようになったことで内から外に出す手段を獲得してしまい、かつ彼女は常に全部残らず形取ってしまう(引っ張り出されてしまう)ために、毎回極限まで疲弊しているのかな、と。

特に、デビューライブを観た秋元康の「もっと真っ白に」という助言(?)、渡邊理佐の「犠牲にしなくちゃいけないものもあるのかな」「(それは何かと問われて)……感情?」という発言から察するに、平手は"自分"というものを徹底的に廃した上で衝動に形を与えてしまうように次第になり、自ら『不協和音』『ガラスを割れ!』といった楽曲そのものになろうとしていた。

「体現者」と言う言葉では収まらない程に楽曲を体現する能力、それは衝動を形取ってパッケージングして外に出す能力であり、それこそが平手の持つ「表現力」の真の正体ではないだろうか。

(余談終わり。)

そんな平手の”極限”は、観る者を感動させるパフォーマンスの域を超えてしまっていたのだろう。そして誰より彼女が自分自身でそれを理解っていた(それは例えば、状況や楽曲によって「パフォーマンス出来ない」と表に出ることを拒否する姿として現れていた)。

俗っぽいワードで表すなら「バーサーカー状態」と言えるかもしれない。計り知れない力はいずれ身を滅ぼす。

その「力」とは平手の能力であり平手の存在そのもの、「身」とは平手自身であり欅坂46やメンバーであった。

だからこその最終的な決断である。これこそ"自分"を失いかけていた平手の人間としての望みであり、平手からのメンバーへの愛。それはグループから身を退くという方法で行われたが、しかしそれは確かに彼女の愛で、やさしさだ。

何より、このグループ自体は平手がいなくなろうが誰がいなくなろうが続いていく。解散の可能性も示唆されていた(ように個人的には感じた)が、きっと全てのメンバーがそれを選択しなかっただろう。実際、今そのようになっている。

その否応ない「続く」は、前向きな「続ける」にしていく必要がある。

だから、平手との日々であった欅坂46はここで大切に箱に仕舞うのだ。地続きではない道を進む前に、無かったことにしないために。それが『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』という映画である。

とは言え、本当に全部を全部仕舞い込んでしまうわけではないだろう。

平手はグループ脱退について「今は話したくない」と言って多くは語らなかった。小林由依の「自分の感じていることと皆に感じていることが違うと思うこともある」という発言も大変気になるところである。

それらはいつか明かされる日が来るかもしれない。そんなことを期待しつつも、今は一旦箱に蓋をするだけだ。

その蓋は、劇中でもフルで使用された、無観客配信ライブ『KEYAKIZAKA46 Live Online, but with YOU!』での現メンバー28人による『誰がその鐘を鳴らすのか?』、そしてエンディングに使用された『太陽は見上げる人を選ばない』として現れている。

「平手という大きな存在と向き合い続けた/対峙し続けた欅坂46」である彼女達の物語を締めくくるに、実にふさわしい2曲だ。

ドキュメンタリー映画として、これまでの乃木坂46とも日向坂46とも違う、グループにとっての「区切り」としての色が強い本作。

それは彼女達の歴史の中であまりにも大きかった「欅坂46」という存在に形を与えたものであった。

そしてこの映画には一切描かれていない未来、間もなく訪れる2020年10月のラストライブと活動休止を経て、彼女達はその名前を変えて再びスタートを切る。

そんな彼女達の新たな日々がキラキラ輝くものであると信じて、劇場を後にするのでした。

まとめ

エモい風になってりゃ良いだろう、的な品の無い感じになってしまった。うーん。個人の感想ではありますが、全然違えなって思ったら全然違うよって言ってください。

あと、先述した『ガラスを割れ!』の際の平手の落下とメンバーのMCの対比とか、序盤で流れたデビュー当時(ショップ回りや『サイレントマジョリティー』ジャケット撮影)の映像で当初は各メンバーを等しく映していたところから徐々に平手にフォーカスが絞られていく編集は実に映画だな、と感じました。これらに限らず、この映画はすごく「映画」です。

映画そのもの、グループやメンバーそのものは本当に素晴らしいです。きっとずっと好きだし追い続けると思います。

以上。



読み解きが妥当かどうか今や定かではない『黒い羊』に関するnoteはコチラ。


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