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「赤毛のアン」より、「青い城」

「赤毛のアン」をはじめて読んだのは10歳くらいだったと思うが、そのとき私は、この話に夢中になる、ということはなかった。

読んだときにとくに印象に残ったのは、アンが近所のリンド夫人に赤毛のことを言われ、激怒するところ。それと、やはり赤毛のことをギルバートにからかわれ、彼の頭を石板で殴るところだ。
女の子にひどいことを言うほうが悪いのだから怒って当たり前だろう、リンド夫人に謝罪する必要はないし、ギルバートも、殴り足りないのではないか?もっと殴ってやってもいいのに・・・などと思っていた。

それ以外ではとくに興味を惹かれたところがなく、怒りに関係している場面だけ心に残った、というのはどういうわけだろう?
よくわからないが、とにかく私は、岩波少年文庫のドリトル先生シリーズや、メアリー・ポピンズのほうに夢中になっていたのである。

「アンのお友達」になり損ねた(?)私が、ルーシー・モード・モンゴメリの、「アンの物語」ではない別の作品を読むことになった、そのきっかけはいまだに思い出せない。
「青い城」(角川文庫)を読んだとき、モンゴメリはこういうものも書いていたのか、と驚いた。

主人公は、29歳の孤独な独身女性。病弱で内気な彼女は家族から馬鹿にされ、大きなストレスを抱えながら暮らしている。(たとえば親戚からは、「まだ結婚する気にならないのかね。29歳か、ひどいもんだ」と言われる。ちなみに、この小説が書かれたのは1926年)

そんなある日、彼女のもとに一通の手紙が届く。それは、以前、診察をしてもらった医師からのもので、そこには、彼女の心臓が非常に悪い状態にあり余命一年である、と書かれていた。
それを読んだ彼女は、残り少ない日々を好きなように生きよう、と決意をする。

「これまで、あたしはずっと、他人を喜ばせようとして失敗したわ。でもこれからは、自分を喜ばせることにしよう」

それから、彼女の言動はがらりと変化する。周囲の人々に遠慮をしてびくびくしながら生きてきた彼女が、母親に口答えをするようになる。大嫌いないとこに、「くそばばあ」と言う。
そして一族の集まりでは、おじやおばの言うことを我慢しておとなしく聞いているのをやめる。たとえば、やせすぎだとおばに言われたら、「あごのたるみを減らしてくれる美容院を知ってるから、教えてあげましょうか」と切り返す。
おじが、おもしろくともなんともないなぞかけをしてきたら、こう答える。

「ベンおじさんたら、あたしが覚えているだけでも、もう50回はそのなぞかけをしたわ。そんなになぞかけが好きなら、なぜもっと違うのを探してこないの?どうせ成功しないのに、人を笑わせようなんてちゃんちゃらおかしいわよ」

ヴァランシーは家族や親戚に、「正気を失っている」、と言われるが、彼女の勢いは止まらない。

そのうち彼女は、町の青年、バーニィと親しく言葉を交わすようになる。世間では、彼は不良青年ということになっているのだが、ヴァランシーにはどうしても、彼がそんな人間には見えない。それから、ヴァランシーの人生は本格的に動きはじめる。

この「青い城」は、表面だけ見ればよくあるハッピーエンドだが、実は、女性が本来の自分自身に戻ることによって、自立する話でもある。青い城、というのは、言ってみれば、主人公であるヴァランシーの、「自分という存在の核」の象徴なのだ。ヴァランシーはその青い城を自分の中に見つけて、真の幸せを手に入れるのである。

「青い城」を読んでから、(つまり、大人になってからはじめて)「アンの青春」「アンの愛情」なども読んでみたら、おもしろい箇所を多数、発見することができた。
それでも、やっぱり私は、「赤毛のアン」シリーズよりも、「青い城」のほうが好きなのである。
ヴァランシーが目覚めて、好き放題やるさまは読んでいて痛快だし、バーニィが、学生時代につけられたあだ名を彼女に教えるくだりは、まじめな場面だったのでよけいにおかしくて声を出して笑ってしまった。

「青い城」は、モンゴメリの鋭い笑いのセンスが詰まった、大人向けの小説だと思う。いや、でも、少女が読んでも、きっと、おもしろいし共感できるところもあるのではないか?(たぶん)








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