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バレンタインの日に起きた、不思議な事件。「ピクニック・アット・ハンギングロック」

そうだ、そういえばこの話は、バレンタインの日からはじまるんだった。
つい先日、「ピクニック・アット・ハンギングロック」をぱらぱらとめくっていて、思い出した。
映画化されたものも見ているし原作のほうも読んでいるはずなのに、そのことをすっかり、忘れていたのだ。

先に映像化されたものを見ていると、原作を読んでがっかりすることがある。(逆もまたしかり)。
しかし、「ピクニック・アット・ハンギングロック」に関しては、そういったことはまったく、なかった。
それどころか、1986年に日本公開された映画は(実際に制作されたのは1975年)、原作の雰囲気をまったく壊すことなくつくられた素晴らしい作品だったのだ、ということが、よくわかった。

この話は、1900年2月14日からはじまる。
オーストラリアの奥地にある女子寄宿学校アップルヤード学院では、少女たちが、美しいカードやプレゼントを贈りあっていた。
生徒たちの中でもひときわ美しくやさしく、優等生のミランダは、誰よりも多くカードをもらった。レースで縁取られ、愛の言葉が綴られたカード。

しかし、その日の少女たちには、贈られたカードを開けるだけでなくもうひとつ、楽しみが待っていた。
彼女たちは引率の教師2人とともに、ピクニックへ出かける予定なのだ。
白い晴れ着を着て、はしゃぐ少女たち。
彼女たちは今日のピクニックで、教師1人と3人の少女が行方不明になってしまう、ということなど、思ってもいないのだ。

この小説について特筆しておきたいのは、まず、自然描写の素晴らしさである。小さな生き物たちの様子も含めて、自然の美しさが、こちらの全感覚に訴えかけてくるように、描かれている。
2月は、オーストラリアでは夏。
この暑い中、少女たちは帽子をかぶり、手袋をはめて(時代はヴィクトリア朝。暑くても、人前でとることを許されない)、お行儀よく馬車に乗ってピクニックへ出かけていく。
ハンギングロックのふもとにあるキャンプ場に到着し、さっそく、ピクニックのごちそうが並べられる。チキンパイにエンゼルケーキ、ゼリー、ハート形のアイシングケーキ。
夢のように楽しい、ピクニック。

「(略)日の当たる丘や涼しい木陰は、かすかな音にあふれていた。虫が這いまわる音、鳥のさえずり、小動物の忙しない足音、地面をひっかく音、翼が軽やかに空を打つ音。光の天蓋の下では、木の葉や花々や草がやわらかく輝き、そよ風に揺れていた。雲ひとつない空から射す日が、淀の上で舞う土埃を黄金色にきらめかせている。静かな水面を、ゲンゴロウが滑るように渡っていく」

さまざまな木々や草花の香りが閉じ込められた、暑い夏の日の空気の中にいるような気にさせられる。
そして、その蜜のように濃厚な空気の中で、事件が起こる。
3人の少女たちがハンギングロックの大きな岩を見るために出かけ、その後、引率の教師のうちの1人も、忽然と、姿を消してしまうのである。

この事件以来、学院は悪評が立ち、生徒たちが1人、また1人と、学校を去ってゆく。
そして、「ピクニックとはなんの関係もなかった人々までが、綴織のように複雑さを増していく事件の一部に織りこまれていく。」のである。その過程はまるで、織物の、レースのように繊細な模様がどんどん広がってゆくのを見ているようでもある。

また、話の途中で、登場人物たちの未来の姿が、ちらりと示唆される箇所がいくつかある。「現在」取り巻いている悲劇的な状況とは対照的に、幸せで落ち着いた生活を送っている「未来」の彼らの姿が、まるで夢のように、挿入されるのだ。
たとえば、美しいフランス人教師ミス・ポワティエの場合。(ちなみに彼女は生徒たちに、あんなかわいい人が先生だなんて信じられない、と言われている)
失踪した少女3人のうち1人だけは奇跡的に発見され助けられるのだが、その少女が学校へやってきたとき、体育館で授業を受けていたほかの生徒たちはヒステリー状態になる。ピクニックで何があったのか、と少女たちは半狂乱になって、1人だけ生還した彼女につめよるのだ。
現場に居合わせたミス・ポワティエは50年後に自分の孫に向かって、このときどれだけ恐ろしかったかを語るのだが、このシーンはまるで、突然未来に視点が移り、そこから、「過去にあった出来事」を見ているような、不思議な気にさせられる。

アップルヤード学院からは、生徒たちだけでなく、教師も、メイドもみんな学院をあとにしてゆく。
そしてこの、広大な敷地に建つ時代錯誤な建物は「学校」ではなくただの空っぽな容れ物のようになり、完全に崩壊するのを、待つばかりとなる。

このハンギングロックでの失踪事件については、真偽のほどはたしかではないらしい。
作者自身もフィクションであると述べているとのことだが、この作品が出来上がった経緯がまた、神秘的である。
作者のジョーン・リンジーはある冬の夜、寄宿女学校の少女たちがピクニックへと出かける夢を見て、忘れぬうちにタイプライターに打ち込んだ。夢は1週間続き、その結果、この、冒頭から結末まで完璧に美しい小説が完成したというのだから、驚きである。
ジョーン・リンジーが、ただの夢だとほうっておかず書きとめておいてくれてよかった、と思う。
ちなみに彼女は1896年生まれ、私の好きな尾崎翠と、同じ年の生まれである。


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