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なぜ僕が北海道ヒト大学の学長になったのか。【大学4年〜現在まで編】


前回に引き続き、僕が北海道ヒト大学の学長になった経緯についての説明をしていきます。

今回で最終回です。

かなりの長編となってしまいましたが、最後までお付き合いいただけたらと思います!


ローカルワーク編集合宿


大学3年から4年にかけての春休み、就職活動を始めたばかりのタイミングで参加した白川郷ヒト大学のこのイベント。

(参加経緯に関しては前回の投稿を読んでいただけると嬉しいです)

この合宿が僕にとって、とても大切な経験になります。



6日間、白川村に滞在しながら村内の事業者さんのPR動画を制作するというプログラム。

北海道、茨城、東京、千葉、名古屋など、様々な地域や大学から集まった11名の参加学生が、世界遺産である白川郷の合掌造りに集合しました。

自己紹介や合宿に関する説明などが行われた後、取材する事業所の希望ごとに3人1組でのチーム分けがされ、

僕は「料理宿 御母衣」(合宿時は「御母衣旅館」)というご家族3人と中居さんお一人の4人で切り盛りしている旅館を取材することが決まりました。

そして、6日間同じチームとして一緒に行動するメンバーは、中国人留学生の「ワンペン」と東京の大学に通う同い年の「あかね」。

3人でどういう構成で映像作品を作ろうか、そのためにどういう映像の素材が必要か話し合い、自分たちが考えた構成は

「一人称(お客さん目線)でカメラを回し、御母衣旅館の方々にはそのカメラに向かって実際に接客をしてもらう。見ている人はまるで本当に旅館に訪れたかのように感じるストーリー性のある映像作品にする」

というもの。

↓その時参考にしたCM

合宿参加者11名全員が映像制作をしたことがなく、自分たちのチームも初めての制作だったので、カッコ良くて感動するこのトヨタのCMに近いものが作れたらいいなと、ワクワクしていました。


そして取材初日を迎えます。

旅館の方々に挨拶をし、番頭さんに初めてお会いした時、

学生の自分たちにも分け隔てなく低姿勢で、すごく暖かい。ここまで丁寧で素直な大人に出会ったことがない

と感じました。

そんな番頭さんや女将さん方に対して、

「こういう画が撮りたいから、こう動いてください。」

「カメラに向かってこの台詞を行ってください」

と撮影を進め、欲しかった素材は一通り集まったところで初日の取材は終了。

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自分たちが予定していた通りの映像は撮れたはずなのに、帰りの車の中では、心にずっともどかしさがありました。

”なんか違う”

そう思っていた時、ワンペンとあかねも全く同じことを口にします。

僕たちの作品作りに真摯に向き合ってくださっている方々に演技をさせてしまったことをすごく申し訳なく感じたのだと思います。

初日の取材を終えてすぐに、かっこよく感動する作品を作りたいという思いはなくなっていて、番頭さんはじめ、ご家族のみなさんの暖かい人柄を引き出して映像に収めたい。

生まれ育った土地も、大学で学んでいることもバラバラの自分たちでしたが、

たった一日の取材で3人共通してこの思いが芽生えていました。

合掌造りの家に帰ってからすぐに3人で構成を考え直し。

「4人の雰囲気とか人柄、なんかすごかったね。あんなにいい人いるんだね。」

絶対にその人柄を引き出したい。

けど、取材だと形式ばってもプレッシャーも与えてしまうし、まだ1日しか会ったことのない自分たちはカメラ越しにその”素の表情”は引き出せない。

でも、なんとしてもこの人たちの良さを多くの人に伝えたい。

とにかく、明日は取材と言わずにたくさん会話をして距離を縮めよう。

そして、会話の中に見え隠れする素の表情を隠し撮りで収めよう。

これが自分たちの出した結論でした。


取材2日目はその作戦で隠し撮りで撮影を行っていくうちに、自分たちに少しづつ心を開いてくださっていたのか、笑顔が増えたように感じていました。

撮影のアドバイザーとして同行してくださっていた白川村の協力隊の方と話しているときがやっぱり一番笑顔が多いし素の表情だと感じた時は、会話を全てを任せて、こっそり撮影することに徹したりもしました。

こういう画が撮りたいという要求がなくなり、他愛のない会話だけしたいという撮影に変わった分、たくさん色々なお話しを聞きます。


自分は都会で働きたいかもしれない。って感じたこともあったけど、小さな村で先祖代々受け継いできたこの旅館を守りたい。

何よりも家族、そして足を運んでくださったお客様を大切にしたい。

何でも、ものを捨てることは簡単。でも捨てる前にもう一度新たな役割を担えないか考える。それでもダメだったら捨てればいい。


会話の中に出てくるこういった何気ない言葉が、将来について悩んでいた自分の心に刺さり、撮影中に涙が止まらなくなりました。

同じタイミングで鼻を啜る音が聞こえてくるなと思うと、あかねとワンペンも同じでした。

なんで感動したのか。なんで涙が出たのか。

理由は未だにわからないけど、綺麗事ではなく本心で語っている姿からすごく大切なことを教わったんだと思います。

自分たちがこの旅館のために精一杯やり切りたいという思いはどんどん増していきました。

そこから約2日半はノンストップでとにかく編集作業です。


動画編集ソフトをダウンロードする段階から始まった僕たちのチームは、基本操作の勉強や素材の読み込みなどに多くの時間をとられました。

でも、合宿期間内に完成させて、御母衣旅館のみなさんに喜んでほしい。

と本気でその一心でひたすら編集しました。

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実際に編集作業をした4日間、どういう編集をしたら御母衣旅館の方々が喜んでくれるかを常に考えていたし、睡眠時間も毎日かなり削っていました。

もう一度同じことをしろと言われても、できると言い切れる自信がないくらい集中した毎日。

でも、全く辛くはありませんでした。むしろ楽しかった。


基本的にご飯は自分たちで自炊だったので、疲れてきた頃にサポート役として来ていたメンバーがご飯を作ってくれたり、みんなでお茶を飲みながら休憩したり、11人での共同生活もすごく幸せでした。

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こうして迎えた、合宿最終日の完成作品上映会。

上映会の2時間前くらいまで最後の編集をして、なんとか期間内に作品を完成させることができました。

僕たちが作った作品がこちらです。

御母衣旅館を守る4人の”人”を、是非感じてください。


この作品がみんなの前で上映された2分38秒の間、とても幸せな気持ちで胸がいっぱいになったし、達成感なのか何なのか、経験したことがないくらい涙が出ました。

その感情がどういうものであったのかは、言語化しなくていいと思ってます。

自分の中の大切な感情として留めておきます。


翌日、御母衣旅館へ完成作品を見せに行った時のみなさんの喜んでくれた顔は、きっと忘れることがないと思います。


この6日間の合宿で、僕はすごく救われた気がしました。

小学生の頃に感じてから、心の中にずっとあった

「コミュニティに属したい、思いを共有したい」

ということが気づいたら合宿中に実現していた。

あかねとワンペンとは、友達というか、仲間というか、兄弟というか、、

心の距離がとても近くなったように感じます。

転校や大学3年間の活動のおかげで、友達は少なくはなかったけど、常に人との心の距離を感じていたこと。

劣等感や優越感でフィルターをかけることなく、”人”と向き合うこと。

自分を偽ることなく、ありのままに振舞うこと。

2人のおかげで、この合宿のおかげで、この壁を乗り越えられた気がしました。



路上ライブ0円旅



白川郷での合宿を終えてからは、しばらく東京で就活をして札幌に帰りました。

東京にいる間も札幌に帰ってきてからも、自分にとって衝撃的だった合宿の経験を忘れることができなく、「あの合宿を用意してくれたヒト大学と関わりたい」と思うようになります。

今年のGWは10連休だったので、また2ヶ月でお金を貯めれば白川郷に行ってヒト大学に関わることができるかもしれない。

と考え、白川郷ヒト大学学長の柴原さんに連絡をします。

「GWにまた白川郷に行って、ヒト大学の仕事を手伝いたい。」

そう伝えると、返ってきたのは

「すごくありがたいけど、GWは白川郷ヒト大学として手伝ってもらうほどの大きなイベントなどがない。」

ということ。

でも、どうしてもまた白川に行きたいと思っていた僕に対し、柴原さんは

「それだったら、白川に来る過程に時間をかけたらいいんじゃないかな。

青森から旅して来るとか。笑」

と、言ってくれました。

単純な僕はすぐに

なるほど!!!

そしたら路上ライブをやりながら白川まで旅をしてみるっていうの、すごい面白そう!!

と考えました。

まず路上ライブのやり方を知らなければならないし、

機材を揃えなければいけないし、

弾き語りスタイルで路上ライブをやりたかったのでギターを弾いてくれる人を見つけなければならない。

そうと決まればまずは知り合いにあたってみよう。と

以前にライブをさせていただいたことがあった、札幌のゲストハウスのイベント企画担当の方に連絡をします。

GWに路上ライブやりながら旅したいんですけど、、、

と、伝えると

「ぴったりの人がいます!札幌でギターの弾き語りをしているシンガーで、ちょうどGWに地元の京都にヒッチハイクで帰りたいと言っていました!」

一発目にしてこんな奇跡がおこりました。

すぐに彼を紹介してもらい電話をかけました。

「めっちゃおもろそうやん!一緒に旅しよ!

どうせやるんやったら金持たずに投げ銭だけでサバイバルで旅するのありや。」

初対面のはじめましての電話でいきなりこんな話になりました。笑

一緒に旅することを決めてくれたのは、京都出身の「なごむ」で、札幌〜京都まで2人で0円旅をすることが決まりました。

(即席コンビ”HEKIREKI"として、大学でデザインを学んでいたなごむの彼女さんにステッカーを作ってもらい、旅で出会った方々に配ったりもしました。)

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旅の計画は決まったものの、路上ライブに必要な機材を買いに行こう!と楽器屋に行くと機材が高すぎてお金が足りない。。

クレジットカードの残りの利用可能額をはるかに越す金額だったので、分割払いもできない。

と半ば絶望状態になりかけた僕を、1人の先輩が救ってくれます。

大学1年の冬にゼミの体験会でプレゼン発表をしていた自分の憧れであった先輩。

この人がいなかったらゼミにも入ってなかったし、ここまで色んな経験をすることもなかったと本気で思える存在。

「この機材がないと旅できないんでしょ。

じゃあお前への投資。頑張れ。」

と、機材を僕にプレゼントしてくれました。

さらには、いつもお世話になっている美容師さんからも使ってないアンプがあるからチャレンジする人に使って欲しいと、アンプをいただきました。

本当に感謝してもしきれないです。

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自分は行動力があるから。とかじゃなく、自分が行動するために色んな人に支えてもらっているんだと、強く実感しました。


それでも2ヶ月前の白川郷での合宿の交通費と東京での就活でほとんどお金がなかった僕は、polcaで最初のフェリー代約3万円を募りました。

フレンドファンディングは使ったことがなかったし、自分の周りの友達でpolca自体を知っている人も少ない。

それでも、多くの友達がわざわざ会員登録してまで僕のpolcaにお金を入れてくれました。

本当に多くの友達、人に支えてもらって挑戦できている。


そして、10日間の旅に出ました。


この旅で初めて路上ライブデビューだったので、足を止めて聴いてくれる人がいるのかと、毎回不安と緊張だらけでした。

どこの土地でも必ず足を止めてくれたり応援してくださる方がいたおかげで、なんとか投げ銭で生活ができていました。

しかも、宿もとらないというのが自分たちの旅の方針だったので、路上ライブを聴いてくださった方にお願いして図々しく泊めていただく日々を過ごしていました。

結果的に(苫小牧港から車を積んだので)

青森→宮城→茨城→東京→大阪→京都→淡路島→岐阜

というルートで、多くの出会いに恵まれながら無事に白川に到着しました。

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この旅もまた、一生忘れられない大事な時間になったし、書くと確実に長くなってしまうので今回は割愛します。

旅の話、聞いてくれる方がいれば今度飲みにいきましょう。


自分が思ってた以上に人って優しいんだな。

自分はやっぱり人が大好きなんだ。

と改めて感じる旅になりました。


0円旅のゴールであった白川村に到着してからは、帰りの食事代なども稼がなければ生きていけなかったので、高山まで路上ライブをしに行ったりはしていましたが、疲労がやばかったので基本はゆっくり過ごしました。


3回目の白川郷


0円旅で白川村に到着してからは、柴原さんからヒト大学のはじまりや業務内容について勉強させてもらいました。

あの合宿が忘れられなかったし、話を聞いても、やっぱり自分はヒト大学に携わりたい。

夏であれば大きなイベントもあるし手伝える仕事もあるということだったので、

じゃあまた夏に来ますと約束をして、札幌へ帰ります。


札幌に帰ってからは、白川郷ヒト大学のミーディングにzoomを使ってテレビ会議で毎週参加させてもらいました。

ある日のミーティングで、夏の期間に白川村に長期滞在する筑波大学の「惣一」に出会い、僕たち2人は一つの企画を任せてもらえることになります。

それは、ローカルワーク編集合宿の企画・運営。

僕がずっと忘れられなかったあの合宿を今度は、自分たちで企画・運営する。

白川村に行く予定の8月中旬までの間は、電話やLINEで惣一と相談をし、

映像編集は教えられる人員が少なかったことや、合宿の日数的に厳しいと判断。

人手不足で困っている村の事業者さんの求人記事制作を行う内容に決めました。

集客方法やスケジュール調節、お呼びする講師との連絡など、僕らも予想以上に苦労することや小さなつまずき、そこから得る学びが沢山ありました。

(開催した合宿)



8月中旬、

いよいよ白川村に向かう日となった時、札幌に大きな台風が近づいていて本州へ向かう飛行機は全て欠航になってしまいました。

翌日の早朝の便で中部国際空港に向かうことは可能だということでしたが、名古屋に到着する時間には、名古屋駅から白川村行きのバスがなくなってしまっている。

せっかく午前中に名古屋に着くのに一日身動きがとれないのは時間もお金ももったいない。 そんな時

あ、ヒッチハイクがある!

バスはないけど、ヒッチハイクなら白川村まで行けるかもしれない!

となぜか急に思いつき、中部国際空港のコンビニでペンと店内で一番大きな紙を買い、人生初のヒッチハイクをしてみました。笑

猛暑日だったので倒れそうなくらい暑かったですが、またここでも沢山の人に応援され、乗せていただき、出会いに溢れる中、白川村より少し手前の高山までたどり着きます。

高山まで柴原さんが迎えに来てくれたので、奇跡的にその日のうちに白川村に到着することができたのです。

(このヒッチハイクのためだけに、わざわざ岐阜駅から片道2時間半かけて高山まで送ってくださった方と)

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白川に着いてからは合宿の最終確認や集客などを惣一と行い、合宿開催可能となる参加人数をなんとか集客。

実際に5日間の合宿を運営しましたが、全部が上手くいったわけではありませんでした。

それでも、取材先の事業者さんの言葉を受けて、自分の人生と照らし合わせて言葉を反芻していく中で気づきを得てくれている参加学生の姿を見て僕は嬉しかったし、

参加側でも運営側でもヒト大学に携わってみて、目の前の誰かのために仕事をすることが好きなんだと改めて感じる機会になりました。



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この合宿期間を含め夏は3週間弱の間白川村に滞在しましたが、同じ宿で一緒に生活した友達とは家族みたいな生活を送っていたし、この先悩んだり迷った時にきっと頼ってしまうだろうし、一生付き合っていく気がしています。



3度の白川村での生活を通して



小学生のころから一緒に過ごした時間の長さこそが友達との仲の良さだったり関係性を育むと思ってしまっていた自分。

だから幼なじみとか小中一緒の人とかに憧れてました。

でも、山に囲まれていて(車以外では)バスで数時間かけることでしかたどり着けない白川村という地域に来るという共通の選択をした人同士は、

短い期間でも深く、濃く、強い関係性を築くことができると、3度の白川村での生活で身をもって実感しました。

合宿、旅、ヒト大学のお手伝い

毎回白川村に行く目的は違っていても、行くと必ず心が暖かくなるし、素敵な友達や地域の人に沢山出会えていた。


”こんな地域を増やしていきたい”


いつの間にか芽生えたその思いが自分の感情の大きな部分を支配していたし、チャレンジせずに就職しても絶対に後悔し続ける。

そして、僕にとって、そのチャレンジの手段がヒト大学でした。

こんな地域を増やしたいと思った感情の裏には、きっと自分みたいな人を救いたいという思いもあったはずです。

転勤族で長く同じ時間を共有する友達がいなかったこと、高校時代のほとんどの時間を費やした野球で挫折を味わったことで周りに対する劣等感が拭えなかったこと、それでも行動を起こし続ければ自分のやりたいことにたどり着けたこと。

自分と同じような経験や思いを抱いている人ではなくても、人と人との距離が近い地域というフィールドで生活をしてみることで、どこか救える感情があるのかもしれない。

過疎化や高齢化に直面している様々な地域の力になりたいという思いはもちろんありますが、僕はやっぱり”人”を救いたい。

それが地域の中の人でも外の人でも。


だから僕は生まれ育った愛着のある北海道で、ヒト大学を作っていくことを決めました。




これが、僕が北海道ヒト大学の学長という道を選んだ経緯です。

これまで多くの方々の支えがあったおかげで、たくさん色々なことにチャレンジできました。

そしてこれからもチャレンジはより本格的になって続いていきます。

きっとまた沢山の方を頼ってしまうと思うし、悩まず突き進めるほど自分に力があるとも思っていません。


でも、今までの自分らしく、諦めずにもがいていきます。




北海道ヒト大学があったおかげで救われました。

北海道ヒト大学があったおかげで目標ができました。

北海道ヒト大学があったおかげで仲間ができました。



数年後にこんな言葉を聞けることを願っています。



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