【『ヱヴァ破』の批評】ロールトラブルと記憶の海


 

 役割が混乱している。
 期待された、役割が。
 
内向的ながら時に異様な興奮状態を見せた少年は、囚われた少女を救うために敵の体内へと飛び込んだ。
無口で感情を表現できなかった第一の少女は、ありがとうと三度口にし、少年の心が温かくなってくれることを望んだ。
かつて世界の果てに少年と取り残された第二の少女は、同級生の前で猫を被る余裕すら失い、嫉妬の顔を覗かせ、自分が笑えるのだと気づいた直後に、喰われた。
 
全てが、ズレている。期待されていた脚本を演じる役者はどこにもいない。

 

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」におけるキャラクター達が抱え込んだロールトラブルは、二つの側面から観測することが出来る。第一に、上述したようなキャラクターの内面レヴェルでの混乱がある。碇シンジ、綾波レイ、式波・アスカ・ラングレーの三人は、テレビ版やかつての劇場版(この二つを纏めて以下では「旧エヴァ」と呼称する)と比較すると、大きく性格を異にしている。
 しかし、より重要なのは第二の混乱、キャラクター達の「配役」のレヴェルにおける錯綜の方である。これについて、シンジ、レイ、アスカを起点に見ていこう。
 素直な読解を行うことを前提にすれば、「破」における碇シンジの役割は分かりやすい形での「主人公」である。レイとアスカから好意を寄せられ、物語の終盤において使徒に取り込まれたレイに向かって「僕がどうなったっていい! 世界がどうなったっていい! だけど綾波は、せめて綾波だけは、絶対助ける!」と叫ぶ彼の姿からは、「旧エヴァ」に見ることの出来なかった、「救う者」としての側面が窺える。ところが、エンドロールが流れた後、月から飛来した渚カヲルがシンジに向かい「今度こそ君だけは、幸せにしてみせるよ」と語った瞬間、シンジはかつての「救われる者」としての立場へと戻されてしまうことになる。したがって我々は、「破」におけるシンジが主人公として十全に機能しているのだと素直に考えるわけにはいかない。彼はレイに対しては「救う者」(=ヒーロー)として振舞うことを許されながら、同時にカヲルの前では「救われる者」(=古典的なタイプのヒロイン)として扱われるという役割上の混乱を抱えている。
 綾波レイは、「旧エヴァ」以降「母」を担う者として解釈されてきた。シンジにとって実の母である碇ユイ、彼女の魂を継いだクローンというのがかつてレイの背負っていた役割である。だが、「破」においてはいくつかの箇所で碇ユイの存在は仄めかされるものの、レイが明確に「母」としての役割を演じることはない。むしろ、「破」における「母」は、シンジに対して「行きなさい、シンジ君! 誰かのためじゃない! アナタ自身の願いのために!」と叫ぶ葛城ミサトに譲られている 。その結果、用意されていた定位置を失ったレイが行き着いたのは、「娘」という「旧エヴァ」において存在しなかったポジションである。シンジの作った味噌汁を口にし、「美味しい」と呟き、「旧エヴァ」では見せることのなかった無防備な表情をさらす彼女。ここにはかつての「少年」が「父」となり、「娘」にささやかな幸せを与えるという錯綜した構図を見て取ることが出来る。
 最後にアスカだが、彼女は「旧エヴァ」においてシンジが恋愛感情を抱いていた――少なくとも性的欲望は持っていた――相手であり、旧劇場版である〝THE END OF VANGELION〟のラストシーンにおいて再構成された世界にシンジと二人で存在していたという事実からも、かつてヒロインとして配置されていたキャラクターだと判る。ところが「破」において、元は非―人間的な存在だったがゆえに象徴としての「母」以上の役割を持たなかった綾波レイが人間的に振る舞い、シンジとの積極的なコミュニケーションを図りだした結果、アスカ自身はヒロインとしての存在価値を喪失することになってしまった。彼女はシンジ、ゲンドウ、レイの三人が織りなす疑似家族的な空間を守ろうとしたことで、使徒による浸食を受け、ヒーローであったはずのシンジの手によって――それがシンジの意志でなくとも舞台上の事実として――物語を退場させられてしまう。アスカは、役割の交換と混乱が生じている状況を観客に認識させるためだけに、「破」の舞台へと上げられたのである。

 

 こうした、キャラクター達に纏わりつくロールトラブルは、単に物語上の混乱を我々の眼前に提示するに過ぎないのだろうか。いや、そうではない。ここには「旧エヴァ」と「破」が全く異なるロジックで作られた物語であるという事実が浮かび上がってくる。
 「旧エヴァ」の物語においてはいたるところに〝謎〟が散りばめられており、それを解読しつつ使徒との闘いをこなし世界の危機を救うこと(=サードインパクトの回避)が目指されていた。にもかかわらず、物語の核となる人物であるシンジはそうした“謎”とは無関係に、「自分をいかにして救うか」というひどく内面的な問題にこだわり続けてしまった。テレビ版最終二話において、自らの存在を承認した瞬間に世界までもが彼を承認するというシーンが置かれていることからもそれは明らかである。このような作品構成を鑑みるに、「旧エヴァ」においては「自己が世界に優先する」構造が保持されているのだと言えるだろう。
 ところが「破」に至り、このような構造は完全に逆転する。そこではキャラクター達の自己を巡る葛藤は物語の外縁へと追いやられてしまっている。綾波レイはシンジに対して「ポカポカしてほしい」という素朴な願いを抱き、N2地雷を持って使徒に突撃するシーンにおいても「碇君がもう、エヴァに乗らなくていいようにする」と素直な願いを口にする。同様にシンジも、かつてクローンであることによってキャラクターとしてのアイデンティティーを保っていたレイが「私が消えても代わりはいるもの」と呟いたことに対し、「綾波は綾波しかいない!」と応答することで、「複数性に依った同一性」を「単数性に依った同一性」へと健全にシフトさせた。レイとシンジ、この二人の劇中における関係性は、「綾波レイと碇シンジの積極的な交流は物語において絶対的に支持される」という、世界の側が提示するルールの存在を予期させる。ただし、このルールへの予期を以て「破」が「旧エヴァ」と比較して、健全なラブストーリー化したと考えるわけにはいかない。むしろ、ここにはシンジとレイの発言・行動が、あらかじめ用意された世界のルールに従う形で為されているという新たな病が顕現している。「破」に対する印象として、登場人物たちが人間らしくなっているという意見をブログや掲示板でしばしば目にするが、実際のところ、シンジやレイは設定されたルールによって強制的に人間化させられているに過ぎないのだ。「破」において観客が抱いた違和感は、キャラクターのイメージが「旧エヴァ」と単純に異なっているという点にあるのではなく、彼らがルールに支配された予定調和な世界へと強引に押し込まれ、イミテーションとしての人間性を獲得してしまったという事実に起因する。
 「破」が「エヴァンゲリオン」という大きな流れの中に位置する作品であることに留意すれば、そこに描かれたキャラクターの「人間化」は、人間らしく振舞うことそのものの困難を描いた「旧エヴァ」と比較した場合、あまりにも健全過ぎるがゆえに、逆説的にイミテーションとしての印象を強めてしまっている。「世界が自己に優先する」構造の中で、我々はあたかもキャラクターたちにチェス盤の上で踊る駒のような印象を抱き、過剰な健全さが演出する病の香りを嗅ぎ取ってしまう。

 

 ロールトラブルの現場は「破」以外のテクストにおいても散見される。ここでは『ロマン』と「戯言シリーズ」という二つのテクストを眺めることで、ロールトラブルの本質的な効果がどのようなものかを探っていく。記された時も場所も違う複数のテクストからの思考、それこそがロールトラブルの持つ不気味な側面を浮き彫りにしてしまうことになるだろう。

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 ロシアの小説家であるウラジーミル・ソローキンによって一九九四年に記された『ロマン』という小説がある。十九世紀ロシアの小さな村を舞台に展開されるこの小説では、画家を目指す主人公ロマンを中心に、ロシア文学らしく大勢の登場人物たちが絡みあいながら、宗教、愛、芸術といった主題が人物たちの会話を軸に展開されていく。人間にとって普遍的でもあり重みのある主題を扱いながらも、本作はチェーホフやツルゲーネフの産み出す幸せな空間にも似た、極めて牧歌的な雰囲気に包まれている。
ところが、終盤に差し掛かると物語は突如として異なる様相を呈する。主人公であるロマンは森の外れに住む娘であるタチヤーナと恋に落ち、即座に結婚することが決まる。村人たちはみな二人の門出を祝福し、大規模な宴会が行われるのだが、深夜二人が自室に戻り、贈り物の包みを開くとそこには一振りの斧が仕舞われていた。斧の柄に記されていた「振り上げたなら斬り落とせ!」という言葉を見たロマンはタチヤーナに語る。「さあ行こう! 僕はなにをすべきか分かった。行こう」と。そうして彼は斧を手に取り、村人たちの虐殺を始める。斧で頭をかち割り、掴みだした腸を教会のイコンに巻きつけ、切り取った睾丸を洗盤に投げ込む。虐殺は全ての人間に対して行われ、愛する妻であるタチヤーナさえも殺戮の対象となった後、残された唯一の人間となったロマンの死を描くことによって物語は幕を閉じる。
このテクストにおいては明確なロールトラブルが生じている。牧歌的な要素に満ちた小説の前半部は、いわば十九世紀ロシア文学のシミュラークルであり、そこでのロマンの役割もまた、故郷の村に戻り、実存的な悩みを抱えつつ村の娘と恋に落ちるという極めて古典的な主人公であった。ところが、斧を手にした彼は何の感情も持たぬままに殺戮を続けるマシーンへと役割を変え、情熱的な恋に生きる女性として描かれていたタチヤーナもまた、斧を振り回すロマンの側で何も言わずに木製の鈴を鳴らし続けるだけの木偶人形に成り果ててしまう。そうしたロールトラブルの結果、『ロマン』というテクストそのものが、かつてのロシア文学そのものの死を宣告する極めてグロテスクなものへと変質してしまっているのである。
 また、西尾維新によって二〇〇二年から二〇〇五年にかけて記された「戯言シリーズ」においても、ロールトラブルに伴うテクストの性質変化の痕跡を見出すことができる。主人公であるいーちゃんは自らを感情の欠落した「欠陥製品」と称し、シリーズ当初には徹底的に冷徹な人物として描写される。ところが、シリーズ六作目である『ヒトクイマジカル』において、自分を慕ってくれていた少女である紫木一姫が殺されたことにより、彼は自身の中に人の死を悲しむ部分が残っていたことに気づく。これを転機として、その後「戯言シリーズ」は前半の非人間的な性質を失い始め、最終的にはヒロインである玖渚友といーちゃんの平凡な幸福を達成させている。
 このような「戯言シリーズ」の構造は、人間的な登場人物が心を失って虐殺を行うという『ロマン』とは対極にあるようにも見える。しかし、実際には人並みの幸福を求めるいーちゃんや、特異な才能を失って幸せな家庭を築く玖渚友の姿からは欺瞞の匂いが漂うばかりであり、そこには人間的ないーちゃんや玖渚という存在そのものがイミテーション以上のものにはならないという逆説が提示されている。「破」におけるキャラクターたちが世界のルールに従属しているように見えることで偽物としての空気を纏ってしまったように、『ロマン』においては一見平和に見える小説の前半部こそがロシア文学の慣習や伝統に支配されているがゆえに、その全てを破壊してしまう後半のロマンこそが活き活きとした存在に映ってしまう。また、「戯言シリーズ」においても、「欠陥製品」であることを重要なキャラクターの構成要素としていたいーちゃんが人間的な成長を求めてしまうことによって、後半の物語そのものが凡庸なキャラクターの動き回る陳腐な小説として回収されてしまうことになる。
ロールトラブルにおいては、役割の変更や混乱が生じたという事実だけが問題なのであり、先に与えられていた役割が人間的か非人間的であるかという点は重要ではない。順番がどうであれ、ロールトラブルはそれが生じると同時に、一般的に人間らしく見えるはずの描写を非人間的な性質のものへと移行させ、逆に無機的に描かれていた部分にこそ人間らしさが宿ってしまうという一種の錯覚をテクストの中に生じさせるものなのだ。その結果、我々はテクストそのものが屍体置場に変えられてしまったことを自覚し、登場人物たちがリビングデッドとしてテクスト内を動き回る様子を観察することになってしまうのである。
 こうしたロールトラブルの性質は「破」においても同様であり、さながら我々は、旧劇場版において一度は完結したはずの「エヴァンゲリオン」の世界が強引に「ヱヴァンゲリヲン」という屍体置場へと変換され、そこでリビングデッドと化した碇シンジや綾波レイの織りなすワルツを眺めているのだと語ることもできよう。

 

 「破」は「旧エヴァ」の基本設定を継承していながらも、キャラクター達の抱え込んだロールトラブルとそこから導かれる世界構造の逆転によって、単純にその延長線上に設定されることを拒んでいる。
 このような状況は、「旧エヴァ」において用いられた批評言語が「破」に至って瞬時に無力化されてしまったという現実を浮かび上がらせる。東浩紀はかつて「庵野秀明は、いかにして八〇年代アニメを終わらせたか」において次のように語った。

あらゆるジャンルの作品において、直接の物語内容など存在しない。それ  はつねに表現媒体の物質性や、その作品が所属するジャンル全体との緊張関係から規定される。かといってそれは、物語がどうでもよいということを意味しない。九十五年に、このような物語が、アニメを媒体にして登場したということ自体の意味を僕たちはまず捉えねばならず、つぎに、そのメタレヴェルの意味こそが『エヴァンゲリオン』の物語としての魅力を新たに指し示すことに気づかねばならない。 

小説であれば小説の、映画であれば映画の、詩であれば詩のコンテクストに置かれ、そこでの緊張関係に晒された結果として物語は規定されることになる。「エヴァ」はアニメを媒体にした物語であり、物語内容をメタレヴェルのデータで補完しようとする〝謎本〟が大量に産み出される一方、東が述べたようにメタレヴェルでの意味を解読しようとする批評言語もまた多く紡がれた。
 しかし、「破」においては「旧エヴァ」の世界を構成していたような分かりやすい形での〝謎〟は存在しない。いや、正確に言えば新しい使徒の名前や「ネブカドネザルの鍵」といった未だ不明瞭な情報は存在するのだが、物語から露骨な狂気が剥奪されているために〝謎〟の解明と「破」の世界の解明とが乖離してしまっているのだ。仮に以前と同じように〝謎本〟を作ったところで、それがガイドブック以上の意味を含むことはない。
 また、メタレヴェルにおける旧来の分析方法を「破」に対して適用しても十全な意味が獲得されることはないだろう。「旧エヴァ」においては登場人物たちの精神分析、当時の社会状況――たとえばオウム真理教やキレる若者――と結びつけての分析、そしてアニメ史との関わりを考慮しての分析を中心とした批評が展開された。だが、表向きは健全化した「破」の物語やキャラクターに対して精神分析批評や社会批評の手法を用いたところで有益な言説を紡ぐことは難しい。先述した過剰な健全さに基づく病とは、いわば物語の理論的構造に依拠した文学的な病であり、人間の精神や社会の実態とは遠く離れたところで進行している。ではアニメというジャンルを経由して「破」を扱う手法はどうだろうか。「旧エヴァ」はアニメ史にとって重要な要素をいくつも残したが、中でも特記しておくべきはテレビ版最終二話において「アニメである/ないとは一体どういうことか」という問いを視聴者に突きつけたという点だろう。同様の構造は〝THE END OF EVANGELION〟における、突如物語が中断して映画を見る観客の姿が映し出されるという演出にも引き継がれている。こうした「旧エヴァ」の攻撃的な戦略に比べると、「破」の演出にはアニメとして奇妙な効果を発揮するものがない。美麗な映像や高度なCG技術を駆使しての戦闘シーンは確かに素晴らしいが、表現方法それ自体は「旧エヴァ」よりも保守的な戦略を採っている。誤解を恐れずに言えば、「破」はアニメであることの必然性を有してはいないのである。
 こうした現状の先に我々は、「破」を語る上でどのような態度を見出せばよいのか。それを探るためには改めて「破」がどのようなコンテクストと緊張関係を築いているのかについて考える必要がある。ここでまずは「破」がオリジナルの作品として登場したわけではないということを念頭に置いておこう。新劇場版が基本的には「旧エヴァ」の設定を引き継いでいるという点を「序」によって確認し、その上で物語の別の可能性を提示しているのが「破」であることを考えると、そこにおける最も肝要な位置づけはパロディとしての役割である。
 結論を述べてしまおう。「破」が最も強烈な緊張関係を築いているコンテクストは「エヴァンゲリオン」という現象そのものなのであり、作品としての強度は自己言及性によって支えられている。かと言って、それは「破」が外部に開かれることのない自閉的な空間を作っていることを意味するわけではない。「破」の置かれるべきジャンルが「エヴァ」そのものだということは、「旧エヴァ」に対する応答としてのみ「破」が機能しているという見解とは一線を画している。実際のところ、我々の脳内には現象としての「エヴァ」が立ち上がった十四年前からの記憶が蓄積されており、その記憶もまた一つの重要なコンテクストとして「破」と共鳴しているのだ。

 

 十四年に渡る記憶。それはすなわち、テレビ版の『新世紀エヴァンゲリオン』が始まってから新劇場版「ヱヴァンゲリヲン:破」に至るまでの時間の蓄積である。
「破」の参照項が「エヴァ」という現象そのものであるということ、それが決して閉じた世界を作るわけではないということ。このような主張の正当性は、十四年間の間に産み出された二次創作の海が存在することによって保証される。『失楽園』、『エンジェリック・インパクト』、『RE―TAKE』などのアンソロジーや同人誌、ネット上で無数に展開されたSS群とイラスト群、ヒロインやエヴァの機体を中心としたフィギュア、パチンコ台やスロット台への進出、『鋼鉄のガールフレンド』、『碇シンジ育成計画』などのゲーム作品、そしてそれらをコミカライズした商業作品……。二次創作の海は同じ「エヴァ」に依拠していながらも全く違う可能性を産み出し続けてきた。その量があまりに膨大であるがゆえに、「エヴァ」という記号が示す意味内容は個々人によって大きく異なるものとなっている。
 「破」はこうした二次創作の海による記憶を吸収した上で我々の前に姿を現した。そのことは作品の構造にも反映されている。「旧エヴァ」に〝謎〟が散りばめられていたということは、裏を返せば作品の中に多くの余白が用意されていたということでもある。そうであるがゆえに人々は空白を埋め、物語を少しでも完成に近づけようと試み、二次創作へと熱中した。それに対して「破」はまさに初めから物語を充実させてしまう(=〝謎〟を追い払ってしまう)ことによって、市場の動きと消費者の欲望を物語の内部に取り込み、メタメッセージとして機能させることに成功した。したがって、「破」における物語としての魅力はナラトロジーとしての自立性だけではなく、十四年もの時間をかけて「エヴァ」現象が産み出してきたイメージや記憶との共犯関係によって成立している。

 

インターネット上で「破」についての情報を検索すればすぐに分かることだが、「破」がパロディである、もしくは二次創作的であるという指摘はすでに幾人もの論者によってなされている。だが、彼らの中には誰ひとりとして、パロディであることがどのような効果を発揮しているのかについて明確に述べている者はいない。彼らは「旧エヴァ」をオリジナルだとみなし、それとの類似性を残しつつもストーリーやキャラクター造形がズレているという分析結果を二次創作的と表現しているに過ぎないのである。だからこそ、我々はここで技法としてのパロディがどのような効果を持つものなのかについて改めて思考する必要がある。

「破」の最も肝要な役割がパロディとしての立ち位置であることはすでに述べた。参号機への搭乗者はトウジからアスカへ変更され、逃げ出したシンジにもう一度エヴァに乗る決意をさせる役割は加持からマリに移り、かつて初号機に喰われた使徒ゼルエルは零号機とレイを取り込むことで姿を変えた。しかし、より正確を期した言い方をするならば、パロディであること以外の選択肢など初めから存在しなかったと述べる方が適切だろう。
 二次創作が大量に産み出されるということは、同時に物語における「if」がどこまでも追求されていくということでもある。もしも使徒が攻めてこない世界があったら、もしもミサトがシンジに恋をしていたら、もしも渚カヲルが人間としてシンジに出逢っていたら、もしもアスカとレイが親友として接しているような世界があったなら……。このようにして二次創作が様々な物語の「if」を食い荒らした環境の先に再び「エヴァ」を語りなおそうとするならば、それはどのようにしても二次創作の海に取り込まれ、パロディとして設置されることになる。
 だが、パロディから逃れられないことを知った上で、庵野秀明がオリジナルの作品として「破」を手掛けることの意味はなんだったのか。何故インディーズの一作品ではなく公式のものとして作られなければならなかったのか。
この問いに答えるためには、キャラクターに――イミテーションとしてのものではあれ――人間性を獲得させたのは何故かという疑問を解決する必要がある。「破」のキャラクターはかつての狂気やトラウマから解放され、日常性を備えた生を進めている。そうした彼らの生を目撃し、我々は強い違和感を覚えることになったが、そもそも「破」におけるキャラクター達の日常化を自然に受け入れられないということが、「エヴァ」の消費形態を慮ればすでに異常なのである。同人誌の中で綾波レイがよく笑いよく喋るキャラクターとして描かれるような場合、それがオリジナルである「旧エヴァ」と異なる世界観であるにもかかわらず、我々は自然なこととして受け入れてしまう。「二次創作においては、キャラクターの名前や見た目が原作から大幅にズレていなければ他に制約はかからない」とする暗黙のコードがそのような受容を可能にしているのである。
「破」の戦略とは、オリジナルと全く同じキャラクターを使って別の物語を紡ぐようなものとは異なり、キャラクターそのものをロールトラブルに巻き込むことで自動的に別の物語回路を開かせてしまうものだった。そこにおける戦略は二次創作と同型でありながら、実際には圧倒的な違和感を産み出した。その原因はどこにあるのか。
そもそもパロディとは単にオリジナルに対する剽窃や盗用を意味する言葉ではない。カナダの英文学者であるリンダ・ハッチオンはパロディを「類似よりも差異を際立たせる批評的距離を置いた反復」 として定義した。重要なのは、パロディが「批評的距離」 を要請してくるがゆえに、その存在は常にオリジナルとの関係を相対化し、暗黙のうちに働いていたコードを暴いてしまうという点である。「エヴァ」が現象として成立していく中で、我々は二次創作における別種の物語の可能性やキャラクターの性格の変化に対して鈍感に振舞うことに慣れすぎてしまっている。その慣れこそが一つのコードを表象しているのだ。

このような状況を考慮して初めて、我々は「破」が公式の作品として作られたことの意義、さらには二次創作と同じ戦略性を備えながらも違和感を抱かせた理由という二つの問いに答えることができる。公式の作品であるという付加価値によって、「破」は「旧エヴァ」に接続されるだけではなく、同時に二次創作の海全体に対するパロディとして機能し、二次創作を産み出すことの意味そのものを相対化することを初めて可能にしてしまったのである。公式という記号を備えた上で人間らしく振舞うシンジやレイの姿は、これまで無数の二次創作が隠蔽してきた、「旧エヴァ」からのキャラクター改変が持つ本質的な不気味さを提示している。「破」のキャラクター達の健全さへの違和感は、もともと二次創作の海の中に用意されていたものなのだ。
先ほど参照したハッチオンは、ポストモダンの状況下において「芸術の諸様式はますます外側からの批評に不信感を抱くようになり、自分の構造の中に批評的注釈を取り込んでいこうとしている」 と述べている。この言葉はまさに「破」に対する予言としても受け取ることができるだろう。「旧エヴァ」に対して行われた批評を拒絶する構造を含んだ「破」という物語は、二次創作によって支えられてきた「エヴァ」という現象そのものに対する批評として機能しているのだ。 

 

ここまで議論を進めてきた我々は、「破」に仕込まれた巧妙な二重戦略を発見することになる。庵野秀明がどのような意図を持って制作を行ったのか、それを推し量ることは出来ない。だが、彼の思考がどうあれ、結果として新規の客層と旧来の「エヴァ」ファンのそれぞれに呼応するような二重性を持った作品が生まれてしまったというその事実こそが問題なのだ。十四年間の記憶を共有していない人々には美麗流麗なアニメーションと人間味あふれるキャラクターたちが織りなす優れたロボットアニメとしての顔を覗かせ、逆に二次創作に触れることで記憶を蓄積してきたファンに対してはパロディであることを利用して、これまで公にされることのなかった二次創作のコードを開示するという自己言及的な衝撃を与えた。
このような二重戦略の構図はキャラクターにも還元されている。シンジ、レイ、アスカ、ミサト、マヤ、トウジ……彼らは長い時間を我々と共に過ごしてきたがゆえに、記憶に縛られたキャラクターとしての役割を背負う。いくら表面上健全に振舞われたところで、包帯と血に彩られた世界の記憶が回帰してくるため、彼らはどこまでもイミテーションとして機能してしまうのである。その一方、真希波・マリ・イラストリアスだけが、トラウマを回避することを許されている。彼女は新しく追加されただけの登場人物ではない。我々の蓄積してきた記憶が収斂することのない唯一のキャラクターとして彼女は舞台上に現れたのだ。そこには一切の記憶が書き込まれていない。だからこそ彼女は新しいルール(=「裏コード、ザ・ビースト!」)を行使できる。「エヴァ」を背負ってきた代表的キャラクターであるシンジに向かって「そうやっていじけてたって……何にも楽しいことないよ」と軽薄な台詞を吐けるマリの存在は、記憶を共有していない新規の客層の象徴であり、十四年間の記憶から逃れることのできない我々に対する批評的身体でもある。

***

シンジが、綾波が、アスカが、過去の記憶と現在の役割に翻弄されながら舞台に立っている以上、我々もまた安易に前だけを向いていくというわけにはいくまい。「破」に触れること、それは我々自身が蓄積してきた膨大な記憶の海ともう一度対峙し、「気持ち悪」さを突き付けられる覚悟を持つということでもある。その作業をこなした上で初めて、我々は「ヱヴァンゲリヲン」の行く末に目を遣る資格を得ることになるだろう。
舞台はまだ、続いている。記憶の海を背後に抱えながら、彼らは与えられた役割を演じていく。


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