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「自分だからできること」を追求した52日間-羅針盤#5

✔ 日本語パートナーズ参加後,東南アジア青年の船へ
✔ 自分だからできることを-広島の魅力を伝える

内閣府の青年国際交流事業である「東南アジア青年の船」(以下,東ア船)に参加した青年たちの物語を特集する「羅針盤」。今回は第5弾です。

登場いただくのは,広島県から参加した渡邉健也(なべ)さん。東ア船を知ったきっかけから,「広島出身」だからこそできることを追求したことまで,語っていただきました。

※「東南アジア青年の船」に関する詳細は,こちら内閣府のウェブサイトをチェック!

———では最初に,簡単な自己紹介をお願いします。

なべ(以下略):渡邉健也といいます。広島県出身です。東ア船に乗った時は,大学4年生でした。就活を終えての挑戦でした。インドネシアに8か月くらい住んでいたことがあったので東南アジアとはつながりがあって,それで「東ア船良いな」と思ったことが参加しようと思ったきっかけです。

———インドネシアに住んでいたのは,日本語パートナーズで?

 そうそう,日本語パートナーズでインドネシアで8か月間くらい日本語を教えていました。東ジャワ州のマラン市という,人口80万人くらいの学園都市にいました。

(写真1: 日本語パートナーズ参加時のなべさん)

———東ア船はいつ知ったんですか?

 日本語パートナーズでインドネシアにいたときに知りました。同じマラン市で日本語を教えていた人が2010年(第37回東南アジア青年の船)の参加青年で,その人に「こんなにいい事業があるんだけど,参加しようよ~」みたいな感じで紹介されたのが始まりです。

———それはいつ頃ですか?

 2016年の10月ごろですね。僕らが参加した2017年の事業は2017年の3月が応募締切だったので,まだインドネシアにいる間に書類を整えて,帰国後すぐに応募しました。

———かなりのスピード感ですね.そこまでして参加したいと思わせる何かがあったんですか?

 インドネシアにいるときに,僕が広島出身ということを言うと,現地の人は原爆のことをよく連想するんですよ。彼らは広島・長崎の原爆に関してすごいよく知っていて。でも逆に,そのインパクトが強すぎて原爆のことしか知らないんですよね。なので僕が広島出身ですと自己紹介すると,「かわいそうな歴史を背負った人だ」という認識しか持たれなかったんですよ。でもそれは違うし,広島には魅力的なものがたくさんあるのに,それが知られていない現状にもどかしさを覚えました。それで,インドネシアはじめ東南アジアの多くの人に広島の魅力を知ってもらいたい,と思ったのがまず1つですね。2つ目は,日本語パートナーズで東南アジアで暮らして,そこの人の考え方とかがすごい好きになったんですよ。それで,もう少しインドネシア・東南アジアと関わっていたいなあと思って,応募しました。

———なべさんが抱いた「広島の魅力を伝える」というミッションで,何を一番伝えたかったですか?

 原爆の後の広島ですね。その一つが協賛をいただいた竹田ブラシ様の化粧筆と三島食品様のゆかり(ふりかけ)です。
 竹田ブラシ様って,女子サッカー日本代表のなでしこジャパンが国民栄誉賞を受賞した時に,副賞として送られた化粧筆を作った日本を代表する名匠ですし,三島食品様に至っては「ゆかり」と聞いて知らぬ人はいないくらいに日本人の生活に馴染んでいるものを製造してらっしゃるメーカー様です。しかも広島にあるんですよ,広島に!
 1945年に広島に世界初の原子爆弾が投下されて,広島は焼け野原になって,「75年は草木も生えない」って言われたくらいに荒廃したに見えたんです。でも,今では日本を代表するような産業がしっかりと根付いて,強く逞しく美しく輝く街になったんですよね。それを僕は知ってもらいたかった。だからこの度の企業様の御協賛を通じて,広島のそういう側面を垣間見てもらえる機会を作れたのは、大変うれしく思っています。

(写真2:竹田ブラシ様の化粧筆を体験する参加青年たち)

———協賛以外の活動では,何か広島に関して伝えたかったことはありますか?

 改めて多くの人が原爆に関して興味を持ってくれてるということは感じました。そこで,みんなにとっては教科書の中の世界だけど,僕にとっては家族史の一部であって抱えているリアリティが違うから,そういう面から何か伝えることができたんじゃないかなと思ってます。

———船に乗る前に,東ア船に対してどんなイメージを持ってましたか?

 前評判を聞いてて船に乗る人はすごい人が多いってことは知ってたんですが,実際事前研修に行ってやっぱすごい人たちばっかだなって思いました。なので,自分の色はあまり出せずに,添え物的な存在として終わってしまうんだろうな,という気持ちがありました。

———実際参加してみて,その印象は変わりましたか?

 乗ってみた後の感想としては,不十分な自分だったけどみんなに受け入れてもらった,ということは一ついえます。
 東南アジア青年の船は,これから各国の将来を担うような素晴らしい人材ばかりが集まってきます。でも,僕は別にそんな風に将来を嘱望されるような人間では無いし,まして自分がそうなっていくイメージも湧きません。だから,周りに対して劣等感も強く,場違いの感も最初は抱いていました。
でも,「広島のことを伝える」って言うのは,あの年のあの船の中では僕にしかできないことで,広島のことを伝えて,広島の辛い過去にも負けない逞しさ美しさを知ってもらう活動は僕にしかできないことだったんじゃないかと思っています。
 そういう自分にしかできないことを通じて,「あなたはすごいね」って,周りのすごい人たちが認めてくれたんですね。それがとっても嬉しかった。乗船前は添え物にしかならないと思ってた自分にも,自分にしかできないことがあって,それをしっかり認めてもらえるところだったっていう発見ができたのは,1番印象が変わったところかもしれません。

———ただ,この事業って仕事の総量が半端なく多いので,自分固有のポジションとか役割っていうのは割と見つけやすくてコミットしやすかったんじゃないですか?

 そうですね。それは実際に参加する前には思ってませんでした。自分が責任感をもってやる仕事が必ずあるので,不十分な自分でも周りが受け入れてくれて,任せてくれる,という実感がすごくうれしかったのを覚えています。自分固有のバックグラウンドから語れるものと言ったら,広島人であるくらいしかないので,それ以外の面で事業に貢献することとして責任ある仕事をできたことはよかったです。

———さっきの,「広島の魅力を伝える」という話に少し戻るんですが,そのミッション,なべさんはどれくらい達成できたと思いますか?

 80%くらいですかね。かなりポジティブな意味で。というのも,さっき話に出た竹田ブラシ様の化粧筆なんかは,口で説明したってよくわからないじゃないですか。なのでとりあえず一回体験してもらう。それで,体験してもらった後「これは他の筆と違うぞ」という感想を聞いたり,そういう表情を見たりすると,「よしこれ伝わった」って思いましたね。そうやって,「実際的な体験を通じて伝えることができた」というのはよかったと思います。ただ裏返すと,自分の拙い英語力もあるんですが,ことばではあまりうまく説明できなかったということもあります。それでも「伝わった」という実感を得ることができたので,そういうポジティブな意味で80%としました。

(写真3: 三島食品様のふりかけを楽しむタイのホストファミリー)

———船の中で特に印象に残ってることは何ですか?

 (写真4:写真中央,インドネシアで活躍するなべさんのルームメイト)

 1つは,みんな持ってる夢が大きいなあ,ということ。もう1つは,それをみんな実現するにふさわしいくらいの能力を持ってたり,努力してたりして,実現できそうなレベルにいることがうらやましいなあと思ったことです。僕のルームメイトだったインドネシア人は,インドネシア大学の薬学部を出て,いまブンクルという町で薬剤師をやってるんですね。その町は,人口が30万人くらいしかいない小さな町で,有名なものと言ったらコーヒー,ラフレシアが見れる,というような自然豊かな町で,言ってしまえば産業があまり発展してないんですね。それで,そのルームメイトの彼は,「そんな小さいブンクルだけど,ブンクルで取れるものを使って薬を作りたい。それを通じてこの街に産業をつくりだして,自分のまちに貢献したい」ということを言ってました。事業が終わった後,実際彼のまちブンクルに行って彼に再会したんですが,もう一度その話を聞いたら同じことを言ってるんですよ。それで,いつかほんとに実現するんだろうな,世界を引っ張っていく人ってこういう人なんだろうな,ということを思いました。それがとても印象に残ってます。

———船に乗る前に想像してなかったこと,いい意味で期待を裏切られたことなどはありますか?

 やっぱみんなすごい人たちばっかで,そのすごさは自分の想像を越えてました。それでかなりの劣等感を抱いてたのですが,それでも周りの人がいろんな仕事を任せてくれたり,自分を受け入れてくれたりしたことが「いい意味で予想外だったこと」でした。

———船での経験をひとことか一文でまとめると何になりますか?

 「自分だからできること」かなあ。今回(2017年度,第44回)の東ア船では自分が唯一の広島出身で,それだからできたこともたくさんありました。また,自分に任せられた仕事をしっかりこなして,いろんな人に責任感があるといわれたことも,自分だからできたことを積み重ねていった結果なんじゃないかなあと思います。

———最後に,今後東ア船の経験を今後の人生にどのように活かしていきたいですか?

 ひとまずは,引き続き「広島の魅力を世界に伝える」ことを続けていきたいと思ってます。東ア船でできたことがかなり自信になったので,自分の仕事になるかどうかはまだわかりませんが,ひとまず事業後の活動を通じていろんな面で行っていければと思います。

———ありがとうございました.

(編集後記~ざーたくの戯言#5~)
 なべさんの「やっぱみんなすごい人たちばっかで,そのすごさは自分の想像を越えてました.それでかなりの劣等感を抱いてた」ということばには,東ア船に参加したことがある人であればかなりの人が共感するのではないでしょうか。ほかならぬ私(編集者)も,事業中そして今も,同じ船で過ごした仲間の活躍には圧倒されます。ただ,「みんなに受け入れてもらった」となべさんがいうように,自分に適したポジション,自分にしかできないことが必ずあって,それを通じて事業に主体的に関わっていくことができます。その点から見ると,劣等感を抱きつつも,事業を通じてかなりの自信を得たという人も少なくないのでは,と思います。

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※「東南アジア青年の船」に参加した青年たちの物語を紹介する本プロジェクト「羅針盤」に関する詳細はこちら

※本note,及び「羅針盤」ウェブサイトに掲載されている内容の一切は,「東南アジア青年の船」事業主催である内閣府の公式見解ではありません.