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命は大事 寿命を延ばす費用をだれが負担する? 尊厳死問題

「生きる権利」をどのように守り、保障するのか。難しい問題だ。
 特に終末期である。通常の医療では手の施しようがないと主治医が判断したとする。その場合、当人や周囲にはどういう判断の余地があるのか。
 この問題を取り上げた西日本新聞の論説委員に敬意を要する。

 終末問題を考える際の判断事項には何があるか。
 まず、死を最終的に免れることはできない。しかしその時期がいつかは定まっていない。例えばここで手術をすれば死期を3日遅らせることができるケーズを想定する。3日あれば家族は最後に濃厚な人足関係の再確認をすることができるかもしれない。しかし手術にかかる費用は2千万である。さてどうする?

 昨今の倫理会では当人の選択判断権が優先される。当人が3日でもいいから長く生きたいと希望すればそのとおりにしてあげるのが正しいという方向にある。当人の希望に反して生命維持装置を止めたり、毒薬を注射するのは殺人行為である。これには異論はないだろう。カネをもらってそうした行為をした者への社会の反感は当然だ。それが社説の取り上げた事件。
 当人がいったん同意したではないかとの言い訳もあろうが、当人が翻意していたかもしれないではないか。ということで同意による安楽死を認める場合には、なにをもって同意とするか、そしていつ以降は翻意を認めないことになるか。それをだれが判定し、だれが行為を実行するかなどを厳格に定める法制が必要になる。そしてわが国は本気で法制化に取り組んでいない。ここまでも異論は少ないだろう。
 では当人に意志表示できない場合はどうなるのか。病状によって、あるいは認知能力喪失によって、当人が判断能力を完全に喪失している場合である。同意能力がないのだからいわゆる尊厳死や安楽死はあり得ない。さてどうする。生命維持装置をつけ、人工栄養補給を続けるのか。しかし技術が進めば生き続ける期間はどんどん伸びる可能性があるし、低温仮死状態で半永久に眠らせておくなどは技術的には遠くない時期に実用化されるだろう。でもそれを該当者全員に施すことになれば、早晩、そうした保存施設で埋め尽くされることになるのは必定だ。
 社説はここまで露骨な書き方をしていないが、問いかけているのはそういうことだ。さてどうする?
 
 こうした場合,経済的側面からの考えるのが実は早いのではないか。
 いわゆる終末期医療、すなわち治療の効果は望めないことが判明して以降の死期を若干遅れせるための治療にかかる費用が膨大かつ増える一方だ。そしてそのために健康保険財源投入が増大している。
 健康保険治療とは何か。その沿革ををたどればすぐに理解されるが、労働者を傷病状態から早期回復させて労働現場に復帰させることで、労働者の福利と企業の生産性を挙げるのが制度目的であった。それが全国民、すなわち引退老人にまで拡大されて国民皆医療保険になっている。老人にも生きる権利があるとなったのは進歩だが、死者はどこまでいっても医療の対象にならない。では回復の可能性がほぼゼロの者は保険治療の対象か。これが経済的側面から見た問題提起。
 健康保険の財源は有限だ。投下優先順位は当然にある。そこまで考えれば答えは簡単。保険医の判断で、これ以上の治療は無駄となった以降の保険給付をやめることだ。
 当人の判断で治療を続ける場合は自費。金持ち優遇との批判はあっても、どのみち大した長さではない。金持ちでも無駄だから最後の世界旅行をしようと思う者もいるだろう。
 この仕組みは重度認知症や事故で回復可能性がない長期昏睡の者ではさらに有効のはずだ。当人は意思表示能力がないのだからだれかが代理判断しなければならない。その場合、費用負担があるのとないのとではおのずから判断が変わってしまうが、どちらが当人にとって望ましいかはわからない。
 難しい問題だが社会的に判断しなければならない時期に来ている。 

【社説】医療と患者意思 生きること支える体制に 西日本新聞 2024.3.17


 人生の終わりが見えてきたとき、その人が生きることを全うできるように支えるのが医療の役割である。
 そんな医療の名に値しない犯罪行為だ。海外で厳格に運用されている安楽死ともあまりに懸け離れている。
 全身の筋肉が徐々に萎縮する難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性の依頼に応じ殺害したとして、嘱託殺人罪などに問われた医師の裁判員裁判で、京都地裁は懲役18年の判決を言い渡した。
 医師は主治医でもALSの専門医でもなく、女性とは交流サイト(SNS)で知り合った。別の医師と女性宅を訪ね、付き添いのヘルパーが離れた隙に薬物を投与した。130万円の報酬を得ている。
 裁判長は「生命軽視の姿勢は顕著で強い非難に値する」と述べた。妥当な判決といえよう。
 意図的に薬物を投与して患者を死なせる安楽死は、日本では合法化されていない。認めている国・地域では厳しい条件を定め、主治医らが患者の病状や意思を慎重に把握している。
 今回の事件後に安楽死を支持する声も上がったが、犯罪と「死ぬ権利」を直接結び付けるのは乱暴過ぎる。
 死にたいと思うほどつらく孤立した女性に対し「死にたいから死なせる」ではなく、医療や福祉、人のつながりによって状況を改善することはできなかったのか。
 医療や介護を選択する際、患者の自己決定権が尊重されるのは当然だ。その仕組みは「生きる権利」が前提でなければならない。
 近年はアドバンス・ケア・プランニング(ACP)という考え方が重視されている。将来の医療やケアについて、患者の意思決定を家族、医療や介護の関係者がチームとして支える。意思は変わり得るため、繰り返し話し合う。
 厚生労働省は2018年に改定した人生の最終段階における医療・ケアの決定に関する指針に反映させたが、まだ社会に浸透していない。
 22年度の調査で、最終段階に受けたい、受けたくない医療やケアについて家族や関係者と詳しく話し合った人は1・5%にとどまる。ACPの意義を国民に周知すべきだ。
 併せて、終末期医療に関する情報提供を充実させたい。誤ったイメージを持てば、延命治療を悲観的に捉える可能性がある。胃ろうや人工呼吸器を選び、自分らしく生きている人もいる。分からないことや不安に対応する相談体制が欠かせない。
 人工呼吸器を外すなど延命治療の中止は重要な問題だ。医師が刑事責任を追及される恐れもあり、いったん始めるとやめにくい。装着の段階でつらい決断を迫られる。
 基準の法制化を求める声がある一方、ACPを充実させれば法律は不要との見方もある。どんな仕組みなら「生きること」を最期まで支えられるのか、慎重に議論したい。

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