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500 倫理に流行りすたりがあるものだろうか 同性愛の場合

新聞の人生相談欄を読む。
 相談者は40代男性会社員で、結婚歴なし。一人っ子のようだ。父親は3年前に他界。母親は入院中で、回復は難しく、このまま永の別れになりそうだ。彼は同性愛者であるのだが、母親はうすうす気づいているのでないかと思っている。
 相談内容は、同性愛の秘密を母親に打ち明けるべきかどうか。「母のモヤモヤは、私が同性愛者であると告白すれば晴れるでしょうし、私の後ろめたさも解消できますが、逆に母を苦しめるかもしれません。世の中には曖昧にしておいたほうがいいこともあるでしょう。母との別れが近づく中で、伝えるべきか悩んでいます」。
 回答は「どちらを選んでもかまわない」。親に共通する願いは、わが子が幸せに暮らしていること。したがって母親とは、昔の楽しかった思い出を語りながら、感謝の気持ちを伝えていくこと。そのときに自分が同性愛者であると明かすことが不可欠と判断すれば打ち明ければよいし、自分の口からは積極的に知らせないほうがよいと判断すれば、触れずにいるべきだというもの。親子といえども人格は別。誰しも親には言えない秘密の一つや二つを持っているものだからというのが根拠。
 この回答結果はよいのだが、気になったことがある。「私も、昭和ひとけた世代の母親が生きてきた時代の倫理基準からみればいけないこともしてきたと思いますが、たぶん母親はうすうす知りながら、何も言わずに25年前に亡くなりました」
 この下りが引っかかる。回答者が秘密にしていることが何だったのかに関心はない。気になったのは、彼がした行為が「現世代の倫理基準」に照らせば許されないものであったらしいこと。そして文脈をたどれば、彼が秘密にした行為は、A:母親世代においても現世代においても倫理に反する、B:母世代では非倫理的だったが今は許容される、のいずれかになる。
「私も」と書くことで、相談者と同類を強調していることから、回答者は同性愛の倫理的位置づけを彼の行為と同レベルとしている。つまり同性愛は親の世代においては倫理違反であったと認定しているわけだ。
 
 現代において同性愛を倫理違反とする者はいない。これは相談者が新聞紙上で公開していることから明らか。そうすると回答者はBの見解、すなわち同性愛は今でこそ許容されるが、一世代前までは社会から糾弾されるべき倫理にもとる行為であったと考えていることになる。
 果たしてそうなのか。ここでAでもBでもなく、C:親の世代においても同性愛を非論理的行為としていなかったという説は成り立たないのだろうか。
 現代でも同性愛をことさら自慢する者はいない。その理由は自明だ。子どもが生まれることをだれもが祝福する。動物の本能といっていいだろう。独身主義者同様、同性愛者では子どもができる可能性がない。よって困った奴だという評価になる。しかしながら古来、日本社会は性にはおおらかだった。某国のように同性愛者を処刑するとか、石礫(つぶて)の的にすることはなかった。当然一世代前にもそういうことはなかった。
 日本社会では昔も今も、同性愛は非倫的行為とはされてこなかったのが事実ではないのか。しかるにそうしてことには目をつぶり、同性愛者には牢獄のような日本社会であったと決めつける。そしてその呪縛を解くためと称して、極端に逆に振れた法制度の導入を正当化しようとうする。もう少し考えたほうがよいのではないかとの穏健な考えに対して、批判中傷の集中攻撃をする。そうした運動の背後に隠された得体のしれない危険を感じる。

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