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《書評》建設的な対話の為に|「独学の思考法」山野弘樹

 私は、暇潰しに独学をしている事が多いので、気になり本書を手に取った。本書は、独学と言っても具体的な学問について云々するのではない。自ら問いを立てて探求するような学びをする際に役立つ、「考え方」に関する書籍である。一部は「考える技術」について、二部は「対話的思考」について述べている。

 独学というと本を読む事を想像する方は多いだろう。筆者も実際に学生時代には乱読したそうだ。しかし、そういった学び方(知識をやたらめったら取り込む)ではダメだそうだ。なぜダメか。それは「他人の走った跡に沿って歩く」ような行為に他ならないからだ。プロローグでは、知識は思考の道具なのではなく、むしろ知識が思考を規定してしまう事、そして知識によって思考能力は上がらず、思考能力を上げるには思索が必要である事が説明される。

 どうすれば、知識ばかりで考える事が出来ない人間にならず、自ら思考する人間になれるか。その為には、本を読むにおいても、問いを立てながら読むのが重要だと著者は説明する。この説明にとても納得が行ったので、本書評においては、幾つか問いを提起しながら書いていきたい。

 本書はまず問いの建て方から解説する。問いには、判断の普遍性を探究する問い、判断の具体性を探求する問い、判断の前提となる価値観を探求する問いがあるという。問い、と言っても大きな命題に対する是非という訳ではなく、細かい論点を云々する為の問いも含まれる。そこで、(本記事があまりに長い為、以下の記事にまとめました

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 さて、このように、本書が提示した風に思考を発展させていくのもまた一興だが、書評に戻ろうと思う。本書は、対話に至れるような確立した思考(即ち、自分でハッキリと何を言っているのかが分かる思考)を作り、かつ相手との建設的な対話を行う方法論的書籍である。対話や、論文に至るまでの思考の過程を全て列挙しているのだが、その中には、私は得意だと思う箇所から、これは苦手だと思う箇所まで様々であった。

 著者は、第二章において、思考の元になる文献を、分節(ピックアップ)し、要約する能力について解説する。ここで著者は本への書き込みを勧め、書き込みの具体的な方法に数ページを割いている。図書館の本では書き込みは出来ない。というのは置いておいて、理解力を取るか本の価値を取るかという葛藤については、断然理解力を取るべきだとの主張である。私は、書き込みでどの程度理解しやすくなるのかについて、経験がない為分からない。それ故、1回は試してみたいといった具合だ。

  また、第四章においては論証する力において述べる。ここでの論証とは、元のテキストに、自らの推論や問いを組み合わせた、批評的な論証である。つまり、この書評でやっている事はまさにそういった行為だ。方向性としては、論文や対話で他者の発言を引用した後、自分の論理を重ねるといったものを想定しているのだろう。

 本書は、概論的には思考について役に立つ考え方を提供していると思う。しかし、所々、著者の提起している立場の中で、気になる箇所があった。それを述べたい。

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 著者は、第六章における対話における手法において、前提の掘り下げを行う事を推奨する。例えば、「ゲームは教育に悪い」という主張がされた場合、否定から入るのではなく、「ゲームというのはどういったゲームですか?」「教育に悪いというのは具体的にどういった事態を想定されていますか?」と問うのが良いと言う。そうする事で、部分的に賛同出来る箇所があったりする事に気付ける、ということである。さて、この理屈に違和感を覚えないだろうか。

 というのも、より具体化すれば賛同出来る箇所があるという事は、元の命題は、最初の時点では、「部分的には正しいが部分的には間違っている」命題であって、否定すべき命題ではないからだ。実際、このような命題に相対した時には、「というのは?」となるのであって、むしろ全面的に間違っていると否定するというのは不自然なのだ。つまり、著者が取り上げているのは、実際に全面否定から入る可能性があるケースではない。

 このような命題の対話で、仮に否定から入ったケースを想定してみたい。というのも、

 「でもね、うちの子はチェスに一生懸命になったおかげで数学の成績も上がったのよ。あれだってゲームでしょ?ゲームが教育に悪いなんて一概には言えないわ」(部分否定
 「それはそうだろう、だがFPS(ゲームのジャンル)ではゲーム内とはいえ人殺しをするんだぞ。暴力的になったらどうするんだ」

 というように、否定から入っても議論は発展するように思われるからである。大抵の場合、相手の主張をより詳細に分析しないと真偽を判断できない。そのため、最初から全面否定するのは好ましくない。しかし、議論の過程では、相手の意見と自身の意見が対立し、相手を否定せざるを得ない局面もある。そうである以上、それが最初に来る事も論理的には有り得る。

 無論、部分的な否定から入るより、部分的に肯定出来る箇所を探求した方が、お互いに気持ちのいい議論が出来るというのはその通りである。ただ、このような、殊更に相手の気持ちに配慮(respect)した議論を賛美し、プラトンの対話篇のような、真理を勝ち取る為に徹底的に論駁する議論スタイルを批判するのはどうだろうか。ここにはその場の気持ち良さを真理の探求より優先するというある種の不徹底さがあるようにも見受けられる。

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 さて、しかし言うまでもなく上記の指摘は些細な点である。それを後に指摘するのが七章である。七章では、著者は画期的な議論法として、「チャリダブル・リーディング」を提案している。チャリタブル・リーディングとは、以下の3つを特徴とする読解法である。

(1)相手が「一面の真理」を突いていると仮定する。
(2) チャリタブル・リーディングとクリティカル・シンキングは相互に両立する思考法である。
(3)チャリタブル・リーディングにおける対話者同士の関係性は「相互補助」的なものである。

 つまり、一旦相手の意見が正しいと仮定する。その上で、相手の意見を採用すると問題が生ずる所を相手に質問する。その問題を解決する方法を考える。こういった道筋で、議論を有意義にして行こうという事だ。単なる否定だけで済まさず、発展させ、相手の主張を最大限に活かす為の対話法(読解法)である。

 これに従って、私の前段落の批判スタイルも修正してみたい。というのも、筆者が言う通り、直ぐに否定をしないようにする事は、心理的安全性を保つ上では必要不可欠だと思われるし、健全で建設的な議論も生まれやすいだろう。しかし、私は、議論全体において、否定的な意見を述べる事を躊躇してしまうのも不健全だと考える。なぜなら、否定的な意見と相対した時に、初めてその中間的な意見を採用するという選択肢が生まれるからだ。上記の例で言えば、「ゲームは、物によっては教育に良いが、物によっては教育に悪い」という結論に至るには、どこかで主張への反論を述べる必要がある。と言った所か。

 総じて言えば、本書は、議論姿勢において極めて大事な所を突いている。まず、一旦は相手の意見に一理があるという姿勢は、直感的にも正しい。人間が意見を自分の意見にするのにおいて、必ずある種の論理がある。そして、論理である以上は一面的には真理を突いているからだ。

 総評としては、「考え方の基礎を極める」書籍として優れており、且つ対話的思考においても議論を建設的にする手法がしっかり説かれていた。書籍を明快に理解する方法などは洗練されており、著者の力量が伺えた。正直に言うと、本書評で頑張って反論を試みたのは、著者の冒頭の主張に影響を受けたからだ。基本的には、頷ける普遍的な事しか書かれておらず、そして思考法に関する本なのでそれが正解だとも思う。今後の自らの思考において、恐らく役に立つであろう良書であった。


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