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《書評》人権というフィクションを暴くな│「「オピニオン」の政治思想史」堤林剣・堤林恵

 現代において、「国家が死なない」のは何故か?二十世紀後半以降、国家は殆ど消滅しなくなった。国家とは、そもそも、言葉によって作られたフィクションであるのだが、それが死ななくなったのは一体何故なのか?本書は、こうした問いから始め、権力に支配権を与えるオピニオンから歴史を捉えようとする。

 まずは、本書を、メインの論旨のみ分かるように、こちらの判断でかなり省きながら要約する。※非常に長くなったので、あまり時間が無い方は、目次欄から、感想のみ閲覧するのをお勧めします。


要約

 一章:まず、著者は、オピニオン論について述べる。オピニオン論とは、「権力支配が機能するのは、支配される側がそれに従うつもりがあるからだ」として、支配される側のオピニオンが支配を決定付けていると考える。よって、国家が死ななくなったのは、「国家を死なせたくない」「国家は死なないと思っている」など、そういうオピニオンが背景にあるということである。

 二章:そして、国家が死ななくなる前に、王が死ななくなる様を論じる。ここで論じられるのは、「王の二つの身体」である。王の「自然的身体」(即ち、肉体)は死ぬが、「政治的身体」(即ち、威厳)は死なないとする論だ。しかし、後者が死なないと言うには、王の地位が確固たるものになっていなければいけない。

 そこで、王権神授説などの宗教的言説がある。具体的には新約聖書のローマ書の部分(全ての権威は神からのものという旨)を引いて、王権は確固たるものになったのだ。

 三章:しかし、王の自然的身体は、むしろこのアンビバレンスによって殺されてきた。どういう事か。つまり、王の政治的身体(神から与えられた役目を果たす為にある)に反する王がいた場合、放伐するべきだという論が展開される。

 暴君追放論(モナルコマキ)では、元々、主権は団体の方にあり、それが君主に移譲されたものなので、王が悪政を働いた場合、それを取り返す事が出来るという論である。それに対して、主権論が展開される。これによれば、譲渡した主権は二度と取り返される事がなく、王の主権は絶対である。この二つの論が、民衆のオピニオン獲得の為に争われた。

 四章:やがて、フランス革命によって、王は「政治的身体」までも殺されるようになる。かつては、王が死ねば国家も死ぬと言われていたが、国家は死ななかった。革命政府は人民主権の支持拡大の為にオピニオン獲得に勤しむ事になる。ここで、主権を持った国民が誕生し、ある種のナショナリズムが生まれる。やがて、皇帝についたナポレオンが、国家の為の死を煽り、国を死なせない為に国民が死ぬようになる。

 五章:ナショナリズムによって、世界大戦で多くの人が亡くなった。国家を死なせない為に、戦争に勝ち続けるのは不可能である。その為、不戦条約が結ばれる事となる。1928年にパリ不戦条約が結ばれる。しかし、理念だけを掲げた法律は実行力を持たず、この後に第二次世界大戦が引き起こされる。

 ただ、これで終わりではない。ふたたび新秩序(国際連合)によって、世界は不戦を掲げるようになった。オピニオンにおいては、昔は識字能力がなく、経済力もなかった家畜のような人間が、議論能力を持つまでに至った。よって、デモクラシーが実現し、国家は国民の意見を反映するようになった。

 六章:しかし、テクノロジーの発展や、豊富な資源により、オピニオンが不要になる時代が到来していると警笛を鳴らす。なぜなら、資本主義で、オピニオンの操作が可能となり、多くの資本家の間でのオピニオンのみで政治決定が行えるようになってきた。オピニオンの調達を必要としない相手には、平気で踏みにじる事が出来る。

 特に、テクノロジーの発展で、AI兵器の開発や生命のゲノム編集が行われている。神のようなテクノロジーの力が、人間の生活を支配する時、我々のオピニオンは意味を持つのだろうか?そのようなオピニオンを、誰が取り入れてくれるのだろうか?オピニオンが意味を持つ今、考えなくてはならない事がある。

 :やがて、死さえも乗り越えた人類が出てきて、それを与えられる人間と与えられない人間に別れたら、人間の生についての対話が絶望的に成り立たなくなる。

 テクノロジーによって、人権という概念がどうなるかも怪しい。そんな中、インターネットでは、弱肉強食、友と敵といった、「世界の真実を暴く」言説が出回っている。しかし、そのように隠されていたカーテンを開けて、正当化していると、やがて、支配者による弱者の蹂躙に太刀打ち出来る言論がなくなってしまう。

 普遍的人権が真実か幻想かは問題ではない。カーテンを開けなければ、舞台上の真実であり続けられる。オピニオンはフィクションを成立させる力がある。ならば、人権というフィクションを成立させ続けよう。芝居を演じ続けるように。

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感想

 要するに、技術革新(シンギュラリティ)に対抗する手段として、オピニオンを挙げている。具体的にどういったオピニオンが有効かは示されていないが、それが、「弱肉強食」的でない言説であるのは明らかであろう。

 この議論をもう少し考えてみよう。無論、人権というフィクションを守るのが今後の我々の生命線を握っているのは、言うまでもない。恐ろしい程に正しい言説であると言えるだろう。ただ、(揚げ足取りみたいになってしまうのだけど、)それを蹂躙したい国家が、情報統制などで思想的コントロールを行っている世界情勢において、本を読むような民間人が抵抗した所で、焼け石に水であるという事への、根本的な解決策は提示出来ていないと思うのだ。

 無論、対抗策はデモクラシーしかないので、それに賭けましょうという理屈はその通りである。また、本書はあくまで政治思想史が表題なので、世界に対するハウトゥーを求め批判するのは筋違いだろう。筋違いなのだけど、どこまで行っても、現在のデモクラシーの厳しさへの有効な意見にはなっていないなという感覚が残る。

 中世では、オピニオンによって王権というフィクションが作られ、それが機能した。現代で、人権というフィクションを機能させ続けるには、同じく強力なオピニオンが必要である。ならば、人権を機能させる論争こそ、この本の次に必要な本だと思う。あくまで、この本は、その論争が求められる理由を説明した、「基盤」と言った所である。

 カーテンを暴く言説には、再びカーテンを閉める言説で対抗しなければならない。ボダン、ホッブス、ボシュエ達が王の主権というフィクションを何度も機能させたように。そういった言説の必要性を示す上では、本書は重要な書であると思う。鮮やかな筆致で、歴史的議論を存分に堪能出来る良書だった。

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