見出し画像

東京大学出版会「講座 美学」を読む 第1巻 序論

僕の積読本の中に東京大学出版会の「講座 美学」という本がありまして、これが全5巻なのですね。

で、いつか読もうと思ってるうちにもう10年くらい経ってる気がするので、ああ、これはきっと読まずに死ぬパターンだな、と。5巻もあるし。ちっとも読み終える気がしないわ。

しかし! 何とかして読まねばならぬ。誰だ、本は積むことに意味があるとか言った奴は。いや。俺はちゃんと読むぞ。だって、もったいないじゃないか!別に高い本じゃないけど!

というわけで、フンフン鼻息荒くしてても仕方ないので、ちゃんと読んで、このnoteに読んだ感想を述べていきます。

まずは第1巻、美学の歴史から。

今日は、編集の今道友信先生(講談社現代新書の「美について」は名著ですよね)による序論です。

それでは、どうぞ。

序論

さて、この序論において問題となるのは、このことです。

「そもそも美学とは何か」

いや、何言うとんねんという感じかもしれません。でも、美学って、ちょっとそういうめんどくさい学問領域なんですよね。

たとえば、美学、という日本語は訳語であって明治時代に定着した言葉なのですが、じゃあ元々の言葉は何か。それはラテン語の「aesthetica」です。

この言葉が最初に使われたのは18世紀のドイツで、バウムガルテンという人が自著の中で使ったのがその始まりだとされています。で、このときバウムガルテンが提唱した「aesthetica」とは何か。それは、「人に快感を与える営みとしての詩の美的価値を考察する学問」です。簡単に言えば、どうやったら上手に詩を書けるかを考える学問、ということ。

つまりそれって、実践的な、感性の問題なんですよね。で、実際「aesthetica」というのは、ラテン語で感性を意味する言葉なんです。だから、本来「aesthetica」を日本語に訳すならば、美学ではなく感性学と訳した方が正しいんです。それって修辞学を意味する「rhetoric」を哲学、と訳すようなもの、哲学とは口達者に相手を論破することです、って言うようなものですから。

ではなぜ「aesthetica」が感性学ではなく美学になったか。それには3つの理由があるそうです。

カントの「判断力批判」

一つは、カントの存在。カントはバウムガルテンと同じ学派から出発していて、最初は美というものについてバウムガルテンと同じように考えていました。つまり、それは趣味判断の領域である、と。だから感性学である「aesthetica」は論理学や倫理学よりも一段下の学問だ、と「純粋理性批判」では言っていた。

でも途中で考えが変わったのかなんなのか、「判断力批判」という本を出したときにはその趣味判断の領域を哲学的に考える、ということをしたわけです。美や芸術といっても、レトリックとしての、快を求めるようなものばっかりじゃないよね、と。

ていうか、哲学に実践的な道徳哲学とそうでない理論哲学があるように、感性学にも実践的な感性学とそうでない理論感性学のようなものがあるだろう、と。多分そういうことですね。

このカントの考えを受け継いだのがヘーゲルでした。なので、この辺りで、「あ、美学ってちゃんとした哲学なんすね」というようにみんなが思うようになっていったのでした。

うん。まあ、カントとかヘーゲルとかは下手なことを言うとアホなのがバレるのでさらっと流すとして……

ロマン主義

二つ目の理由は、ロマン主義です。これはヘーゲルが生きた時代と少し被るんですけど、この頃は近代科学や科学的な合理主義というものがどんどん力をつけ始めていた時期でした。その一方、それに反発するようにロマン主義というものも広まっていった。このロマン主義者たちが、美とか芸術というものを科学的な考え方だけでは到達できないもっと崇高なもの、なんか宗教のようなものとして語り始めた。今でもそういう人はたくさんいるでしょうけれどね。僕はそういう考え方、好きですけど。

この二つの理由から、19世紀には「aesthetica」は、名前は感性学なのだけれど、実際はもっと哲学的で、時に宗教的な、まるで超感覚的認識論とでも呼ぶべきようなものになっていったそうです。

で、日本に「aesthetica」が輸入されたのはちょうどこの頃です。つまり、日本が「aesthetica」というものを取り入れたときには、既に「aesthetica」の実態は感性学ではなかったのですね。

日本独自の問題

これら二つの理由に加え、三つ目の理由がある、と本書では述べられています。それが、日本独自の事情です。

西洋では最初「aesthetica」は感性学から始まり、19世紀になって「いや、美とか芸術ってただの感性の問題だけじゃないよ。もっと深いものだよ」となったのですが、実は日本人は、もっとずっと前から、そもそも美や芸術を感性だけの問題だとは思っていなかった。

たとえば「道」という概念がそうです。茶道、華道、書道なんかは今でもありますし、昔は和歌を詠むことを歌道と言っていました。美を感じたり芸術をすることは、それ自体が哲学だったり人格形成だったり人生論だったりにつながる、という考えが昔からあったわけです。

だから、ただの感性学ではなくなった「aesthetica」は、むしろ日本人にとっては馴染みやすいものだったのでしょう。

「aesthetica」を最初に日本に紹介した人は西周という人で、最初の訳語は「善美学」だったそうです。この訳語は、論語の「善を尽くし美を尽くす」という言葉からきているのではないか、と本書では述べています。

そして明治時代には中江兆民や森鴎外なんかも美学を日本に紹介していますし、1899年には東京帝大で、1906年には京大で美学の講座が設けられました。ちなみに、外国で最初に美学の講座が開かれたのは、1921年のパリ大学なのだそうです。全然日本の方が早い。

まとめ

ということで、結局のところ美学とは何なのか。本書では、こう述べています。それは

「人間にとって重要な契機を思索するために組織立ててゆく学問」

であると。ちょっと難しいですね。こうも述べています。

「美を理性的に考える学(calonologia)」

であると。

だから、芸術というのは、実はあくまでもそのための手がかりに過ぎない。なぜなら、美というものは芸術家的な美だけでなく、自然美とか、人格美とか、そういうものもあるわけですから。

ちょっと興味湧きました? それとも、興味なくなりました?

個人的にはこの序論、すごくためになったというか、面白かったです。だって、もし誰かから「美学なんて、何の意味があるんですか?」って聞かれたら、こう答えたらいいんだって分かったので。

「その言葉、○○道をやってる人に言ってください」って。

○○道みたいなものに何らかの意味があるのだとしたら、美学というものも、美とは何か、芸術とは何かを問う「道」として、何らかの意味があるのだと思います。実践的な面で役に立つこともあれば、役に立たないこともある。でもそれは、「柔道や剣道に礼儀なんて必要ですか? 強けりゃいいんじゃないですか?」って言うようなものなんですね。別にその問いが無意味だとは思わないけれど。

ということで、もしかしたら色々と間違ったことやおかしなことを言ってるかもしれませんが、それらはすべて僕の思い違いか知識不足、あるいは誤読によるものです。

次回に続く。

よろしければサポートお願いします!頂いたサポートは今後の創作活動のために使わせていただきます!