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どうして僕らは独断と偏見ができるのか

前回

僕は価値とか本質というものは僕ら人間には多分認識できないものであり、僕ら自身がそれを発見していくものなのではないか、という話をしました。

でもそれは、もしかしたら最初の設問からずれてしまったのかもしれません。つまり、前回の例えであれば「そもそもキュウリが何かを知らないのに、それを発見すれなんて無理じゃん」ということになる。なので、もう一回改めて考えてみようと思います。(別に結論は同じなんですけどね)

価値とは何か。あるものに価値があり、あるものに価値がないとは一体どういうことだろうか。

とても古典的な定義でいえば、「もの(あるいは事象としての「こと」)」の価値は「真」「善」「美」と仮定できるのでしょう。これら3つの要素のどれかを備えている場合、その「もの(あるいは事象としての「こと」)」には「価値がある」といえる。

たとえば、数式には価値がある。なぜなら、数式は「真」だからです。また、たとえば法律にも価値がある。それは善だからです(もちろん、これはすべての法律が法律であるというだけで自動的に善である、という意味ではありません)。同じように、芸術の価値は「美」にあり、科学の価値は「真」に迫ることに、政治の価値は「善」に迫ることにあるといえるでしょう。

いくら多様性だとか相対主義だとか言っても、「真」を求めない数学や科学、「善」を求めない法律や政治、「美」を求めない芸術などというものがもしあったとしたら、僕らはそれらを許容できない。別にそれでもいいじゃないか、とはさすがに言えない気がします。

ただ、ここで問題なのは、じゃあ「真」とはなにか、「善」とはなにか、「美」とはなにかということになると、話がめっちゃ複雑になる、ということです。

僕の考えでは、人間の知性とか理性はそれらを本当の意味で認識したり把握したりすることはできない。それらは常に「のような気がする」でしかありえない。

このことは別に、論理的に考えれば誰もが辿り着く結論でしょう。だから通常、「真」とか「善」とか「美」そのものに関心がある人は、そんな迂闊に「あれは真だ」とか「これは善だ」とか「こういうのが美だ」なんてことは断言しないわけです。まともな科学者が決して断言しないのと同じように。そういうのは、結局はただの独断と偏見にすぎないのですから。

では、そうであるにもかかわらず、どうして僕らはそのような独断と偏見をできてしまうのでしょうか。

もしもそれが論理的に不可能なのであれば、そもそもそれをできないはずですから。

それは、僕らが前回述べた「名付け」をできてしまうからです。

キュウリが何かということを全体的にも本質的にも説明できないにもかかわらず、僕らはキュウリを「キュウリ」と名付けることができる。そうすることで僕らは言葉を用いてキュウリについてコミュニケーションできるわけです。ひとつのイメージとして。

ただし、ここで問題になるのは、僕が頭に思い描いた「キュウリ」と、今この文章を読んでいるあなたが頭に思い描いた「キュウリ」は一体どれだけ似通っているのか、ということです。

それがキュウリのように具体的なものである場合、僕のイメージとあなたのイメージはかなり似通っていることでしょう。

もしもこの世界に丸いキュウリとか赤いキュウリが存在したとしても、そのようなキュウリを想像する人のことを僕は想定外にできるわけです。あるいは、そもそも野菜ではない「キュウリ」なる言葉があったとしても、僕がその可能性を排除することを問題だ、という人はいないでしょう。

しかし、よく「⚪︎⚪︎とは何か」と問いかけられるような形而上学的なテーマにおいてはそうではありません。

なにを真とか善とか美だと考えるのか、その方向性(たとえば「誰にとって」というような)や解像度(具体的にそれはどういうことか)は人によって異なるわけです。

今、朝ドラ「虎と翼」の物語で述べられているテーマの一つも、「法律」というものの方向性と解像度だといえるでしょう。それは「武器」だと考える人もいれば「盾」だと考える人もいるし、「水」だと考える人もいる。それらの違いがなぜ生まれるのかといえば、それは「法律」というものの見つめる方向性(誰が、どのような立場から考えるか)と解像度(どのような具体的な知識と経験があるか)によるのです。

僕はヴィトゲンシュタインという哲学者がすごく好きで、このnoteでも時折触れているのですが、彼のすごく有名な言葉に「語り得ないものについては沈黙するしかない」というものがあります。

彼は論理をいうものについて突き詰めて考えた結果、世界には論理的に考え得ること(語り得ること)とそうでないことがあり、論理的に考え得ないこと(語り得ないこと)は文字通り「論理的に考え得ない」のだから、そのことについて考えようとするのは無意味だ、と述べたのでした。

彼の意見は確かに正しいし、事実なのかもしれないけれど、でも、この表現は論理以外の意味も含めると「正しい」とは言えないでしょう。なぜなら、この表現は「それでも人はそのような無意味なことをする」という現実を切り捨てているからです。

その現実を切り捨てることになにか意味があるのでしょうか。たとえば、無意味でしかない形而上学的な思考をしたがる愚かな人々が賢くなれば、世の中は本当に良くなるのでしょうか。

もちろん、恐らく前期ヴィトゲンシュタインを礼賛する人々は、あるいは哲学に何の意味があるのかと問う人は、そもそも「世の中は本当に良くなるのか」なんてことはどうでもよいのでしょう。「ただ論理的に正しいから正しいと言ってるんだ」というわけです。

でも「正しさ」という言葉が持つ意味は、実は論理性だけではありません。

だから僕らは、ヴィトゲンシュタインは論理的に正しいかもしれないけれど好きじゃないとか、一面的な意見だ、と言うこともできます。


僕らはそもそもものごとの全体や本質は把握できないのできないのでした。にもかかわらず、僕らは独断と偏見によってものごとを評価するのでした。なぜそれができるかといえば、僕らはものごとにレッテルを貼れるからでした。ところが、そうして貼られたレッテルが含有する意味は、それを受け取った人の方向性や解像度によって異なるのでした。ここに、当事者や専門家とそうでない人との間で生じる認識の差異があるわけです。

僕らは誰もが何らかの立場に立っている(方向性)し、人によってあることについてどれくらい知っているか(解像度)が異なります。

だとするならば、僕らは別の立場を想定したり、知識や経験を深めることによって、あるものごとの価値を自ら発見できる、ということになります。

そこに無意味さというものは文字通り存在しません。あることを無意味だと切り捨てられるのは、その立場によってでしかないからです。また、多くの場合、何かを無意味だと述べる人のその対象に関する解像度は、とても浅いのです(このことは、自分が大切にしていることを無意味だと述べる人をよく観察すればわかります)。

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