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考えることの醜さについて

考えるとは何だろう。今度はそんなことを考え出してしまいました。そうして、ふと気づいてしまったことがあります。

それは、「考えることは醜い」ということです。

そんなことを言うと、世の中には脊髄反射的に「けしからん!」と怒り出す人もいるのかもしれない。

多分、考えるという行為を「醜い」なんてネガティブな言葉で表すのは、多くの人にとって違和感があるでしょうから。

まあでも、ちょっと「考え」てみてください。

そもそも考えている仕草は美しいでしょうか。

いえ、美しくはありません。まあ、醜いは言い過ぎかもしれない。でも、美しくはない。たとえば、考えている人の姿を想像してください。その姿は、変というか、滑稽ではありませんか? 眉間に皺を寄せて、あごやこめかみの部分に手をついて、それで目を上に向けたりキョロキョロしたりして、しかも「うぅ〜ん」なんて、まるで呻き声のような音を口から出しているのですよ。その姿、絶対に美しくはないし、むしろ醜い。僕はそう思います。思いません?

ダンスなどのパフォーミングアートをしている人を想像してください。舞台に立つ彼らは、飛んだり跳ねたりしながら、きっと色々なことを考えているはずです。どのように体を動かせば最も効果的に観客に見えるのか、といったようなことを。

でも、観客である僕らにはそうは見えませんよね。そのように見えないから、よいのです。だから僕らは、そのパフォーマンスに感動できるのです。

もちろん、ダンスの達人は言うかもしれません。「いやいや、舞台上で考えるような奴は二流だよ。一流になれば、舞台上ではもう無心になっているのだ」と。

ええ。そうかもしれません。でも、だからといって結論が変わるわけではありません。だって、やっぱり、「考えている」ということは隠されていたり否定されていたりするわけですから。考えていないのがよい、ということなのですから。

ね。このように、「考えている」という仕草は、見た目的には醜いのです。

でも、実はひとつだけ例外があります。それは、あの有名なオーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」です。

あの作品の、ロダンという芸術家のなにがすごいって、それはこの「考える」という仕草を美しく表現したことではないかと僕は思います。やっぱり本物の芸術家というのは、すごい。

(いや、でも待てよ。この画像もよく見たら、やっぱりなんか変じゃないか? ……まあでも、いいや。美しいということにしておこう)

まあ、こんなことを言っていると、誰かこう思う人もいるかもしれません。

「お前さ、そんな見た目ばっかり気にしてんじゃねーよ。確かに考える仕草は見た目的に美しくないかもしれないけど、でもさ、やっぱり考えることは人間にとって大事なことじゃねーか」と。

うーん、そうなのでしょうか。「考えること」は、美ではなかったとしても、真や善なる行為なのでしょうか。

本当に?

ちょっと「考え」てみましょう。

まず、そもそも動物というのは、「考える」ものなのでしょうか。多分、あらゆる動物の中で、考えるということをするのは人間だけでしょう。

で、「だから人間って偉大なんだ! 万物の長だ!」と思う人もいるかもしれません。

でも、僕はそうは思わない。

だって、あらゆる生き物が「考えない」のに、人間だけが「考える」のだとしたら、おかしいのはむしろ「人間」の方でしょう。

たとえば、世界中の9割以上の人間の指は5本だと思いますが、なぜか自分には指が6本で生まれてきたとします(ちなみに、豊臣秀吉は指が6本あった、という話があるそうです。本当かどうかは知りませんが)。

このとき、あなたは「おお、俺は指が6本ある! だから俺は他の人間たちよりも優れている!」と思いますか?

僕はきっと思わない。「うわ、どうしよう。僕には指が6本もある! 僕は変なんだ!」と思います。

目が3つあったらどうですか? 「俺には目が3つもある! だから俺は人間を支配するべき存在だ!」って思いますか?

多分、本来動物が生きるこの世界は、別にそんなに深く考えなくても生きていけるようになっているんだと思うのです。

もしも「考える」ことが本当に生存に有利であるなら、他の動物も「考える」ように進化するはずです。でも、そうはなっていない。不思議ですね。たとえば、空を飛ぶ生き物は鳥だけではないというのに。

つまり、それは人間が神に選ばれたからだ! というのも一つの理屈でしょう。でも、僕に信仰する宗教はないので、その理屈は受け入れられません。

人間はきっと、別にしなくてもよいことをしているのです。自然から見たらそうなるのではないでしょうか。

人間自身にとってはどうでしょうか?

はっきり言って、「考える」ことって、疲れるじゃないですか。それに、面倒臭いですよ。

で、僕はもうお察しの通りよく考えてしまう人間なんですが、こんな僕ですら、もう歳だから「できれば考えたくない」と思ってるんです。いや、本当に。

休日なんてね、もうなんにも考えず、ぼーっとして一日過ごせたら最高ですよ。そうじゃないですか?

「おもてなし」だってそうじゃないですか。おもてなしというのは、お客様が余計なことを考えなくてすむようにすることでしょう。旅館に行って「さて、どうすれば俺はここでくつろげるのか」を自分で考えなきゃいけないとしたらどうですか? いや、くつろげねーよ、そんなの。

なんなら僕はこう言ったっていい。大人になるということは、考えなくなることだと。

たとえば、若い学生さんと僕を比較したら、毎日考えなきゃいけないのは若い学生さんのほうですよ。やらなきゃいけないことの量はほとんど同じかもしれないけれど。

だって、こっちは経験がありますからね。こういうときはこうすりゃいいって、あらかじめ決まってることがたくさんありますから。若い子はそういうの少ないでしょう。だから、たくさん考えなきゃいけない。ではなぜ考えるのか。それは、次は考えなくてもすむようにですよ。違います?

逆にいえば、だから人間歳取ると頑固になるわけです。だって、そのほうが楽なんだもの。

あの、よく「論理的に説明しろ!」なんて言う人いるじゃないですか。あれってつまり、「俺に考えさせるな」ってことなんですよね。

たとえば、「2➕3」の数式を見たら、誰だってすぐ「5」って答えるでしょう? そうなんですよ。計算というのは、大体は考える前にもう暗記してるんです。

論理式も同じで、簡単な論理式であれば僕らはあらかじめ暗記していて、だからわざわざ考えなくてもすむんです。

もちろん、難しかったり複雑だったりする数式や論理式は別です。それらは簡単な数式や論理式になるように「分解」しなきゃいけないし、そのときに考える必要がある。

「論理的に話せ」というのは、そういう「分解」とか、あるいは文章から論理式への「変換」を俺にさせるなってことです。

だって、「考え」なきゃいけないから。

そうするとね、ほら、人間にとっても「考える」ことって、本当に善なのかは疑問ですよ。むしろ、人に考えさせないことこそ善でありサービスですよ。

そう思いません?

というわけで、「考え」てみた結果、それは醜く、また、善いことでもないのでした。

で、僕の述べたことが間違っていなかったのであれば、僕の「考え」は真に迫っていたのでしょう。

だとすれば、「考える」ことには真という価値があるのかもしれません。

うーん、でもなあ。

その真、いりますか?

この記事、いりました?

僕自身はただ書きたかったから書いただけなので、読んだあなたがどう思うのかはちょっとわかりません。

とりあえずもう疲れたので、この話は終わりです。

ちょっと考えすぎたので、瞑想でもしてリセットしてきます。

それでは。


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