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「価値がわかる」ことと「理解できる」こと

今日は「価値がわかること」と「理解できること」との違いについて書きます。

僕は過去二回の話

で価値というものは僕ら自身の見識が広がることでよりたくさんわかるようになる、と述べました。でも、このことは「勉強すれば色んなことが理解できるようになる」ということと同じではありません。

なぜなら、実際には

①価値もわかるし理解もできるものごと

のほかに、

②価値はわかるけど理解できないものごと
③価値はわからないけど理解できるものごと
④価値もわからないし理解もできないものごと

があるからです。

たとえば、前回話に出たヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で言えば、僕はこの本の「価値はわかる」けれども「理解はできていない」のです。(まあ、「論理哲学論考」といえば、著者であるヴィトゲンシュタインが師であるバートランド・ラッセルの肩を叩いて云々、という話もあります。だからこの本を「俺は理解できてる」なんて言える人は、そもそもこの世界にほとんどいないでしょうけれど)

あと、西洋美術でいえば、僕は前にどこかの記事でも述べましたけど、現代芸術の価値がわからないです。でも、あまり興味はなくとも、少なくともデュシャンやウォーホルのなにがすごいかくらいは理解しています。

近代美術でも、ゴッホやシスレー、デ・キリコ、モディリアーニ、ラファエル前派などは価値がわかりますが、ピカソやセザンヌ、ゴーギャンなどの価値はよくわかりません。もちろん、ピカソやセザンヌやゴーギャンがすごいことはわかりますが、だからといって別に好きじゃないし、あまり興味も持てないのです。

「うーん、それってつまり、好き嫌いなんじゃないの?」と思われるかもしれませんね。確かに、実際「価値がわかる」ことと「好き」ということはかなり似ています。

でも、「価値がわかる」けど「嫌い」なケースもあり得るでしょう。だから両者は同じものではないのです。

たとえば、この世界で自分自身にはなんの価値もないと心底から思っている人はいないでしょうが、私は自分が嫌い、という人はいるでしょう。

もっと具体的な例を出すと、僕は政治というものの価値はわかりますが、政治というものが死ぬほど嫌いです。

このように、「好きだから価値があり、嫌いだから価値がない」とは必ずしも言えない、ということもたくさんあるのですね。

「でも、なんでわざわざその違いにこだわるの? 別にどうでもよくね?」という人もいるでしょう。

なぜ僕がそこにこだわるのかというと、第一の理由は、前回と前々回に話したように「僕らは価値というものを理解できない」と僕が考えているからです。だから単純に理屈として矛盾するから一緒にしたくない。

第二の理由は、「価値がわかる」ことは主観的な態度であり、「理解する」ことは客観的な態度だからです。主観と客観が同じであることは決してないのと同じように、「価値がわかる」ことと「理解する」ことも決して同じにはならないのです。

また、「価値がわかる」こと「理解する」ことを同一視すると、僕らは簡単にこう考えるようになります。「えっと、とりあえず難しい問題は専門家や賢い人の意見に従っておこうじゃないか」と。

もちろん、現実にはそう考えたほうがよいことも多々あります。僕らは誰も万能ではないのだから。

ただ、このような考え方はエリート主義につながりますよね。エリート主義と民主主義は両立するのでしょうか? 僕にはわからないですけど。まあ、僕がエリートの立場だったら両立するって主張しますけど、僕はエリートじゃないので、無理に両立すると主張するメリットはありません。

でも、別に僕だけじゃなく、エリートではない多くの人はエリート主義には反感を、民主主義には共感をしているのではないでしょうか? ならば、「価値がわかる」ことと「理解できる」ことは別に考えたほうがいいんじゃないかなと思うんですよね。

さらに言えば、僕は前回話したように、ものごとの価値には少なくとも真、善、美の3つの価値があると考えています(もちろん、実際には3つだけでなく、もっと色々な価値があるでしょう。たとえば、「笑い」とか)。

つまり、世の中で大切なことって、必ずしも「真」だけではないだろうと考えているんです。極端に言えば、真ではないが善であることや真ではないが美であることもある。

「価値がわかる」ことと「理解できる」ことを同一視した場合、結果として強いのは「理解できる」のほうです。「価値はわからないけど理解はできているから俺は価値がわかってるってことでいいよね」は理屈として通用するでしょう。でも、「理解できていないけれど価値はわかるから俺は理解できているってことでいいよね」とは普通ならないですよね。

そもそも「考える」という行為自体が「真」に向かっていく行為です。そうである以上、何かについて「考え」ようとする場合、それが「真」なるものに集約というか、到達しようとするのは必然です。

では、なぜ価値というものが「真」だけではいけないのでしょうか。つまり、すべての価値は「真」に集約されるのだ、ということにすれば、そう考えたら、すべてはすっきり解決するじゃないですか。なぜそれではだめなのか。

その理由は簡単です。それは、嘘だから。自分で自分の脳みそを騙そうとする行為だからです。

たとえば、僕は初めてゴッホの絵の実物を観たときの衝撃を今でも覚えています。「うわ、マジか」と思いました。「これは、全然ほかの画家の絵と違うわ」と。

そのとき、僕はゴッホについて何も知らないわけではありませんでした。一般常識的なことは知っていたし、画集などを見たこともありました。でも、それらは一枚の本物を前にしたとき、何の意味もなさなかったのでした。

これはつまり、「美」という経験が「真」の経験を追い越した事例だといえるでしょう。まあ、簡単に言えば百聞は一見にしかずというやつです。

「美」とか「善」のような経験は、往々にして「真」を凌駕するのです。「笑い」なんかもそうですよね。

そのことを無視するわけにはいかない。それは現実に対して誠実ではない、と僕は思うのです。

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