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面白い話はどうすればできるのか

今日は、すごく好きな本の話をします。米原万里さんの「必笑小咄のテクニック」という本です。

米原万里さんといえば、ロシア語の通訳者でありながらたくさんのエッセイを書いた方としてよく知られていますよね。

本書は、そんな米原さんがどうやって面白い話を考えているのかを包み隠さず教えてくれている本です。

面白い話ができるかどうか、というのは、実はそれなりにテクニックの問題なんですよね。でも、そんなこと言うと必ず「いや、ほんとの面白さというのはそういうことではない!」てなことを言ってくるめんどくさい(そして面白くない)人がわいてくるし、加えてそういったネタバラシをしたところでバラした方には何のメリットもないものだから、面白い人は誰もこのテクニックを教えてくれないんですよね。

まあ、もちろん、ずば抜けたセンス、と言うのもあるのでしょうけれど。

でも、本書は別にそんなずば抜けたセンスがあるわけじゃない人でも、どうすれば面白い話ができるかを教えてくれます。

そのテクニックを全部書いてしまうと本書を読む意味がなくなってしまうので、少しだけ紹介しますね。

たとえば、面白い話といえば、オチがある話です。では、どうやってオチを考えたらいいのか。

米原さんは言います。

オチはゼロから創造するというよりも、見いだして演出するものなのである。ボーヴォワールの名文句「人は女に生まれない。女になるのだ」を捩るならば、「最初からオチなんてない。オチにしてやるのだ」ということ。

そうなのです。オチは、演出するもの。そして、実はすごく簡単にオチをつくる方法があるんです。それは何だと思いますか?

その答えは、話の順序を変えることです。当たり前の話でも、順序を変えればオチになる、というわけです。

別にオチてはいないですけど、今、オチのつくり方を説明するためにこのテクニックを使ったのですが、気づきましたか?

さっき、最初に「オチを簡単につくる方法がある」って言いましたよね。それから、順序を変える、という方法を述べました。つまり、そういうことなんですよね。論文の書き方と同じ。最初に結論を述べて、その理由を話す。

でも、全然面白くなかったぞ、と思うかもしれません。そうなんです。ここまでの話が別にオチになっていないのは、「オチをつくる方法がある」と「話の順序を変える」の間にそれほどの落差がないからです。ここに落差があれば、それはオチになる。

そのほかにも、色々なテクニックを教えてくれます。たとえば、どうすれば面白い発想ができるのか。その方法の一つが、動物や子どもの立場でものを考えるという方法です。ある事柄について、動物や子どもだったらこんな風に考えてしまうかもしれない、ということを考えるのです。

本書には章の最後に応用問題が用意されているのですが、その中で面白かったこの問題をご紹介しましょう。

再婚した父親が息子に尋ねる。
父親「ひろし、どうだい、新しいお母さんには慣れたかな?」

さて、ひろしが何と答えたら、面白い話になるでしょう?

本書の回答例は、これです。

ひろし「父さん、あの人そんなに新しくないよ」

いやー、好きだなあ。この回答。

まあ、こんな感じで、色々面白い話をつくる方法を教えてくれます。読むとね、すごく当たり前のことを言っているように思うかもしれません。ここまで書いたことも「何をお前は当たり前のこと言ってやがんだ」と思う人もいるかもしれませんが、ネタをバラすって、そういうことです。

まあ、でも、あれですけどね。プラモデルなら説明書があればちゃんと作れますが、面白い話もそんな風にできるか、というとそれはまた別の話ですね。そんな簡単なものではありません。

でも、だからこそ、面白い話というのは楽しいし、一体この話は何がどう面白いのだろう、と考えてみたくなるものです。

別に面白くも何ともない僕が「これを読めば面白くなれますよ」なんて言ったら、それは下手くそな詐欺にしかならないのでそうは言いませんが、面白い話が好きな人は、きっとこの本を読んだら面白いと思いますよ。別に詐欺でもなんでもなくね。

ということで、また明日。

おやすみなさい。

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