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僕らは誰もが当たり前にものの良し悪しを判断できるって本当?

今日はちょっと最近考えていることについて書きます。別に、具体的な何かについてではないのですが。

そもそも、価値とは何か。あるものに価値があり、あるものに価値がないとはどういうことか。また、僕たちは一体どのようにして価値があるとか、あるいは価値がないとかを判断するのか。そのようなことは果たして可能なのか。可能であるとしたら、なぜそうなのか。

僕は昔から思っているのですけど、多分、この世界の多くの人は、なぜか「自分にはものの良し悪しがわかる」ということについてまったく疑っていないのですよね。それはなぜなのだろう。

まあ、そうは言いながら、「誰もが自然的にものの良し悪しを判別できる」ということを自明であることにしておかないと、色々と不都合が生じることはわかるのです。もしもそれが自明でなかったとすると、僕たちは誰もが何かの決断をするときに専門家の意見を聞かなければならなくなる。そうすると、例えば民主主義なんてものは成立しなくなる。

でも、現実は本当にそうなのでしょうか。「誰もが自然的にものの良し悪しを判別できる」というのは真実なのでしょうか。あなたは本当に、自然的にものの良し悪しを判別できますか?

僕は、正直なところ自信がないのです。わからない。今この文章を書いている間も、ここに書いていることが正しいことなのかどうか、真実なのかどうか、よくわからないのです。

あと、こんな不思議な人たちも多いなと思うのです。それは、「正解はわからないけれど間違いはわかる人」です。あれも、なんなのでしょうか。なぜ正解はわからないのに間違いはわかるのでしょう。キュウリがなにかはわからないけれど、これがキュウリでないことはわかる、といわれても、僕にはまったくピンとこないのです。

一体なぜこんな話をしているのかというと、じゃあ価値ってなんだよ? と思うからです。価値とはなんでしょうか。あるいはものの良し悪しとは。

それは論理的(あるいは科学的)であることですか? もしくは倫理的であることですか? それとも、美的であることですか?

どちらにせよ、これらは本当は価値というものを一面的にしか説明していない、と言えます。それは、キュウリを植物だとか緑だとか細長いとか言っているのと何も変わらない。キュウリが植物だから、緑だから、細長いから、だから、なに? それは、当然のことながら、キュウリの全体でもなければ、キュウリの本質でもない。

でも、論理的(あるいは科学的)であることや倫理的であることや美的であることは、価値の一つだとは言えるでしょう。

だから、このことから僕らはこう言うことができる。つまり、僕らはものの価値を一面的にしか説明できない、と(このことは、さっき言った「正解はわからないけれど間違いはわかる」とはまったく別のことです)。

では、なぜ僕らはものの価値を一面的にしか説明できないのでしょうか。

それは、僕らが「考える」ということを文章によってしかできないからです。

そして文章というものは単語で構成されているし、それに文章というものには一つの文章に一つの意味でないといけない、という論理上のマナーがあるからです。

だとするならば、さっき例に出したキュウリは「キュウリ」という単語でしか説明できないことになります。「キュウリは植物だ」といえばキュウリが緑であることや細長いことが抜け落ちてしまうし、「キュウリは緑だ」といえばキュウリが植物であることや細長いことが抜け落ちてしまう。

「オーケー。じゃあ、キュウリは緑で細長い植物だということにしようじゃないか」と言っても、実はそれはまだキュウリの全体ではなく、そのやり方でキュウリの全体を表そうとすると「キュウリは植物で、緑で、細長くて、ウリ科で、水分が多くて……」と、いつまでも続いてしまう。

唯一の例外は全体そのものに名前をつけてしまうことで、「緑で、細長くて、ウリ科で、水分が多くて……(以下延々と続く)」な植物を「キュウリ」と名付ければ、僕らはそれを「ああ、これはキュウリだなあ」と思うことができる。

要するに何が言いたいのかというと、言葉でものごとの全体を説明することは、原理的に不可能だってことです。だから、僕らはものごとを一面的にしか説明できない。そして、一面的にしか説明できないのだから、一面的にしか理解することもできない。

では、言葉は全体を言い表せなくても、本質なら言い表せるのでしょうか。

よく「本質を突く」なんて言いますよね。あれは、本当なのでしょうか。

原理的には可能なことのように思えます。なぜなら、言葉が全体を言い表せないのは、言葉が一つのものしか言い表すことができないからです。ならば、たった一つであるはずの本質は、言葉で言い表すことができるはず。

でも、僕はこのことにも疑問なんです。だって、なぜ本質は一つなのでしょうか。本質が三つあったらいけないのでしょうか。もしも本質が三つあったとしたら、「本質を突く」ことも原理的に不可能になってしまうでしょう。

もちろん、こんなことを言うと優しい誰かがこう教えてくれるかもしれません。「あのね、そもそも本質というのはたった一つのものを指す言葉なんだよ」と。「だから、もし本質が三つあったとしたら、それはもう本質ではない別のなにかなんだよ」と。

そうなのかもしれません。では、そのたった一つの本質とは一体なんなのでしょうか。

きっと、そう問いかけると誰も答えることはできないのではないでしょうか。価値がなにかを誰も説明できないのと同じように。

本質なるものがなんなのかはわからないのに、なぜか皆、本質はたった一つであり、しかも自分はその本質なるものと本質でないものを見分けることができると仮定して「それは本質的でない」とか「本質を突いている」と発言する。

これも、なんだか不思議な話です。しかも、そう発言する人は皆、自分が間違っているかもしれないとは露ほどにも思っていないのです。その自信はどこから湧いてくるのだろう。

で、こんなことを言っているとどこかから哲学に手慣れた人が現れて「君ね、それは相対主義というんだよ」なんて言う。うん、そうかもしれない。で、だからなんなんだろう。

そう言われた僕は必殺技を食らった悪役みたいに「ウギャー、や、やられたー!」と、ならなければならないと、多分その人は思っているのです。なんでだよ。必殺技ならもっと強そうな名前つけやがれ。

価値も、本質も、そんなもの、全部僕たちにはわかるはずがないのだとして、そのように想定することの、なにがいけないのでしょうか。

というか、そうだとしか考えられないのに(それが僕らの能力なのに)、なんらかの理由によってそうではないと仮定しなければならないとしたら、それって結構やばくないでしょうか。


でもね。そんなこと言いながら、僕たちはやっぱり、なにかを見たり、読んだり、聴いたりして、それでうっかり「これは価値がある」とか「これは良い」とか「これは本質的だ」なんて、思ってしまうのです。この文章を書いている僕自身もそう思うのです。

だけど、僕らはそれがなんなのか、自分で言いながら、本当は知らない。だから、その感覚は、もしかしたらただの錯覚なのかもしれない。

けれど、もしもそう思ってしまったとしたら、それはそれで一つの真実であることも、誰にも否定できない。だって、思っちゃうんだから。

だとするならば、価値や、本質というものは、確かにあるのでしょう。それがなにかはわからなくても。

で、僕は思うのですが、恐らくそれは、たった一つの何かではなく、そこら中にたくさんある。あるいは、仮にそれがたった一つなのだとしても、僕らはそれを一面的にしかとらえることができない以上、たくさんあるように見えたり感じたりする。そのように見えたり感じたりすることしか僕らにはできないし、そのように見えたり感じたりしなければ、むしろおかしい。

そして、価値や本質というものは、「見たり読んだり聞いたりしたら自然的にわかる」というものではないのです。だって、キュウリがなにかを知らない人がキュウリを見て「お、キュウリだ」と思うことは不可能でしょう。

でも、その人はそのキュウリを見たり食べたりして「緑だ」とか「長え」とか「美味え」とか思うのです。あるいは「すぐ折れるな」とか「不味い」と思う。それらを価値だとか本質だとか思う。

つまり、価値や本質というものは、それと向き合った人がそれぞれ自分で「発見」するものです。

だから、キャベツのサラダにちょっとしたアクセントを求める人にとってキュウリは価値あるものですが、誰かを殴り殺すための武器を探している人にとってキュウリはなんの価値もないものになります。

そして、だとすればそれはその人にとっての問題であって、キュウリにとっての問題ではない。

ならば、誰かがあるものごとに価値がないとか悪いとか本質的でないとか思ったとしても、それはその人の問題である、ということになります。

つまり、最初に戻ると、「誰もが自然的にものの良し悪しを判別できる」というテーゼは実は自明でもなんでもない、ということです。

現実は「誰もが自然的にものの良し悪しを判別できる」ではなく「俺は自然的にものの良し悪しを判別できる(と思ってる)」の集合にしかすぎません。

それを「誰もが」と考えるから、「俺の意見に賛同しない奴らはみんな頭が悪い」とか、あるいは「間違った判断をしているあいつらにはもう少しちゃんと説明してやろう。そうしたらあいつらも自然的にものの良し悪しを判別できるだろう」ということになるんだと思うのです。

なぜなら、価値や本質というものが、たった一つだと彼らは思っているから。

てか、もしも「誰もが自然的にものの良し悪しを判別できる」なら、そもそも人間は成長する必要も勉強する必要もないじゃないですか。そういう理屈を掲げながら一方で「しっかりと勉強しなさい」と言う人は、この矛盾とどう向き合っているのだろう。

でもさ、価値も、本質も、別に一つじゃなくたっていいじゃないですか。その方がずっと豊かじゃない。価値や本質がたくさんあったらむしろラッキーじゃん。

もしも勉強することでものの価値や本質をたくさん見つけられるなら「マジで? めっちゃ勉強しよう!」って思うじゃないですか。逆に、「俺めっちゃ勉強して俺だけの価値や本質を見つけてやるぜ」とか「俺めっちゃ勉強して俺が最初に価値や本質に到達してやるぜ」みたいな人がいたら、そいつただのクソ野郎じゃないですか。

そもそも価値や本質について考えることは、その価値や本質を取れるか取れないかのゼロサムゲームではないし、それに、誰もが一面的にしかものを見れない以上、まったく異なるように思える考え方が全部つながっていることだってあり得る。

なのに、そういう考え方を最初から排除しなければならない理由って、一体なんなのでしょうね?

なんか最近、そんなことを考えたのでした。それに意味があったのかどうかは、僕にはよくわからないけれど。

それではまた。

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