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「お気持ち表明」という言葉の背景にある文学の危機

エッセイやコラムは多かれ少なかれ筆者が自分の想いを綴っているもので、重要なのはそれが「作品」になっているかどうかなのに、「お気持ち表明」という冷笑の言葉で雑に括ると、それらも含んでしまいますけど大丈夫ですか?とは思います。
一流の文学になっている日記も世界にはたくさんありますし(本人は当時は後世に残るとは考えていなかったのでは)、私小説に関してもそうです。
筆力や表現力が優れているので読者を獲得しているだけで、書こうという初動は実は現代のnoteに何かを発表している人とあまり変わらない気がします。
「お気持ち表明」を蔑む背景にありそうなのは「有益な情報」じゃない文章は認めない、みたいな思考で、それってこの国の文学の危機でもあるんですよね。
教科書や国語のテストとして出てくる以外の作品にまともに触れていないのではないか、もしもそうなら問題はもっと深いところにあります。

サポートを頂けるような物は書けていませんが…。