【短編小説】春が来てしまう(美和の場合)

 朝。
 カレンダーをピリピリと剥がして、美和はしみじみと見つめた。
 飼っている犬が隣にやってきて美和の顔を覗き込んだ。
「もう3月だって。もっと先のことだと思ってたのにね。」
 犬に話しかけ、頭を撫でる。このざわざわする気持ちはなんだろうか。寂しいから?
 なんだかまるで、と美和は思う
 まるで新雪の下の固く重くなった雪のようだ。ぎゅっと固まった不透明な何か。
 今日も外は雪だけど昨日の雪よりも早く落ちてきているきがする。少しずつ春が近づいている気配を出している。
 
 降る雪に雨交じりなことが多くなってきた日。
今日は美和の娘の卒業式だ。美和も夫と一緒に出席した。
 卒業式で娘は、美和たちを見つけると小さく手を振ってきた。美和は笑顔で振り返す。
「ああいうところは小学生のときと変わらないのにね。」
 隣の夫に話かける。夫は涙目でうなづいた。
 そうか制服姿も最後か、と気付く。
 まただ。と美和は思う。
 美和の気持ちはまたざわざわしていた。
 
 卒業式のあと、娘は友達と遊びにいくとかで美和は夫と二人で帰ってきた。
夫はさっきの卒業式で撮った娘の写真を見て「大きくなったなあ」とつぶやく。
 美和は「そうね」と返す。
「寂しいよね。もうすぐ東京へ行ってしまうなんて。」
 そうか、この人には私が寂しがっていると見えているんだ。本当は違うのに。
 本当は。
 
 夜。
 みんなでアルバムを見ていた。
 外は雨のようだ。
 娘は飼い犬に話かけている。娘の十二歳の誕生日プレゼントとしてやて来た彼は、それからずっと娘の弟だった。最近の彼は何かを感じとっているのだろう、ずっと寂しそうにしている。美和以外、みんな寂しい。
 嫉妬している。と、美和は気付く。
 あのざわざわは嫉妬のようだ。若くて輝いている娘がうらやましかった。
娘の可能性はこれからだ。まだ何にでもなれる。でも自分は?
娘はもう美和の手が無くても歩いていくだろう。もう自分は。
「飛べない蚤になりたくなかったの。」
 娘と夫が会話をしている。
「飛べない蚤?」
「うん。蚤ってね自分の体の百倍ぐらいの高さまでとべるんだって。でも蓋のついてる箱の中でしばらく飼っていると、最初は蓋にぶつかているんだけど、そのうちぶつからなくなって、もっと経つと蓋を外しても箱の高さより飛ばなくなるんだって。」
「へえ。」
「本当はどこえでも行けるのに。
私は自分に蓋をする人生はいやだな。」
 娘は飛んで行こうとしている。頭の上に蓋など無いと気付いたのだ。
 
 道端に少しだけ黒く残った雪ももうなくなりそうなよく晴れた日。
トラックが美和の家の前に止まっていて、荷物を次々と詰め込んでいる。荷物といっても段ボール箱が数箱程度。娘にとっての十八年は段ボール数画に収まるものだったのかと悲しくなる。
 今日は夫が娘を空港まで送っていく。美和は飼い犬が落ち着かないので一緒に自宅で見送ることにした。
「忘れ物はない?」
 夫が娘に声をかけると犬が車に乗り込もうとするので、美和は慌ててリードを引っ張る。
「今日は一緒に行けないの。」
 娘が犬を抱きしめてさよならをした。
「行ってらっしゃい。体に気を付けてね。」
「うん。お母さん、行ってきます。」
 娘の乗った車が去っていく。
 犬は悲しそうに遠吠えをした。
 美和は去っていく娘を見送りながら考える。
 自分の頭上に蓋はあったのだろうか。
 また、胸の奥だざわざわする。
 
 春が来てしまった。
 
               
  終わり



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