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識字率と文章を読める人と読めない人のギャップ

作文三上(さくぶんさんじょう)
→ 文章の構想を練るのに適した3つの場所のことで、馬上(馬に乗っているとき)、枕上(寝床)、厠上(トイレ)を指す。

日本という国の素晴らしいところは、識字率が100%に近いというところである。

UNESCO(ユネスコ)によると、識字率とは日常生活の簡単な内容についての読み書きができる15歳以上の人口の割合と定義づけている。

国によって識字率の統計データを取っていないところもあったりするので、一概にまとめられないのだが、世界平均は85.9%とされている。

この数字だけを見てどのように思うかは個人によると思うが、私自身は意外と高いと思った次第である。

一方で、アフリカ地域を中心として、ワースト10の国々では50%以上の人が非識字者となっている。

少々データは古いのだが、2009年の南スーダンがワーストで27.0%というものや、2010~2016年で最も低かったニジェール共和国では15.0%というものもある。

このデータからすると、3〜4人に1人しか読み書きができないということになるわけだが、2022年現在はそこまでとは言わないまでも格差は依然あると考えている。

識字率からは図ることができないもの

先進国と発展途上国の間で識字率に差が出てくるというのは、おおよその人は理解できるだろう。

また、平均を出すことに意味はないというのが私の見解ではあるが、世界平均の識字率は85.9%ということで、それなりに高いという見方もできると思う。

ただ、この識字率と読解力には、かなりの乖離があるというのが今回私が言いたいことのメインである。

なにが言いたいのかというと、文章の読み書きができるからといって、文章の内容を理解しているということは全くレイヤーが異なるということだ。

簡単にいうと、私が書いた文章を私の意図とは違うニュアンスで受け止める人が一定数いるということだ。

中には全く逆の意として捉えられることもあり、そのギャップをどうやって埋めるのかを考えることもしばしばある。

というのも、文章を理解するということは、比較的能力が高くないとできないからである。

くり返しになるが、識字率と読解力には大きなギャップがあるということを主張している。

時代のせいにする愚かさを知る

私は41歳という年齢のオジサンだ。

この世代になると、昔よく聞いたワードを改めてよく聞くようになった。

それは、最近の若いものはという枕詞的なものだ。

いわゆる若者という立場でいたころに私がオジサンになったときには、この言葉を使いたくないということをよく思っていた。

そして、オジサンの立場になって思うのだが、やはり若者という人と距離はあるように感じるのが事実だ。

その距離感をギャップという言葉で表現するとするならば、そこまで補足しなければ伝わらないのかという感覚に近い。

例えば、お店を予約しておいてと依頼したとしよう。

この文字にして10文字の依頼をあなたならどのように対応するだろうか。

そもそも、どういった場面での予約なのかを確認することは大前提というか、流れでわかるはずの部分なので問題にすることはやめておく。

ただ、19時に予約しておいてと言われたとしたら、私なら19時〜19時30分の間には必ず伺うという具合いに予約を取る。

その理由は簡単で先方にトラブルがあったときや自分自身にトラブルがあって多少遅れる可能性があることを視野に入れているからだ。

また、予約者の名前と電話番号を必ず統一する。

それによってお店側にも覚えてもらいやすくなるので、2回目以降の利用等がしやすくなるというメリットがある。

他にも細かいところでいろいろとあるのだが、共通していることは、最低限の相手や依頼された側への気遣い、つまり少しでもストレスフリーになるように心がけるということだ。

誤解してほしくないのだが、なにも私は最近の若者はという時代のせいにしようとしていないということだ。

なぜ自分が意図した行動にならないのかを考えるようにしている。

もちろん、時間に余裕がないときには細かいところまでいちいち伝えることはないが、それも込みでギャップが生まれる理由についてまとめてみよう。

ジェネレーションギャップが生まれる理由

散々書いてきたギャップのことを世間一般的にはジェネレーションギャップというのだろう。

結論からいうと、このジェネレーションギャップは育った環境によって生まれるものだ。

過ごしてきた時代の環境がどういったものかに依存するということである。

それから、その環境というのはテクノロジーによって大きく左右されるものであるということも、しっかり覚えておくといいだろう。

わかりやすく、私の世代はどういう感じだったかをザックリ書いていこう。

  • 幼少期:各家庭に電話とFAX

  • 小学生:ダイヤルアップ接続のインターネットが登場

  • 中学生:パソコンが普及し始める

  • 高校生:ポケベル、PHS、ガラケーが登場

  • 大学生:1人1台ガラケーを持っている感覚

  • 社会人:スマートフォンが登場

特に私の家庭ではありがたいことに、父親の仕事柄もあって、他の家庭よりも圧倒的にはやい段階でダイヤルアップ接続のインターネットが開通したし、PCも当たり前のようにあった。

小学生のころには、なんとなくPCを触らせてもらっていたこともあって、デバイスに対するアレルギーがないのはこのころの影響は大きいと考えている。

そして、私の世代では上記のフローを踏んでいるが、私の小学生の甥っ子たちになるとどうだろう。

すでに1人1台がスマホやタブレットを持って遊んでいるのが当たり前になっている。

Wi-Fiの接続やBluetoothの接続もなんなくこなすし、YouTubeなどのスキップや音声検索などもなんなくこなしている。

完全なデジタルネイティブ世代で、その行動を見ていると面白い。

そりゃ、これだけコンテンツが溢れている時代であれば、忙しいというか一生かかってもコンプリートできない。

1つのことを深く集中してという方が難しいということはなんとなく理解できる。

そんな傾向を読解力がないとか集中力がなくなっていると結びつける人も多いが、私はそうは思わない。

そういう傾向にあると感じることに対してはなにも否定はしない。

というか、生きている時代が違うのでギャップが生まれるのは、むしろ当たり前だ。

ただ、なぜそのギャップが生まれるのかを分析するのではなく、昔の方が良かったと思い込みたい、上から目線になっていることを指摘している。

簡単にいうと、不便で貧しかったころを忍耐強く過ごしていたことが美とされている傾向が強いということだ。

それを若い世代に押し付けようとする瞬間にジェネレーションギャップは大きく生まれるというわけだ。

ジェネレーションギャップからの開放

私はこのジェネレーションギャップから開放されることが、文章を読める人になるということに繋がると考えている。

上述したとおり、ジェネレーションギャップが生まれてしまうことは仕方がないというよりは当然のことだ。

問題はそのギャップを埋めようとすることをしないというか、年齢を重ねているというだけで上から目線になっている大人があまりにも多いということである。

ただただ歳を重ねていることはなにもスゴいことではないのに、それだけでマウントを取ろうとするわけだ。

そして、その多くは自分が時代についていけていないことで否定しているという悪しき習慣がある。

知らないことは不安に繋がり、不安になるものから逃げるためには否定するしかないというわけだ。

それでは、この不安から開放され、ジェネレーションギャップを埋めていくためにはどうすればいいのか。

答えは簡単で若い世代と触れ合う機会を増やすということだ。

それができれば、若い世代の良いところも弱点も同時に見えてくる。

そこであまりにもズレていると思うところを指摘することで、文章が読める人になるというわけだ。

まとめ

とどのつまり、教育に似たところに繋がるわけだが、否定的で知見のない人が上に立つと下にいる人は育たないどころが、情報がいくらでも手に入る時代では相手にされない。

相手にされていない人は否定するしかないというわけだ。

stak, Inc. では大幅な若返りを図っていて、実際に若返りに成功している。

私のやるべきことも明確に見えてきており、私の大きな役割の1つが文章が読める人を1人でも多く育てることだ。


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植田 振一郎 Twitter

株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。