改めて、「ドラえもん」の声が変わったことに対する自信の違和感を考察する

子どもがそれなりの年齢になり、最近ドラえもんに興味を持っているようです。
子どもは、ドラえもんのアニメを観たり、キャラクターソングを聴いたりしているわけですが、僕の耳に入ってくるドラえもんの声は、子供時代に慣れ親しんだ大山のぶ代さんではなく、水田わさびさんが務めているわけです。

調べたところ、ドラえもんの声優交代から20年弱(!)経過しているそうですが、それほどの時間経てもなお、どうしても自分の中の違和感を拭うことができません。

ここで言いたいことは、お2人のどちらがドラえもんの声として合っているか、ということではありません。
水田わさびさんの「ドラえもん」に対する違和感を抱く自分自身は、果たして「ドラえもん」をどのように観ているのか、あるいは観ていたのか、ということを考察してみました。


はじめに

ぼくは、それなりに「ドラえもん」が好きな子どもでした。初めて観に行った映画は「ねじ巻き都市冒険記」でしたし、小学校時代はコロコロコミックの中でも特にドラえもんが好きでした。
年の離れた兄弟がいたため、思春期には「ドラえもん好きな年ごろだもんなw」とからかいながらも、自分も箸を止めて見入っているところを親に指摘されたこともあります。

声優交代時に抱いた違和感

ドラえもんの声優さんが交代されたとき、「ドラえもん」以外の変化については、すんなり受け入れることができました。
ただ、どうしても「ドラえもん」の変化に対してだけは、「ぼくの知っているドラえもんではなくなってしまった」という思いを抱かずにはいられませんでした。
「ぼくの知っているドラえもんではない」、これ以上の言語化は当時難しかったのですが、あれから20年を経た今になって、言語化スキルが上がり自身も親になった今になって、ようやく考察らしいものを表現できるようになりました。

「ぼくの知っているドラえもん」って?

そもそも、「ぼくの知っているドラえもん」ってなんだったのでしょう。
ぼくはドラえもんにどんなイメージを重ねていたのでしょう。

結論から言うと、僕が観ていた「ドラえもん」とは、「友人」であり、「兄」であり、「母親」だったのです。

アニメや漫画の中で、ドラえもんとのび太君は基本的に不可分の関係なので、ぼくはのび太君に自分を投影しつつ、やや俯瞰した視点でドラえもんを観ているわけですが、
ドラえもんとのび太君は、単なる「友人」ではないわけです。

「兄」であり、「母親」としてのドラえもん

基本的に、ドラえもんとのび太君は、1つ屋根の下で生活を共にし、多くの時間を共に過ごし、信頼関係を構築しているわけですが、
では、ドラえもんとのび太君が、同じ視点や同じ成長の段階から物事を見ているかというと、それは違うのではないかと思うのです。

ドラえもんは、のび太君が何らかの失敗を体験した際は、時に優しく諭し、時に厳しく𠮟り、時にユーモアたっぷりにのび太君のことを罵倒しています。そこからは、のび太君を成長させようと手を尽くすドラえもんの姿が見えます。
そもそも、ドラえもんは、現在ののび太君の成長を促すことで未来を変えようとしているのですから、ドラえもんにとっては終始のび太君と同じ視点で遊び惚けているわけにもいかないのです。
その意味で、ドラえもんは、「年上」のステージからのび太君を観たうえで、のび太君に関わっています。

短期的にのび太君の暴走を止めるようなエピソードでは、のび太君を助けようとするものの、のび太君の暴走を感じ取り諫めようとしつつ、ドラえもんがそこに徹しきれずにのび太君の失敗を結果的に防げない、ドラえもんの不完全さが感じられます。ある種、おせっかいでかまわずにはいられない「兄」的な姿のドラえもんを感じることができます。

長期的なのび太君の考え方や感じ方の変化を描いているようなエピソードでは、のび太君を温かく見守り、必要以上の助言を行わない、「優しい母」的なドラえもんがそこにはいます。

ぼくは、そんな「ドラえもん」に、自分にはいない「兄」や、干渉しすぎない「母親」像を投影していたのかもしれません。
「ドラえもんがいたらなぁ」は、秘密道具以上に、ドラえもんのパーソナリティがそう思わせていたのかもしれません。

ドラえもんの声から感じる、ドラえもんのパーソナリティの違い

上記の観点から、大山のぶ代さんの落ち着いたハスキーな声の「ドラえもん」からは、親しみやすくありながらも、のび太君(あるいはのび太君に自身を投影している視聴者)と一線を引いて、のび太君の成長を見守る「兄」や「母」としてのドラえもん像をぼくは感じ取っていました。

一方で、現在の水田わさびさんの「ドラえもん」は、元気で快活な高音が印象的で、よりのび太君と同じ視点、つまり「友人」としての面にフォーカスされているように僕には感じられてしまうのです。「年上」の視点からのび太君を観ているというよりは、のび太君と横並びで、同じ立場で喜怒哀楽を共有しあっている、良き友としてのび太君とともに成長しているというイメージでしょうか。

そもそも、自分の内面が影響している

「年上の立場から関わってくれるドラえもん」、「横並びでともに成長するドラえもん」、どちらの姿も「ドラえもん」の魅力であり、どちらもきっと「ドラえもん」なのです。

ただ、ぼくは、「ドラえもん」を観るときに、物知りで、お節介で、時にのび太君(自分)を優しく見守るドラえもんがいることを期待していましたし、そんなドラえもんがいることを確認して安心感を得ていたのだろうと思います。

ぼくは、自分の知らないことを教えてくれる存在としての「年上」の方々とのかかわりに魅力を感じるようなところがあります。
声の印象から受け取る「兄」「母」としてのドラえもんが薄まったと感じ、「友人」としての側面が強まったと自身が感じたことで、違和感を抱くようになったのでしょう。

まとめ

長年にわたって抱いていた違和感を、ようやく自分なりに言語化することができました。
これで、子どもとドラえもんを観るときに「やっぱり声がのぶ代さんじゃないとさぁ・・・」のような老害ムーブをかまさなくて済むことにほっとしています。
ぼくらの隣にある「ドラえもん」は、きっとそれぞれ違うのです。



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