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【小説】にゃあちゃんとぼく【1万字】

本小説は #創作大賞2023 の #漫画原作部門 エントリー作品です。

あらすじ:258文字
※あらすじには作品のネタバレを含みます※

タカチは毎週末、長野から東京へ遠征し、推し・にゃあちゃんに会いに行くアイドルオタクである。
誕生日を雑談配信でお祝いされたり、ライブ後にチェキを撮ったりと、充実したオタク生活を送っていた。
ある日、落ち込む出来事があった夜、タカチはにゃあちゃんの配信を見れなくなってしまう。災難は続き、多忙な日常の中で、にゃあちゃんとの距離は物理的にも心理的にも離れてしまう。
多忙だった日常がひと段落し、久しぶりのライブ。気持ちを取り戻せるかと不安に思っていたタカチだったが、にゃあちゃんを見た瞬間に胸が高鳴り、「大丈夫だ」と確信する。

本文:9,997文字(タイトル、エンドマーク除く)

にゃあちゃんとぼく

にゃあちゃんの配信が誕生日にあるだなんて、ぼくはなんてツイているんだろう。
「今日、誕生日なんだ」そうコメントしたら、にゃあちゃんは「おめでとう」と言ってくれるだろうか。

配信時間の二十時に合わせてケーキと惣菜を買ってきて机に並べる。PCデスクと食卓は兼用。部屋が狭くて机を二つも置けないから。
それに、食事に限らず大抵のことは配信やSNSを見ながらであることが多いから、兼用の方が何かと都合が良い。
ケーキの横にアクリルスタンドを立てる。ライブ衣装姿のにゃあちゃんの写真がプリントされた十センチ程度のそれ。
人によっては食べ物に挿したりもするらしいけど、ぼくはやらない。
ケーキとにゃあちゃんを並べて撮る。これは後でSNSに載せよう。

ぼくの推し・猫々にゃあす、通称にゃあちゃんは十五歳からアイドルを始めて今は二十一歳。
グループ活動は二度目。最初に加入した"ナガレボシ"が解散してしまって、今は"ミチシルベ"という別のグループでアイドル活動をしている。担当カラーはオレンジ。
髪の色もオレンジがかった茶髪で、長い髪を束ねていることが多い。ポニーテールやお団子、三つ編みとか。ツインテールは恥ずかしいからと滅多にしてくれない。ぼくはにゃあちゃんの三つ編み姿が一番好きで、三つ編みの日はいつもより多くチェキを撮ってしまう。

そんなにゃあちゃんは、今は大学生として毎日学業もこなしつつ平日も土日もなくライブをこなしている努力家だ。
ぼくはにゃあちゃんが十七歳の時に出会い、以来ずっと"にゃあちゃん単推し"。
友人に誘われて他のライブを見に行くこともあるけど、"推し"と呼べる人はにゃあちゃんだけだし、最優先はミチシルベ、にゃあちゃんのいる"現場"だ。
……とは言っても、ミチシルベの全てのライブに行けるわけでもないんだけど。ぼくは長野県に住んでいて、平日のライブは仕事で滅多に行けない。
その分毎週末東京に通って、フェスでも対バンでもリリイベでもワンマンでも、にゃあちゃんに会いに行っている。

そんな平日会えないはずのにゃあちゃんに、配信という形であっても自分の誕生日当日に会えることは、奇跡的な、運命的なことなのだった。

二十時を数分すぎて、配信が始まる。
【こんばんは!】【にゃあちゃんキター】【待ってたよー】
あっという間にコメントが流れていく。
「こんばんはー。ごめんね、アプリがうまく起動できなくて。ちょっと遅れちゃった」
【そっかー、どんまい!】【全然平気だよー】【配信久しぶりだもんねー】
似たようなコメント群にぼくのコメントも埋もれていく。
ひまわりのスタンプと共に【配信ありがとう!】の文字が大きくピックアップされる。
「セナさん! こちらこそ、待っててくれてありがとう」
ひまわりのスタンプは五百円。タイミングが良ければ拾ってもらえるが、投げ込まれるスタンプの数が多い日には読まれないこともある、そんな金額。
見知ったオタクの名前をにゃあちゃんが呼ぶ。セナのやつうまくやったな、と少しのジェラシー。
「今日はライブもレッスンもなかったから、学校から帰ってきて、家のことをいろいろやってたの」
【偉い!】【お疲れ様〜】【大学生、毎日大変だねー】
配信は大体雑談だ。大学のこと、ライブのこと、家族のこと。その飾らない姿とライブとのギャップに、未だに驚かされ、惹かれる心がある。

コメント欄に「今日、誕生日なんだ」と書いたものの、送信ボタンは押せないでいた。
こういうのはタイミングが大事なのだ。お金を積めば読んでもらえるけれど、配信の流れは邪魔したくない。悪目立ちすれば周りからの不評も買うし。
用意したコメントは一旦消して、当たり障りのないコメントを投げていく。

「この間の対バンライブで以前から気になっていたアイドルの子と連絡先を交換したの」と微笑ましい話をしていたにゃあちゃんが、はたと顔を上げた。
「そうだ。一昨日発表になったの、みんな知ってる? 来月ユキちゃんの生誕ライブにゲスト出演が決まりました!」
【もちろん知ってる!】【楽しみだねー】【生誕ゲスト嬉しいね!】
「そうなの。ずっと仲良くしてもらってたから、嬉しいの〜」
ぽやぽやと話すにゃあちゃんを見ながら「今しかない」と思う。今しかない。コメントを打って、スタンプを選ぶ。
「たくさん盛り上げてたくさんお祝いして喜んでもらいたいの」「だからみんな来て、一緒にユキちゃんのことお祝いしようね」「ユキちゃん、何歌ったら喜んでくれるかなぁ?」

【今日誕生日なんです。ぼくもにゃあちゃんにお祝いしてほしい】
うさぎのスタンプと一緒にコメントを流す。千円。

【え!タカチさん!】【タカチさんおめでとう!】【今日なんだ!おめでとう〜】
にゃあちゃんが反応するより先に、見知った仲間がコメントで反応してくれた。にゃあちゃんが見逃さないように、後押し。ありがたい。
「わっ、タカチ! お誕生日なの! おめでとう〜!」
コメント群に遅れて、にゃあちゃんも気づいてくれた。一言一言跳ねるような言い方がうさぎのようで可愛らしい。
【おめでとう〜】【おめでとうございます!】
知らない名前のコメント群にも祝福される。嬉しさもあるが、配信の流れを阻害せずに済んだことへの安堵感の方が大きかった。
「お誕生日、いいね。嬉しいね。ケーキは食べた? お誕生日はケーキだよね。ああ、私もケーキ食べたくなってきちゃった」
想像上のケーキにうっとりするにゃあちゃん。今にもとろけてしまいそうな表情。演技派だ。
【今、ケーキ食べながら配信見てるよ】【さすが甘い物に目がないね笑】【いいなぁ、私もケーキ食べたくなった】
「決めた! ユキちゃんの生誕祭の日は、ライブ後にケーキを食べる! 決定!」
にゃあちゃんは大の甘いもの好きなのだが、アイドルという仕事柄、普段は間食を自制しているのだと言う。
「みんなも一緒にライブ来て、ケーキ食べようね〜」
【もちろん!】【ライブとケーキね、了解】【何ケーキにする?】
にゃあちゃんが上手いこと話題を戻してくれて、ぼくの時間はおしまい。ほんの数分のことだったけれど、十分すぎる時間だった。
そのお礼に、コメントを付けずにケーキのスタンプを贈る。三千円。
「あ! ショートケーキ、三つも! 美味しそう〜。ユキちゃんの生誕祭の後は、みんなでショートケーキにしよっか? 分かんないけど! その日の気分で変わっちゃうかも」
ぼくの他に二人、同じタイミングでケーキのスタンプを贈ったオタクがいた。三つのケーキをにゃあちゃんはまとめて捌いた。
【ショートケーキね、了解】【ユキ生誕楽しみ!】【ケーキで乾杯する?】
有象無象のコメントに流されていく、三千円のケーキが三つ。九千円、どんぶらこ。

配信が終わって、ぼくはSNSを更新した。
【今日誕生日でした。にゃあちゃんにお祝いしてもらえて嬉しい。ショートケーキ食べたよ〜】
ケーキとにゃあちゃんのアクリルスタンドの写真を付けて、にゃあちゃんのアカウントもタグ付けして、投稿。
配信終わりにSNSを開くのはぼくらオタク共通の習性だから、にゃあちゃんの配信を見ていたフォロワーたちから即座に反応があった。
【おめでとう!】【にゃあちゃんの配信、良かったね〜!おめでとう!】【優勝すぎ!笑】
さらには配信を見ていない人、普段やり取りがない人からもコメントや「いいね」が付いていて、案外見られているんだな、と少し驚きつつも嬉しかった。

それから三日後の週末、ぼくはいつも通り朝から渋谷のライブハウスにいた。
ミチシルベは午前は対バンのゲスト、午後はフェスのステージに出演するダブルヘッダーの日だった。対バンは渋谷だがフェスはお台場。移動がちょっと面倒だけど、長野から出てくることに比べたら大した距離じゃない。

対バン相手は初めて見るグループだった。
まだ結成して一年未満らしい。平均年齢も十五歳前後くらいで、なるほど道理でフレッシュさを感じるパフォーマンスだった。
その中でも一人、最年長でリーダーだという黄色い子はダンスのキレが良いなと思っていたら、「あの子は"前世持ち"だよ」と友人が教えてくれた。
前世。今のグループに入る前に、別のところでアイドルをしていた子。にゃあちゃんと同じ経歴。
なるほど、道理で。

ミチシルベは結成から約五年、アイドルとしてはそこそこ活動期間の長いグループだ。
二年前ににゃあちゃんとライラちゃんが同時に加入して以来メンバーの増減はないのでフレッシュさはさすがにもうないけれど、歌にもダンスにも安定感があり、綺麗に揃ったフォーメーションはいつ見ても美しい。
今日は久々に歌われたレア曲があって、「あ、前に聴いたときよりも歌が凄く良くなってる」と肌で感じた。

「あっ、タカチ! おめでとう! ハッピバースデートゥーユー♪」
終演後の特典会で、にゃあちゃんはぼくに会うなり歌い出した。
「ハッピバースデー、ディア、タカチ〜♪」
歌いながら自由に動くので、スタッフさんがチェキを撮れずに苦笑していた。にゃあちゃんは楽しくなると少し周りが見えなくなるところがある。
「ありがとう、嬉しい。ツーショ撮ろう?」
「あ! うん、撮る!」
ぼくが左手でハートの半分を作ると、歌い終えたにゃあちゃんがさっと右手を添えてくれた。すかさずスタッフさんがシャッターを押す。
「誕生日に配信があって嬉しかった」
「ね! びっくりした! 私も当日にお祝いできて嬉しかったの。ケーキも美味しそうだった〜」
「あはは。コージーコーナーだけどね」
「そうなんだ。コージーコーナーも侮れないなぁ」
チェキにサインを書いてもらう、その短い時間で言葉を交わす。配信も嬉しいが、やっぱりこうして直接コミュニケーションを取る瞬間が一番嬉しい。
さらりと言われたけれど、SNSに投稿したケーキの写真も見てくれたらしい。そんな細やかな言葉の一つ一つが宝物のように胸に響く。
「ね、聞いてもいい? タカチって何歳?」
「え? ああ。XX歳になったよ」
「へー! そうなんだ! へええぇ!」
二枚目のチェキを撮り終えるとそう質問をされた。特に隠していたわけでもなく言う機会がなかっただけなのだけど、にゃあちゃんの反応は予想外に大きかった。
「え、そんなに意外? 何歳に見えてた?」
「もっと年上だと思ってたの。タカチっていつも落ち着いてるから。大人〜って感じで」
「あはは。本当? ぼく、全然そんなんじゃないでしょ。最初の頃とか何も喋れなくて酷かったし」
「うん、そうだったね。懐かしい〜。でも今はすごく落ち着いてるから、その印象の方が強いの」
昔……にゃあちゃんと出会って最初の頃は、きちんとしようと思うあまり、しどろもどろになってしまうことも多かった。十七歳の女の子を前にオロオロする良い歳した大人。当時のにゃあちゃんはさぞ対応に困ったことだろう。
「もう少し若く見られるように頑張ろうかな」
「ううん、今のままのタカチが良いよ」
「そう? にゃあちゃんがそう言うなら、やめとく」
「うん、今のままでね」
「うん。わかった」
いつの頃からか、短い時間で気持ちを伝えるには無駄は省いて要点だけ話す方が良いのだと気づいた。言いたいことを何も伝えられなかったり、にゃあちゃんを困らせてしまうより、ずっと良い。その方が自分に合っているのだと気づいてから、特典会の時間はグッと楽しくなった。
「あ、そうだ。今日久々に『明星』やったでしょう。前見たときよりもなんか、良かった」
「そう! 久しぶりにやったの〜。良かった? やったぁ!」
にゃあちゃんに対する尊敬の気持ちも、敬語をやめた今の方が伝えられている気がしている。自惚れかもしれないけど。

ライブ前は「せっかく誕生日直後のライブだし、メンバー全員回ってお祝いしてもらおうかな」なんて考えていたはずなのに、にゃあちゃんにお祝いされて浮かれたぼくは結局、この日ずっとにゃあちゃんとチェキを撮っていた。
その枚数は数えていない。プライスレス。

夜はぎりぎり日付が変わる前に帰宅。
夢の国・東京から、現実・長野へ。
寝てしまえばあっという間に朝になる。にゃあちゃんに会えない平日の朝。そんな当たり前のことが、憂鬱。

「いでっ。……何だ?」
出先で昼食を食べていると、ガリ、と何やら硬いものに当たった。人参にしては固すぎる。ぺ、と吐き出すとそれは歪な形をした銀色だった。
「げっ。銀歯……」
口内をぐるりと触ると、奥歯の一箇所に不自然な凹みがあった。どうやら詰めてあった銀歯が取れたらしい。
「近所の歯医者、移転したんだよなぁ」
移転先はそう遠くないが、仕事終わりに行くには不便な場所だった。土日なら行けるけれど……今週末も来週末もその先も、"現場"で予定が埋まっている。

昼食を食べ終えて店を出る。歯医者に電話を掛けると、案の定、平日の夜は予約が埋まっていた。
「土日でしたら空きがあるのですが」
「うーん。ちょっと考えます。失礼します」
電話を切り、他を探す。会社の近くに一軒ヒット。そういえば少し前に新しい歯医者ができてたっけ。
電話を掛けてみると、運が良かったのか、すんなり予約が取れた。明日の十九時。平日の遅い時間までやっているようで、これなら週末の予定を変えずに済みそうだ、と一安心。

翌日、仕事を終えて時間通りに歯医者へ。
事情を説明し、口内をぐるりと確認され、レントゲンを撮られた。
「詰め物が取れたところ以外にも、虫歯が見られますね。この画像の、こことここ。こっちは結構深そうです」
銀歯が取れた歯ともう二箇所、治療が必要だと歯科医は言った。レントゲンの画像を見ても、どこが虫歯でどこが正常な歯なのか、違いはよく分からなかったけれど。治療に時間がかかりそうだ、ということは察することができた。
「こちらから、詰め物、被せ物の種類をお選び頂けます」
そう言って渡されたのは一枚のチラシだった。光沢のある綺麗な紙にフルカラーで歯の種類と値段、特徴が書かれている。
「保険適用内なら銀歯。でも、保険適用で安い、という以外メリットはありません。虫歯にもなりやすいですから、そうしたらまた削って銀歯を付けて……と。人の歯は、五回治療するとなくなると言われています。どんどん削っていきますから。セラミックは保険適用外ですが、虫歯にもなりにくいですし、見た目にも綺麗で目立ちません」
歯がなくなる。脅しのような言葉にぼくはぎょっとした。そこに書かれた金額をじっと見つめる。
一本五万円。他にも、八万円とか、十万円する種類もある。銀歯なら三千円。それでも、三本治療するなら九千円だ。
「営業職や見た目を気にされるお仕事の方は、こちらを選ばれる方も多いです。見た目以外にも、虫歯になりにくいので、長い目で見てこちらを選択される方もいます」
何を言ってもぼくが曖昧な返事しかしないので、「今すぐには決めなくて大丈夫ですよ。そちらは持ち帰って頂いて、ご検討してみてください」と歯科医は言って、その日の治療を終えた。

帰路を車で走りながらぼんやり考える。
「治療を繰り返すと歯がなくなる」「見た目を気にするなら」「一本五万円」
そんな単語から連想するのが自分ではなくにゃあちゃんのことなのは、もうどうしようもない、オタクの性だろう。
にゃあちゃんなら、見た目を気にしてセラミックの歯にするだろうな。笑ったとき、銀歯が見えてたら嫌だもんな。歯列矯正もしてたし。
とか。
にゃあちゃんの二十歳の誕生日配信で、山のように城が立った。シンデレラ城みたいな、洋風のお城のスタンプ。一万円。ぼくは五個投げた。五万円。
五個の城と、一本の白い歯。
ハタチだからと二十個投げたツワモノもいた。白い歯、四本分。
とか。
この間の配信で、どんぶらこと流れていったケーキは三千円。三人投げて九千円。銀歯三本分。にゃあちゃんのためなら躊躇わずに使える金額を、自分のためと思うと途端に出し渋ってしまう。
五万円、高いなあ。自分なんかにそんなお金をかける価値があるのだろうかと、卑屈な気持ちになる。三千円だって、高い。毎週の診療代もかかる。そのお金があれば、にゃあちゃんとチェキが何枚撮れるだろう。にゃあちゃんと何分話せるだろう。
とか。
ああ、にゃあちゃんに会いたいなぁ。

そんな卑屈な現実も、東京に出てしまえば忘れてしまう。ステージに出てきたにゃあちゃんの髪型が三つ編みだったから、もうそれだけで思考が吹き飛んだ。
三つ編みを揺らしながら踊るにゃあちゃん。漫画だったらぼくの目はハートになっていただろう。何度見ても、初めて見たかのように胸が高鳴る。可愛い、好きだ。その気持ちで頭がいっぱいになってしまう。
「タカチさん、にゃあちゃんが出てきたとき『やった!』って声漏れてましたよ」
ライブ後、隣にいた友人に笑われた。
「マジか。恥ずかしい」
無意識の言葉だった。苦笑しながらチェキ券を買う。三つ編みの日はいつもの枚数プラス二枚。
チェキ二枚、四千円。
今日もにゃあちゃんは可愛くて幸せだった。
明日からの現実も頑張ろう。そう思えた。

しかし、運の悪さは続くものだ。
週明けに仕事でミスをしてしまい、その対応に連日追われることとなった。残業と休日出勤。歯医者の予約は取り直し、新幹線もキャンセル。ライブのチケットも手放した。
【都合が悪くなったため、チケットを譲ります。手数料なし定価のみ。整番10番台】
仕事終わりに必死に取った先着チケットだったのになぁ。

土曜日、休日出勤後に歯医者へ。車で五分。渋谷からお台場へ移動するより何倍何十倍も足取りが重い。現実が重い。
財布から診察券を取り出し受付に出す。財布の中のにゃあちゃんと目が合う。三つ編みの日のチェキ。白い歯を見せて笑っている。その横で、ぼくも笑っている。財布を閉じる。
「……という状況ですね。なので、被せ物が二本、詰め物が一本になります。種類はどれにするか、決めましたか?」
「うーん……」
ぼくの心は最初から決まっていた。一本五万円なんて金額、出せるわけがなかった。それなのに言い淀んでしまうのは、ちっぽけなプライドのせい。
「まだお考えでしたら、来週で大丈夫ですよ」
歯科医の優しさは毒だった。いいえ違うんです、とは言えなかった。

歯医者を出て車に乗り込む。スマートフォンを起動すると通知が来ていた。
「あ、にゃあちゃん……」
それはSNSの更新通知と配信アプリの通知だった。SNSには【急だけど今から配信しまーす】と投稿されていて、その直後に配信が始まっている。開始時間は二十分前。通知をタップすると配信アプリが立ち上がる。にゃあちゃんはまだ配信中だった。大抵一時間前後やるので、今からでも三十分くらいは見れるはずだ。
「もうすぐ期末だから課題がいっぱい出てるの。ライブの合間とかレッスンの合間とか、もうずっと課題やってて。だから、配信の頻度もしばらく落ちちゃうかも。ごめんね」
【えらすぎる〜!】【大変だね、無理しないで】【課題優先で大丈夫だからね】
いつもの雑談配信だった。
大変、と言いながらも、にゃあちゃんは笑っていた。白い歯が見える。
「あー……」
その配信を「見たくない」と思ってしまった。衝動的に画面を消す。真っ暗な画面。にゃあちゃんの姿も声も消えてしまう。
いつもなら、帰り道、車を走らせながら見るにはちょうどいいと思うはずなのに。【こんばんは。今、仕事終わり】なんてコメントをすれば、一言「お疲れ様」と言ってもらえたかもしれないのに。
ライブに行けなかったことが後ろめたかった。配信を最初から見られないことも。できないことばかりを責めてしまう。自分ができないことを、できているオタクたちを見るのも苦しかった。
何も見なかったふりをして、スマートフォンをカバンにしまう。音楽をかける気にもならなかった。無音の車内に、エアコンの音だけが響いた。

可愛くて、キラキラと輝いていて、笑顔が眩しい、にゃあちゃん。
にゃあちゃんの輝きによって、自分の影が色濃く映し出される。真っ白なにゃあちゃんと、真っ黒なぼく。光と影。五万円と三千円。そんな勝手な対比を考えてしまう。
虫歯になって、治療して、銀歯を付けて、また虫歯になって、治療して……そしていつか、ボロボロになって、失う。
死ぬのはまだまだ先だろうと思っていたけれど、歯がボロボロになる日はもっと早くに訪れるかもしれない。
そんな日を、最悪な未来を、想像してしまう。
人としての価値。みすぼらしい自分。明るくない未来。突然迫ってきた絶望に、目を逸らせない現実に、今はその、笑顔の眩しさが痛かった。

結局、一つの仕事のミスを挽回するために二か月を費やし、そしてその間に溜まった仕事の処理に一か月。合計三か月、仕事に追われる生活となった。各方面に頭を下げ、上司にも部下にも他部署の同僚にも助けてもらい、どうにか大きな損失は出さずに済んだ。
三か月間、ライブも配信も見る気力が起きなくて、いろんな通知をオフにしてSNSも開かなかった。
何もする気が起きなかったけれど、歯医者にだけはきちんと通った。
いよいよ本治療をすることになり「被せ物と詰め物の種類、どうされますか?」と最終確認をされた。恥を偲んで「銀歯でお願いします」と答えた。
何を言われるかと身構えていたが、歯科医は「はい、分かりました。では削っていきますね」と治療を始めた。あんなに脅してきたのに、と、少し拍子抜けだった。
虫歯を削り、歯型を取り、仮の詰め物を付けられた。そして翌週、銀歯を装着。カチカチと噛んで、違和感のある部分を削り、またカチカチ。
歯科医に手鏡を渡され、自分の顔と向き合う。ニィ、と口を開けてみる。奥に二つ、銀色が光る。けれど、よくよく見なければ分からない程度だった。大口を開ければ奥に見えるが、普通に笑う程度なら隠れてしまう。
「銀歯は虫歯になりやすいので、気をつけてくださいね」終わりしな、そう忠言を受けて、治療終了。
最初こそ違和感があったが、半日もすればそれもなくなり、痛んだり滲みたりということもなかった。痛み止めはもらったけれど使う機会は訪れなかった。たぶん、腕の良い歯科医だったのだろう。
休日出勤もなくなり、歯医者に通うこともなくなった。そうして、ぼくの日常は戻ってきた。

三か月ぶりのライブは、行き慣れた渋谷のライブハウスでのフェスだった。チケットを取っていなかったので、友人から余っていたチケットを譲ってもらった。
「音信不通だったから、"他界"したかと思った」と笑われた。
「ごめん。ちょっと仕事がバタバタしてたんだ。もう落ち着いたから、大丈夫」
他界。そのままの意味ではなく、「その"現場"から離れてしまう」ことを指す言葉だ。推しが卒業したり、グループの方向性が合わなくなったり、他に好きなグループができたり。様々な理由でオタクは"他界"する。
"他界"したオタクとフェスで再会することもある。若くて可愛くて一生懸命なアイドルは、無数にいるから。寂しいけれど仕方ないことだ。
アイドルにも"前世"があるように。オタクも、生と死を繰り返している。

久しぶりのライブに、ぼくは少し緊張していた。
配信を「見たくない」と思ったあの日のことを思い出す。ライブを見てもそう感じてしまったら、どうしよう。それこそ"他界"だろう。
"他界"したくはなかった。けれど、自分の心が、自分でも分からなかった。
ライブハウスで人の群れに埋もれながら、下手寄りに見える場所を探した。にゃあちゃんの立ち位置に少しでも近いところ。いつも通り、を心掛ける。

ミチシルベの前にいくつかのグループのライブを見て、人の流れを見ながら、前へ進む。
聞き馴染みのSEが流れる頃には、三列目の見やすい場所まで来ることができた。
ミチシルベのライブが始まる。SEの終わりに、メンバーが下手側の舞台袖から小走りでステージに現れた。にゃあちゃんは一番最後だ。
現れたにゃあちゃんは……三つ編みだった。
あっ。可愛い。好きだ。
反射的にそう思った。胸が高鳴る。身体がカッと熱くなる。
大丈夫だった。
もう、大丈夫だ。
一曲目は、ミチシルベのフェス定番曲から。これまで何百回と聴いた曲だ。三か月のブランクなんて、大したことじゃあない。
自然と腕が上がる。声が出る。
にゃあちゃんと目が合った。少し驚いたような顔。それからまた、笑顔に戻る。
三つ編みのにゃあちゃんが、歯を見せて笑う。白い歯。ああ、可愛いなぁ。ぼくには同じように笑うことはできない。下手くそな笑顔。銀歯はきっと見えない。見えていても、この距離だ。きっと分からないだろう。
だから、いつも通りだった。
いつも通り、楽しかった。
ああ、ライブが終わったら、チェキを撮ろう。三つ編みだから、いつもより、二枚多く。いや、三か月ぶりだから、もっと撮ってもいい。
にゃあちゃんの可愛さ、三か月分。プライスレス。

End.

サポートするより私の推しを見てくれた方が嬉しい。 動画でもSNSでもフェスでもライブでも良いから、私の自慢の推しを見てくれたら嬉しい。 そして、私の推しをあなたも好きになってくれたら、もっと嬉しい。