律法が与えられた理由は? 出エジプト記24章1〜11節契約を守ってくださる神⑥「祝福街道の歩み方」 2022.9.11 守谷キリスト教会礼拝説教

モーセ契約を通して
イスラエルの民に与えられたのは

律法(出エ20-23章)と、
幕屋(出エ25-31章)です。

今週は、律法について扱っていきます。


約束の地に向けての旅を始めたばかりのイスラエルの民は、
自分達をエジプトから救ってくださった神が
どのような方であるのかをまだ知りませんでした。

ご自身がどのような方であるのかを伝えるために
神がとられた手段が、

律法です。

イスラエルの民は
律法に従って生活することを通して、
神について学んでいったのです。


律法には、
人々に社会生活を健全に営んでほしいという
神の配慮が溢れています。

律法によって、
エジプトで奴隷だった彼らに週に一度の安息が与えられました。

そして個人の命や所有物に対しての権利、
家族関係、
社会的に弱い立場の人への配慮、
訴訟に関することまで、
律法は教えます。


律法は特別な場所での修行を求めません。

神が配慮に富んだ愛の神であること、
他の神々とは全く異なった存在であることを、

イスラエルの民は
実生活の中で律法を行うことで
体験的に学んだのです。


そのようにして
律法に従って歩むイスラエルの姿は、
神にとっても重要なものでした。

なぜなら神は、
人の応答によって
ご自身についてこの世界で証されることを望むからです。

それがイスラエルの「祭司の王国」(出エ19:6)」としての歩みでした。

神は石や木によって表現される方ではありません。

「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません(ヤコ1:22)。」

私たちの応答は、
自らの救いのためにではなく、
神を証詞するために重要なのです。

しかしやがて、
応答として律法に従う姿勢は
硬直したものへと変容してしまいました。

律法を守ることは
自分と他者を区別するものではあっても、
神の愛を証詞するものではなくなったのです。

イエス様はそのような「律法主義」を厳しく非難されました。


私たちには新しい契約によって、
「自由をもたらす完全な律法(ヤコブ1:25)」が与えられました。

それがイエス様の十字架と聖霊です。

私たちの応答としての愛の行いは、
虚栄心や恐怖心によってではなく、

イエス様の愛による祝福を
一心に見つめることから始まります。

そこから始まる行いには、
大きな祝福が約束されているのです。

本日の説教を振り返るために

① 出エジプト記20-23章を読んで、温かみや面白いと思えるような律法はありますか?探して分かち合いましょう。

② 今日、あなたが聖霊によって促されている行いはありますか?


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