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猫とジゴロ 第六十三話

井口さん殺害事件は直ぐに大ニュースになり、公園にマスコミ連中が大挙して押し寄せた。アキラも危うく勝手に姿を撮られてニュースに流れる所だった。しかし唯一の目撃者であるアキラは警察まで出頭させられ、根掘り葉掘り、それは関係ないだろうという細かいことまで質問攻めだった。アキラは警察が嫌いという訳ではなかったが、まあ、好きという事もなく、前向きに捜査に協力するつもりではあった。しかも、この事件を担当している鈴木という一課の刑事さんは、こちらの話もよく聞いてくれるし、好感さえ抱いていた。消えつつあるベールもマスコミ陣に囲まれている時は、あの公園には似つかわしくないどぎつい色が溢れていた。アキラはこんな大変な事件の渦中の人物であるにも関わらず、何故か無性に腹が減った。

鈴木刑事にだけは、一番気になっている鉄平の失踪と遠藤家で行われていた猫への虐待の話の関係性を打ち明けて置いた。鈴木刑事以外の人間には余り詳しく事の経緯を話さないでおいた。例の直感だけれども、何となくその方がいい気がするのだった。鈴木刑事は短く刈り込んだ頭髪にラウンドの髭、体格は短躯だが『指輪物語』に出てくるドワーフ族を彷彿とさせた。俺はこっそりギムリというあだ名を付けた。

目白警察署でも、長い長い尋問を受けてそれは昼前まで続いた。途中、斎藤さんが心配して、俺の番号にかけてきた。「アキラさん、マダムもユリちゃんもおらず、何だか心細い斎藤であります。なるべく早くご帰宅されるのを心待ちにしております」「斎藤さん。ちょっと驚くかもしれないけど、俺は目白署で尋問を受けているんだ。もっとも俺が何かをやらかしちまったんではなく、唯一の事件の目撃者だって事でね。全く厄介な事だよ」斎藤さんはかなり慌てた様子で続けた。「斎藤もテレビで報道を見ているのですが、このおとめ山公園という所で殺人事件が起こって、その唯一の目撃者ということでアキラさんが尋問を受けている訳ですね。何だか物騒な事件が多くなりました。アキラさん必ず元気なお姿でマダムの所へ帰って来て下さい。心待ちにしております」「ありがとう斎藤さん。悪いんだけど俺はめちゃくちゃ腹が減っているんだ。超ボリューム満点の肉料理が食いたいんだ、こんな時に何なんだけどね」こう言っておけば、斎藤さんは彼自身が出来る事で一番の得意技である料理を作る事に集中できるはずだ。「任せて下さい。遅いお昼かもしれませんが豚の角煮を作ろうと思います」斎藤さんの声のトーンが少し上向いた気がする。

アキラは目白警察署から少し歩いて副都心線で帰ることにした。肥後細川庭園に寄って、例の如く調査しても良いのだが、とにかく疲労困憊だ。それに相手はさして恨みもなさそうな人物を平気で殺すサイコ、というか危険人物だ。嫌な予感が的中し現実に殺人魔が現れてしまった今、俺自身もよくよく用心しないといけない、と肝に銘じた。副都心線は地下鉄なので、いつも俺が楽しむ車窓からの風景がない。残念ではあるが、何となく目新しさも手伝って。途中、ツーブロックの痩身のスーツ姿を見かけると、鉄平じゃないかと顔を確認しに手前まで回り込んだ。地下鉄が渋谷につき、マダム邸までの道のりをトボトボ歩いた。道中色々な出来事が走馬灯のように浮かんだ。ユリにマダム、それに鉄平。問題は山深い北の地に降る牡丹雪のようにドカドカと降ってくる。何故に俺の周りは事件だらけになってしまったのか。アキラは色々思う所があったが、同じことをするのにも「いやいや」やるのと「ワクワク」しながらやるのでは全くパフォーマンスが違ったし、出てくるもののクオリティーが違った。井口さんの尊い命が消えてしまったのは確かだったが、嗚咽する程悲しみに暮れて号泣した所で、井口さんの命は蘇るものでもない。ここは一つ男の見せ所だと開き直るような気持ちで犯人のサイコ野郎の尻尾を捕まえて見せる、それが井口さんに対してのきちんとした弔いだと思いながら、俺は覚悟を決めた。

マダム邸に到着すると、安堵感からか物凄い睡魔がアキラを襲った。「アキラさん、出来てますよ。斎藤は何時間もかけてコトコト煮込みましたから、恐らく超美味しいと思います」斎藤さんが俺を笑わそうと「超」なんて言葉を付けて話しているのを聞いて、俺もウジウジ腐っている場合ではないとふんどしの紐を締めなおした。

豚の角煮は目の前に存在する。
箸を伸ばせばそこにあるのだから。
一口含めば広がる滋味に瞳を閉じる。
これは明らかに正真正銘の豚の角煮だ。

しかし如何様にしてそれを
豚の角煮だと証明できよう。

俺は人間のあらゆる煩悩について考えていた。