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映画『りんご』

1998年/製作国:イラン、フランス、オランダ/上映時間:86分 ドキュメンタリーと劇映画の中間に位置する作品(モキュメンタリーではない)
原題
 SIB
監督 サミラ・マフマルバフ




予告編

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STORY

 イランのテヘラン。1997年、夏。
 実の父親により生まれてから12年もの間、自宅に監禁されていた12歳の双子の姉妹、マスメとザーラ。
 初めて外界との接触をはたした彼女たちが触れた世界とは。
 

レビュー

 子どもへの12年間もの自宅監禁が、重罪にならない国のお話。
 そしてなんと、実話です。
 登場人物は全て当事者本人たちである、半ドキュメンタリー作品。

 娘たちの居る家の玄関の扉へ、外側から鍵をかける父親(内側からカギを開けることは出来ない仕様)。
 最初にその映像を観たとき、私の脳味噌は軽くパニックを起こしました。
 「自宅型動物園式監禁」「過保護の究極の最終形態」「引きこもらせ問題」
 そんな言葉が脳裏に次々と浮かびました。
 
 しかし、娘ふたりを監禁する父親は極悪人ではありません。むしろ穏やかな性格で、娘たちのことも大切に思っています。(ここ重要)
 ただ、信じられない程に無知なのです。「無知は罪」と言いますけれども、相手の立場となって考えることの出来ない善意と無知が合わさると、相手に最大の被害をもたらしてしまうこともあるということを、本作の父親は教えてくれます。
 監禁により外界との接触を完全に断たれてしまったため、娘ふたりは「自分たちが異常な状況に置かれ人生を奪われ続けている」ということに気付くことすら出来ていないという実態が、余りにも恐ろしい。
 また本作は、事件の責任を父親のみのものとせず、むしろイスラム教を重要視する(宗教が法律となってしまっている)女性蔑視社会にこそ根本的な原因と責任があるということを、それとなく炙り出してゆきます。
 ※アメリカにおけるキリスト教狂信者達による「問答無用の中絶反対運動&中絶禁止の法律施行」等と同様、宗教絡みの無知な善意が、他者の人生に対し如何に大きな被害を及ぼすのかという、わかりやすい事例ではないかと思います
 
 というか本作では、アニメ映画『ディリリとパリの時間旅行』にて描かれていた、「男性支配団」の思想を世の中に反映してしまうとどうなるのかのリアルな回答の一部を観ることが出来てしまうというのが、凄過ぎるというか・・・、(既にそのような状況が存在し続けているということが)恐ろし過ぎるというか・・・
 正直、母親のチャドル姿にはゾッとしました(ちなみに母親は思想的に完全に「男性支配団」の洗脳が完了している状態です)。
 しかし母親もまた、極悪人ではありません。父親と同じく、穏やかな性格で、娘たちを大切に思っています。(ここも重要)
 
 ひとつの真実があるように思います。
 それは、「愛する」ことと「育てる」ことは全くの別物であるということであり、「育てる」ためのスキルが無ければ「愛する」ことは、その対象に対し最大の被害をもたらすこともある。ということです。
 
 救いは、本作を製作した監督が当時若干17歳の女性、サミラ・マフマルバフであったという事実
 父親は映画監督のモフセン・マフバルバフ
 意図せずして、撮影する側とされる側の知的レベルの違いをも浮き彫りにしており、教育や知識の重要性についても深く考えさせられます
 
 「りんご」というタイトルの意図は、是非この作品を御覧になり、確認なさってみてください。
 それから、「櫛」と「鏡」というたった2つのモノが、とてつもない神器と化す奇跡の瞬間も、お見逃しなく。
 
 傑作の中の傑作です。

 最後に、
 本レビューを記したのは春、花の季節。
 植物が花を咲かせるには太陽の光が必要で、もしそれが「リンゴの木」であるなら、水と土と空気だけでは、花を咲かせることも、実を結ぶことも、出来ません。
 光が、必要なのです。
 願わくば世界のすべての花が、美しい花を咲かせ、豊かな実を結びますように。
 

 
 

監督の言葉(プレスブックより)

 「その時(ナデリー一家に会ったとき)は映画を作るというつもりはまだなかったのですが、持っていたビデオカメラはもうまわしていました。主役がそこにそろっていたのです。父親と、チャドルで全身を覆った目の見えない母親と、話すことのできず歩行も難しそうな双子の娘たち。撮り逃せないイメージでした」
 
 「映画は社会を映し出す鏡でしょう。社会の方は、鏡に映った自分の姿を無視したりするけれど、無視させないようにどこまでもやっていけば、ひょっとしたら世界は少し変わるかもしれない、と思うのです



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