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【場面緘黙の経過】家族全員がメガネになった日

タイトルはメガネですが、次女の緘黙の経過の話。

我が家、夫がド近眼乱視人間、
わたしはもともとバカほど目が良くて、四十路突入とほぼ同時に老眼傾向。
長女も夫と同じく近眼+ちょっと乱視。

次女が私と夫どっち寄りになるかを見守っていたんですが、高学年に進んだくらいであれよあれよと視力低下が進みついに今年の計測結果が0.3とか。おいおい。

まあやむをえまい、とメガネをあつらえに行きました。
学校の眼科健診(不登校だけど、健診系はやらなきゃやらないで面倒なのでやってもらってます)経由なので、紙っぺら持って眼科へ。

連れて行ったのは平日の午前。不登校と自由業、学校のある時間帯でも動けるのは強い。
待合に入った段階で、おや、と思った。小学生らしき子供が複数いる。おそらくは行事の振り替えか何かだろうな~と自分の中で納得。学区外なので、次女もそれほど固まってはいない。

ここは姉も通ってるので、どうやって診察が進んでいくかをわたしは既に知っていた。
具体的に言えば、測定は子供1人で入室なのを知ってた。
……ので、博打だけど、受付の段階で配慮を頼まなかった。「緘黙があるので」というのは簡単だけれど、それをしなかった。
呼ばれたら次女1人で送り出し、看護師さんに「困ってそうだったら呼んでください」だけ言って、待合で待ってた。

測定の様子を待合から見ていた。
指差しでこなしてくるだろうかと思っていたけど、手が動いていたのは見える限りわずか。看護師さんが、ぱかぱかとランドルト環の照明を切り替えていく。速さに不自然なところはない。
声で答えていたら、たぶんこのペースだろう、という速さ。

この子喋ってるんじゃない?って思った。わたしから離れたところで。

ややあって、スンとした顔で帰ってきた。声で答えたのか、というのをふんわりと聞いた。どんな言葉で伝えたのか、詳しくは覚えていない。高揚していたから。ほんとにできたのか、問い詰めるようになったらだめだ、という気持ちだけは覚えてる。

次女は否定しなかった。喋ったんだ、とわかった。派手にほめなかった。大げさにほめられるのと子ども扱いが嫌いな子だから。

なんで喋れたんだろう、を待合で考えていた。
多分前述条件にプラスして、

・子供も1人で呼ばれるのを本人が待合で見ていた
・対応する看護師さんは妹の緘黙を知らないまま対応
・頻繁に行くところではない
・わたしから即時のサポートが飛ばない(から自分でやるしかない)

……あたりがいい方向に働いたのかなあ、という結論になった。
(ちなみに診察室では喋れていない。わたしが近すぎるのかもしれない)
なので、同じような条件で活動できる場を探すのが良さそうだな…と思いながら数日おきに眼底検査まで済ませて(多分これも喋ってると思う。視能士さん?についていって検査室とお外で測定してた)メガネを作りに行ったわけです。

ごく普通のチェーンのショップ。なんなら徒歩圏内の近所。
ここでも配慮は特にお願いせずに、受付に処方箋を差し出してふつうのお客さんをやった。最初にぐるっと見回って、それからレンズの説明を一緒に受けた。
なんと、わたしが横にいても喋れる。店員さんに聞かれたことを答えて、必要だなと思った補足質問をわたしが店員さんにして、それにも店員さんの目の前で答える。小さな声だけど、それはまあいつも比較的そうだし。

ありふれたやりとり。でもこの4年半、ほとんど失われてたやりとり。
隣で静かに感動しながら、それらを経て、無事にメガネを手に入れました。余談だけどめっちゃかわいい。マジでわたしは自分の娘たちを結構な美少女だと思ってるんですが、メガネがあってなおかわいい。
(長女はコンタクトにして思春期のおにくがもうちょい減れば幼児期の比類なきかわいさを取り戻すと思う)(そうなったら某事務所に書類を送らせてくれとたびたび言ってるけど聞いてくれない)(推しと娘が面識を持つ夢くらい持ったっていいだろ…)
車道からでも見えるレベルのクソデカ文字看板も今まで見えてなかったことが分かって、戦慄したりもした。よく今まで不便感じなかったな。この娘、インドアが極まってしまっていた。

さて。
これまで外で私が先手を打ってたのは、まだ彼女に不安が残っていると確信があったから。不安があるうちは無理だろう、という認識でいた。
ここ数か月で家でも言葉を飲み込むことが減り、本人からの発話が増えて、姉へのちょっとした不満を私にチクりにくるようになり笑、そんなところで偶然眼科で最高のシチュエーションが来て、これはいけるかもしれないと博打を打った。
それが大成功だった。それだけのこと。本当に運が良かった。本人もきっと勇気を出した。
すべての場面で、大袈裟には誉めなかった。ごくごく普通に接した。大袈裟に誉められるの嫌いな子だから。子供扱いも特別扱いも好きじゃないから。次女への扱いはいついかなる時も障害(と呼ぶべきか迷うけれど、情緒障害ではあるので)への配慮でしかなかったわけだけど、それも多分本人は歯痒かった。

これまでの彼女を知らない新しい場所に飛び込んだら、次女はきっとまた成長するだろう。願わくは、中学がそういう場になってほしい。
喋れる場面が増えただけでまだ喋れない場所はあるし、配慮が不要なわけではないから(ASDの気質自体が消えたわけではないし、不登校4年間は取り戻せないので)配慮のある場所であることは必須。

そして今、喋れない前提で通っている塾や心理室などなどについては「自分が喋らないことを知っている場でも喋ることができる」経験を積めるチャンスでもあるのでこのまま通う。これができないと、この子は祖父母とも話せないので。

私がしたことなんてそんなにない。
ただ、ひたすらに待った。信じてた。この子はどうしたら喋れるようになるだろう、どうしたらふつうになれるだろう、ということは考えなかった。喋れる喋れないは二の次で、ただただ不安を消していかにゃってことと、この特性を持ったままでも生きられる方法ってなんだろう、とずっと考えていた。

傷つき果てるまでの時間とそこから復活するまでの時間はほぼ等しいと聞いたことがあるけど、保育園年少で集団生活に放り込んで小1不登校開始まで約3年半、そこから不登校4年半だからだいたい正しいと思う。
でも保育園は比較的適切に彼女に接してくれたから(卒園間際には園庭で大声で同級生の男の子に話しかけられて大声で返せる程度には適応できていた)、もしかしたら、学校とつかず離れずにいた時代が彼女の不安を払拭しきれず、時間がかかってしまっただけなのかもしれないとも思う。だって、ほとんど学校と接点を持たなくなって1年と少しでこの段階に来ているのだから。

とはいえ、そこに思い至ったからと言って、あの時代には戻れない。
その暮らしに暴露療法みたいな効果があればよかったけど、たぶんなかった。「もう二度と教室に入らない」と一年生の子が心に誓うような何かがあったわけだから、言ったらそのトラウマの源流に近いところに居続けていいことなんてあるわけがなかったんだよな、というように解釈している。

さらに言うなら小学校に対してはさんざん配慮をもとめて玉砕し続けてきたという経過があるから、今動くのは無駄な努力に過ぎないとも思っている。
なので、今はこの力を溜めながら中学進学で一気に動く、でいいかな、という認識でいるのが現状です。

懸念事項として、「中学で再び集団生活になったらヤバいのでは?」というのはあるので、本当に慎重に配慮(不登校状態にあったことと、ASD気質について。緘黙については開示する・しない、本人にそれを知らせる・知らせないを含めて熟考が必要)をお願いする必要と、それが叶う環境が必要という絶対条件はある。

難しいね。がんばろうね。

大好きな彼らに励まされながら心に誓う。

またここから。(OVER THE RAINBOW)

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