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不登校児・(発達)障害児を持つ保護者の発信に対する違和感

これはたぶん、思っている人がそこそこおられるのではないだろうかと思うんですが。

「子どもに対してイライラしたり、感情をぶつけてしまっても仕方がない」
「親だって人間なんだから」

みたいな(親に対する慰めの)論調、私、すごい違和感があるんですよ。

その考え方自体は「それはそう」ではあるけれど、
それは適切な方法で問題をクリアした後に語られるべきじゃない?と。

例えば、ぶつけてしまう前にしかるべき機関で相談をしてクリアしたとか。
子どもにぶつけてしまったけれど、誠心誠意謝罪を済ませているとか。
(だとしてもその子が本当に許してるかどうかは疑問だし、どちらかが死ぬまで真相は明らかにはならないだろうと思ってるけど)
家庭だけではどうしようもなくなったから行政や福祉の力を借りた、とか。

(発達)障害のある子も不登校の子もいわゆる「ふつうではない」(この言い方も嫌いなんですが)けれど、親を困らせたいわけじゃない。
(「俺を・私を理解してくれない親なんて困らせてやる!」なんて負の連鎖に入ってる子も、もしかしたらいるのかもしれないけれど)

だって、一番困ってるのも不利益を被っているのも絶対に子ども本人だもん。

子どもの立場から考えたときに、「一緒に困って悩んでくれる」ならまだしも、「困っているのにさらに害される」ことを肯定し合うのがまかり通ってる社会って、何?って。

この大インターネット時代、子どもが発信を見つけて「これママじゃん…」って気づいちゃったときのこと考えてる?って。

仮に自分の子どもに見つからなかったとしても、「かつて親に責められてきた、いわゆる「ふつうではないひと」」がその発信を読んだ時のこと考えてるのかな?って。

「そうやって親同士がなあなあで傷なめ合って、子どもを理解しようという姿勢を持つより前に子どもを責める自分を正当化するのが当たり前なんだ」って思わせてしまっていいんですか?って。

そういうのはクローズドの、見えんとこでおやりなさいよ。
親の会とか申請制のオプチャとか探しなよ。あるよ。鍵垢でもいいよ。
世界中に発信していいものじゃないよ。いろんな人がネットやってんのよ。

「当たり前!」「みんなそうだよ!」って正当化し合ってる姿で、自分の子どもやそれに似たような誰かを傷つけてもいいと思ってる?その傷が、誰かにとっての最悪を誘発する可能性って考えてる?
……まで、正直言うと、思ってしまう。それゆえの違和感。

「言葉で誰かを殺しているかもしれないことに無自覚な姿勢への嫌悪」とすら言える。

私は「家庭が一番の安全地帯で、親は何があっても子どもの一番の理解者であるべき」だと思って親になりました。自分自身が、そういう家とそういう親を持たなかったので。
それも、不妊治療と堂々と言えるほどではないけれど、ある程度医療の力をお借りして。そこまでしてでも、親になりたかった。

言っちゃえばエゴなんですよ。
自分が親になりたかった。
自分が生きたいと思える家を自分で作りたかった。
だから、自分とこに来てくれた子は全力で幸せにする義務がある、と思っている。

言うて、これも私の価値観でしかないのもわかる。
百パー望まずに親になった人もいるってことも、わかる。

でも「生まなきゃよかった」を子どもにぶつけることにはきっと誰しもが眉を顰めるのに、
「ふつうじゃない子のふつうじゃない部分を責め立てた」は許容されるのはなんで?

とはいえ、そこを正論で責めたら親のメンタルがやばいのは分かってる。吐き出す場所は必要、というくらいの理解はある。
だから、「クローズドで、絶対わかってもらえるコミュニティの中でおやりよ」
が、私の結論です。

少し前に拡散されていた、線路に降りちゃって駅員に石を投げてた知的障害の方(かなあ、と思っていますが)を迷わずに追いかけて抱きしめたお母さん(?)の動画。
もし自分の子にそこまでの障害があったとしても、私にはあれができる。そういう自信がある。

どれだけ「ふつうじゃない子」を持ってしまっても、あのお母さんのようにありたいな、と思えるひとがひとりでも多くいますように。

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