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しあわせについて本気出してかんがえてみた

プロローグ

こんにちは、まゆみです。
「しあわせについてほんきだしてかんがえてみたらぁーあーあ」
ってポルノグラフィティの曲やったっけ!?
って調べて焦った次第です。(焦るって何
ぜんぜん思い出せないもんですね。ひぃ

おいといて。
「しあわせについて本気出して考えてみた」という話です。
先日読んでいた記事で

「自分の幸せはおかね、じかん、なかまで構成されている」

と書かれていた方がおられました。
なんかありったけのゆめかきあつめて探し物探しにいきそうだな
と思いましたが、
たしかに、自分の中の「物足りなさ」や「嫉妬」「不安」って
おかね、じかん、なかま
が原因だったこともあるよな。と振り返ってみることにしました。
これが私の

「しあわせについて本気出して考えてみた2022」です。

振り返り

2015年からUターンして地元に住んでいる私ですが、
その間いろんなひとがやってきたり、いろんなひとが出て行ったり
密になったり、疎遠になったりしてきました。

店の方はといえば、

イベントや展示会、ワークショップ、マルシェなどなど
自分がいなかった期間(大学からインターン、就職中)に定着した行事も多く、
自主的に「わたしがやる!」みたいなほとんどはありませんでした。
外部の方に委ねる形で場所を貸す程度にしか自分は考えておらず、

みんなすごいなー、イベントって準備から終わりまで裏で見せてもらうと
やっぱりたいへんなこともおおいなー

とおののくことも多かったです。

一方で、そこで形成される仲間や出会い、きっかけやつぎの展開を見せてもらうと

いいなー!自分も主体性があればあんなふうになれたのかな。

とうらやましくなることもかなり多かったです。
壇上にあがるというか、スポットが当たるというか、当事者として悩んだり、解決したり仲間を増やしたり、お金を使ったり稼いだり。
そうした営みはとても尊く、輝いて見えました。

また自分にはない魅力が人にはあって、それぞれの結びつき方は
自分では到底理解し得ない場所にあるんだなあ、とうっすら
さびしさのようなものも抱いていたと思います。

特に、じぶんは2015年、2018年と出産→まったなしで子育て
で「子供の面倒を見るだけの暮らし」がベースになっていた期間が長く
そうした要素も重なって

自分の無力感や社会とのつながりの希薄さ、に敏感になっていたといえます。
その頃もこつこつとNOTEやSNSで発信をしてはやめて、を繰り返していました。

やっていいのか?やっぱりやめようか
やったらお金がかかるし、お金が稼げる保証もない。人知れず暮らしたい、
でもやっぱり人に知って欲しい。

と情緒は安定しないままその日その日を終えていた感じでした。
なかまと言えるひとも
じかんと言えるじぶんだけの時間もなく、
おかねという不安だけが膨大で、
全てが縮こまっていたんだよな。と振り返っています。

しあわせのかたちとは

ここで、世の中でおこる事象や取り組みについて考えてみます。

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イメージはこんな感じ。
いいなーすごいなーと私が思っていたあらゆる出来事は
「目に見えるもの」の部分です。

見えるようになって人は「評価」をしますが、
人に認知されるまでには「お金」「理解者や協力者」「時間」が必要です。
個人的な活動も、町の人々、外部の人々を巻き込んだ活動も
だいたい構成している要素は同じだと思っています。

イベントであれば、開催にかかる「お金」はもちろん、実行した時に参加してくれる「時間」「人」が必要ですし、個展や商品開発も受け取ってくれる「人」「時間」という要素がなければ成立しません。

どの部分にひとはしあわせ、を感じるかは限定できませんが
こうした「仕合せ」作業は人の中に「行動して良かった」という満足感を生み出します。

3点が作る形を考える

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では次に

なかま、おかね、じかんの3点について考えてみます。
この図は先ほどとは違い、三要素が点となって図形を作る、という説明です。

正三角形を目指すことが一概に正しいとはいえませんが
やりたい「物事」についての本質的な意味をきちんと追求したければ
ある程度、客観的にみてもバランスが取れている状態は望ましいと言えるでしょう。
きちんと形成されている図形であれば、安定した状態が継続していくことはもちろん、別の図形を形成している人や物事とも結びつきやすく、連携や拡大、転換もしやすいはずです。
こうした図形要素の組み合わせ、バランスが主催の人やグループの色や特色を発揮し、地域性が出たり、他の店やイベントとの違いを生み出すともいえます。

個人個人の「しあわせ」だけじゃ測れない部分は「まち」や「地域」の雰囲気が大きなベースとなります。

「ここでやってよかったな」とか「このまちだったからできた」というような気持ち、逆に「これをやったからこの街が良くなった」「このまちがすきになった」ということもあるかもしれません。
まちと個人個人の関係性はどちらか一方では完結していないため、
人々の起こす事象も、まちがもつ特有のベースも切り離して考えることはできない、と私は感じています。

まちがひとをつくる、ひとがまちをつくる

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地域性というものは普段の暮らしではあまり意識できないものです。
が、雰囲気や街の人々の特性はあるものです。
ただそれが全てみんな均一とも限りませんし、元からいた人は適合しにくい要素もあったり、他所から来た人の方が受け止めやすい要素もあります。

他所から来た人だからこそ、あえて切り込めるということもあるでしょう。
かといって
このまちにるのだからまちのひとと同じ形になる、という必要はないと私は考えています。
もちろん、まちにもともといた人でも「まちのひとだから」という理由で
同調する必要はないと思います。
ずっとおかしいと思っていたけれど、それに習ったほうが楽だからというひとがいてもよし、おかしいと思ったことは一度もない、というひとがいてもよし。
全てに納得したいけどできないから他所へ移るも、全てに共感できる訳ではないけれど、適合する部分があるので済むもよし。

まちがひとをつくり、ひとがまちを作る。この繰り返しで私たちのまちのくらし、ひいてはそこで感じる「しあわせ」は作り上げられていきます。
自体や周りの人、世の流れがその形をかえることもあるでしょう。
そこにおいて、自分が「どうあるべきか」を立ち止まってうんうんうなりながら考える、これが一番必要な営みなのではないでしょうか。

毎回何か起こるたびに「本気出してかんがえる」ということ。

どんなかたちか、どうなりたいのか

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よく成功事例やうまくいっている(と、側からは見える)人の真似をする人がいます。

その場合、「自分の持つしあわせの価値」や「しあわせのかたち」をしっかりと内省しているかが大きなポイントだと私は考えています。
憧れたり羨ましくなることは、自然なことなので否定しませんが
あえてその形にわざわざしなくても、そのひとの良さ、価値、かたちはそのままできちんと成り立っていたりするものです。

自分に対する認識(または地域に於いての条件や目指すべき方向性)が間違っていると、
見習って模倣すべき要素や相手を見誤りがちです。
身の程、という言葉は不適合かもしれませんがあえて使わせていただくと
「身の程」「身の丈」を知ることに大きな意味があるはずなのに、
よそばかりをみて、模倣するという形で手を抜いて、外の要素、それも輝いている部分だけをかいつまんでも本質的な「しあわせの形成・継続」には至らないのです。

変に力が入り、途方もない時間や人、資金を巻き込んだ末に
かけがえのない「じぶんのしあわせ」を見失うのであれば悲しすぎます。

自分も2015年からの状態を常に振り返っておりますが、
「自分にとってのしあわせ」を本当にじっくりと考えられていたか
と問われるとそうだった、と言い切れるようになったのはごくごく最近です。

世の流れや周りの動きから「自分もそうしたほうがしあわせなのかも」と
ふわふわ流されることの方が多いですし、今だってそうなる瞬間はたくさん訪れます。ただ以前と違うのは
「止まってみる」という意識を取り入れるようになったことです。

不安になったり焦ったり、足した方がいい?やめた方がいい?と迷う
そのたびに、「ちょっとまってよ」とぼんやりでもたちどまって考えるようにはなりました。
焦って全てに対して「丸」か「ばつ」かを決めなくてもいい、と思える経験が増えたおかげかもしれません。
また、「自分で決めてきた」と思えることを小さなことでも拾って確認してきたからかもしれません。


「自分で決めていい」「自分で歩いたり、止まったりしていい」

その繰り返しが「じぶんのしあわせ」の形をより鮮明にし始めた気がします。
「自分ってこうかもしれない」「ほんとうのじぶんはこうだ」
という判断はなかなか自分じゃ分からなかったり、他人に任せたくなったりするものです。

ただ、自分以外のもの、だとおもっている要素もいうなれば
「じぶんがみている世界」でしか認識できない、「じぶんだけのもの」なのです。
じぶんの形はみえにくいようで、一番見えやすいのではないでしょうか。

常には大変ですが、「しあわせについて本気出して考える」ために
ふと立ちどまる、そんな勇気。

止まってもいいんだと自分に言える、ひとやまちがわたしはいいなあと
今は考えています。

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