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なぜ天狗ちゃんのレスポンスは素敵なのか

近隣の県立博物館で開催された「加古さとし展」に行った。
私は幼少期、絵本といえば色鉛筆タッチの華やかなものばかり読んでいたので
「だるまちゃんシリーズ」や「カラスのパン屋さん」はほんのり程度にしか知らなかった。
なので、すごく新鮮な気持ちだった。この歳で加古さとしさんの絵本たちと向き合った。
数々の資料と展示も凄かった。かこさとしって朝ドラになりそう、という感想を得た。

だるまちゃんとてんぐちゃんを読んでみた

まず思ったのが

え、てんぐちゃんって落ち着いてんな…ということだ。
話の筋的に考えたらだるまちゃんが主人公だろう。他にもダルマちゃんとナントカ、などいろいろ展示で見たので主にだるまちゃん視点で読むべき物語のはずだ。

が、私はどうしてもてんぐちゃんが気になってしょうがない。

もうこれはだるまちゃんと同レベルな感じだ。カリスマ性を感じる。天狗だし、きっとカリスマだと思う、妖怪界隈で。

てんぐちゃんはこんな感じだ


メモ-61

かっこいい。もうキャラとして出来上がってるよね。
ひとつ気になる点といえば立派な髭が生えてるけど「ちゃん」呼びしていいのかな、ということだ。さん付けとかの方がいいんじゃない?(ソワソワ)

物語はこういう色々装備されたてんぐちゃんをだるまちゃんが羨むことで展開していく。だるまちゃん、シンプルもいいよ、と思うけどまあてんぐちゃんかっこいいもんね、憧れるよね。

会話の中でてんぐちゃんは嫌味っぽくもないし、かといってオドオドしているわけでもない。めちゃくちゃ落ち着いてるのだ。

例えば本文にこんな会話がある。

だるまちゃん「それなあに?」
てんぐちゃん「これはてんぐのうちわだよ」
だるまちゃん「ふーん いいものだね」

(中略)

だるまちゃんのやつでの葉っぱを見て
てんぐちゃんは「ずいぶんいいものみつけたね」
と言いました。

ずいぶんいいものみつけたね…

これは只者じゃない発言です。
この落ち着き、この貫禄。だるまちゃんに対する余裕…てんぐちゃん…

例えば真似っこされたら人ってどう反応するだろう。
大人になったらそうでもないけど、小さい頃って私はちょっと
「いやだな…」と思うタイプだった。
自分で選べばいいのに、どうして合わせてくるんだろうとか。

集団行動が苦手なことも手伝って「同じことをしたい」という気持ちがどうもムズムズしてしまう。だるまちゃん、自分をもて…とか真剣に考えてしまった。

だがてんぐちゃんはそうではなかった。
だるまちゃんのことを大きな器で受け止めている感じがすごい伝わる。

もうなんか年齢一周違う設定とかなのでは?というくらいだ。ヒゲが生えてるからそうなのかもしれない…

改めて図にして考えてみた。

メモ-62

てんぐちゃんは私から見るとこういう人に見えている。
だるまちゃんの羨望の眼差しについても特に肯定も否定もせず
受け止めるでもなく、「君はそう思うんだね」という感じだ。

で、帽子やうちわや下駄を真似してきても

自分と比較するのではなく切り離してだるまちゃんを受け止めている。
ここがてんぐちゃんのスマートなところではないだろうか。
自分は自分、相手は相手として考えるのは基本だが人が忘れがちな部分だ。
さすがてんぐちゃん。社会人経験でもあるんだろうか。

メモ-63

もし仮に、だるまちゃんの意見にてんぐちゃんが反応したとしよう

だるまちゃんのことなのできっと上のような展開が待っているに違いない。
※だるまちゃんの肯定力の低さは個人の見解です、ご了承ください。

人の気持ちはコントロールできない。表面上での事象と気持ちはまた別物だ。
事象を受けて「こう思ってるかもしれない」というのも危ないジャッジだ。

最も危険なのは「ジャッジが正しい」と思い込んでしまっていることだ。
あくまでも自分の中の判断であり、相手はそうじゃないかもしれない。
その可能性の部分を切り捨てると思い込みは加速しがちだ。

メモ-64

じゃあだるまちゃんはどうすればいいのか

考えて図にしてみた。だるまちゃんに必要なのは「自己と向き合う」ことだ。

てんぐちゃんの持ち物や鼻のフォルムに憧れるのは自由だ。が、その根底にはだるまちゃんが自覚していない欲求が埋まっているに違いない。
相手から何かを略奪したり、模倣することである程度の欲は解消されるがそもそもの原因を突き止められていないのでまた同じような欲、もしくはエスカレートした欲が沸いてしまう。

実際に物語でもだるまちゃんはどんどんエスカレートしていく…
こう表現するとものすごくだるまちゃんが怖い人物に思えてくるけれどあくまでも個人の見解です。

だるまちゃん、解決の糸口は自分と向き合うことにあるのだ。人と何が違うか、自分はそれをどう受け止めているかを考えるのが大切だ。だるまちゃん、君には暖かな家庭があるじゃないか‥忘れないで君は一人じゃない…

※そんな重たい話ではない。

では仮にだるまちゃんを「自己否定」キャラ、てんぐちゃんは「自己肯定」キャラとしよう。

メモ-65

まずてんぐちゃん。てんぐちゃんは自分も肯定しているので、だるまちゃんが例えどうあろうともなんとも感じない。

もしだるまちゃんが帽子を真似してきても、肯定してる自分と同一なので
評価は同じだ。肯定し、いいよねーその帽子。だるまちゃん似合ってるー!

と本心から喜べる。例はわかりやすく帽子にしたが、装飾だけではなく行動や生き方についても同じだろう。

メモ-66

もしだるまちゃんが自己否定キャラだったら。書いてて辛いな。例えばです。

自分を否定的に見てるので、もし仮にだるまちゃんを良いと思ったてんぐちゃんが真似っこしてきたとしよう。

だるまちゃんは自分を肯定できてないので「だるまちゃんを真似たてんぐちゃん」
も肯定することができない。自分を否定する方が「正しい」と感じているからだ。
自分を認知する方法が否定なので、真似する=肯定する、というてんぐちゃんの行動に疑念を抱くだろう。どうしようもない自分を褒められてもソワソワしてなんだか居心地が悪い、とか。

メモ-67

ここでさらに面倒なのは「否定してくる人」はだるまちゃん自身「肯定できる」ことだ。例えば、だるまちゃんが全然自分のことを知りもしない人から「否定」されたとしよう。

だるまちゃんは「自分を否定すること」を「肯定」「正しい」としているので相手の「否定的な意見」について「共感」してしまう。
自分と同じベクトルを向いてる人であれば、納得してしまうのだ。
そうだよね、やっぱり、とふに落ちやすい。

結局自己否定の渦からは抜け出すどころかより加速してしまう。

だるまちゃん、結局は自分なんだよ…?

終わりに

ここまで深く考えるとは自分でも思っていなかった。
とにかくてんぐちゃんの返しがスマートで感動したのだ。
だるまちゃんをほめこそすれ、自分と比較したり見下したりはしない。

てんぐちゃんは自分の良さも、そしてだるまちゃんの良さもわかっているから。

自己肯定する人は自分も、そして周りの人も満たしてくれる。
てんぐちゃん、まっすぐ生きてくれてありがとう。そしてだるまちゃんのお友達でいてくれてありがとう…感謝の気持ちが湧いた。

だるまちゃんも最初はてんぐちゃんの真似っこをするが、

真似っこをする自分をも包み込み、肯定してくれるてんぐちゃんがいるのだ。

きっとてんぐちゃんみたいに「自分を自分として肯定してくれる人」がそばにいればもう真似っこしなくても良くなるのだろう。そんな気がする。

作品のオチもすごく良かった。

私だったらてんぐちゃんが悔しくなったり、怒ったり、だるまちゃんの真似っこをしようと自分の鼻に熱い餅を練りつけて大火傷するみたいな展開にしそう。

さらっと終わるのもこの作品の後味の良さだ。
長くなってしまったが、てんぐちゃんみたいな筋の通った人になれるよう
日々修行を積もうと思う。鞍馬山とかで。

おしまい


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