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Gutsヒロのスイーツ・ストーリー「敗者復活戦:新たなスタートラインへ篇」

こんにちは、Gutsヒロです。「Gutsヒロのスイーツ・ストーリー」へようこそ!私のnoteに来ていただきましてありがとうございます!この記事を見た方には興味を持って頂ければ幸いです。

私は沢山の人のおかげで調理師専門学校を無事卒業することができました。
しかし、そもそも入学すること、入学したいというものは私にとって大きな決断でした。入学する前の私はボロボロの人生でした。20代の間全て注いできた料理を諦めるしかないのか。そして・・・あるきっかけで私は本当に料理を諦める覚悟をします。それは料理の職業という環境で発生した病の手術でした。
しかし、私は「ある人」と出会い、人生が大きく変わることになります。それは、人生を決断する大きな出会いでした。



フランス料理の夢、そして厨房の試練

朝8時半ごろ、私は車の運転で、いつもの駅前の交差点でUターンするところです。今、働いている人気フレンチレストランに出勤するところです。9時までに行けばいいので十分に間に合うのでいつも通りの朝だった。

いつも通りというと、この時間のこの交差点には、スーツを着た学生が何十人も交差点待ちをしている。しかし、私は彼らを知っている。彼らは私の地方ではトップクラスの調理師専門学校の生徒だった。彼らは高校を卒業して専門学校に入った「優等生」だった。私みたいなアルバイトのようなものを転々とし、チャンスも期待もない落ちこぼれとは大違いの人達だ。彼らは学校で技術や知識やその他にも沢山学んで料理人になる希望と夢が溢れた存在だった。悔しいが私は、自分は自分の道を必死にやっていくしかない。何がなんであろうと食らいつき彼らに劣らない結果を出せばいいんだ!そう思ってやっていた矢先に私に悲劇が起こる。


私は、半年の接客をやり遂げてやっとのことで厨房の仕事をやらせてもらえることになった。一生懸命やった甲斐があった!やっと一歩踏み出せた!そんな気持ちでいっぱいだった。しかし、レストランに2人の従業員が新しく入ることになった。
その2人はあの調理師専門学校に通う生徒だった。学校が終わったらアルバイトするということで入ったらしい。そして、オーナーシェフに言われました。

「ヒロ。また接客頼むわ」

シェフは半年かけてやっとポジションと仕事を得られた私から、まだ10代で学校に行ってる彼らにあっさりポジションと仕事を与えた。あまりにもあっさりだった。私の半年の苦労はなんだったのだろうと思いました。
しかし、シェフの思惑は一理ある。彼らは私なんかより、将来性も希望も夢をたくさんあること。期待されることが天地の差だった。私はハイと返事して接客に回った。

ある時に、学生の1人のモーちゃんから声をかけられた。

「ヒロさん、ガトーショコラ作れますか?」

彼女は製菓コースの生徒である。シェフからのテストでガトーショコラを作られているとのことだった。しかし、教えてくれたのが材料の分量のみで作れないから私に作り方を知っているか聞いてきたのだ。私は、そのレシピを見て、あの有名な代官山の店のレシピと一目で分かったし、作り方も熟知していた。そのぐらい有名なレシピだった。私は知っていることを全て教えてあげた。

しかし、モーちゃんはお菓子のことがまだ初心者だった。ガトーショコラは卵黄とチョコなど入ったアパレイユとメレンゲを合わせて焼くお菓子なのだが、モーちゃんは、

「アパレイユってなんですか?」

という。おまけにわざわざ卓上ミキサーを使って大掛かりで作り始めようとしていた。(1台しか作らないのに)出来上がるなら何でも大丈夫かと思ったら、彼女は問題行動をしようとした。アパレイユが仕上がり、別のボウルに入れて湯煎で固くならないようにしたのはよかった。しかし、卓上ミキサーのボウルにはアパレイユがまだベトベトついている、そこに卵白を入れて泡立てるというのだ。メレンゲは、卵黄やチョコといった油分があると卵白は絶対にメレンゲにならない。私はストップと言い、ボウルを洗うように言った。彼女は洗浄機で洗い始めた。私は私の仕事があるので付きっきりでは教えれない状態だった。彼女は無事メレンゲを泡立てたのだろうか、見にいくと手順が早いと思った。私はボウルに手で触れた。熱々のボウルだった。洗浄機で洗ったものは70度を超えるもので、熱いところに卵白を入れて泡立てても力の弱いメレンゲにしかならない。彼女に説明したが、彼女はふわふわのメレンゲにグラニュー糖を3回に分けて入れるというよくあるやり方でメレンゲを作ろうとしていた。私は、そのメレンゲだと失敗すると思ったので、

「モーちゃん、チョコの入ったあの固いアパレイユ(湯煎はしているが)とメレンゲを丁寧に混ぜてメレンゲ潰さないように混ぜれる?」

と言った。失敗することがプレッシャーになったのか、自信を無くしたモーちゃんに私はアドバイスした。

「メレンゲが泡立つ前に(もう泡立ってるが)にグラニュー糖を全部入れた方がいいよ。」

グラニュー糖を早いうちに全部入れるとメレンゲは泡立ちが大きくならず悪くなる。しかし、しっとりのようなねっとりというのか、細かい強い泡ができるのでそのアドバイスしたのだった。それは泡が細かく強いメレンゲができたらガトーショコラの固いアパレイユと混ぜてもダメージが少なく合わせれるからだった、もちろん作り手がどんなテクスチャーにしたいかによるがフワフワの強いメレンゲができてそれがうまく混ざればフワフワのようなガトーショコラはできる。しかし、今回のモーちゃんが作るガトーショコラは、卵白を冷やす時間がないらしいので私の教えた通りにやってもらい、ミキサーでメレンゲのキメを整えてる間に、アパレイユにもう一度熱を入れて柔らかくすることを更にアドバイスした。

そして、あれよこれよで彼女は無事にガトーショコラを作り上げ、シェフも味はともかく、テクスチャーも問題ないようだった。モーちゃんはテストを無事クリアしてレストランのデザートのポジションを確定するのであった。
しかし、そのデザートのポジションは元々は私がやってたポジションで、モーちゃんに託すことになってしまい、私は自分で墓穴を掘ったのであった。



心の戦い

その後、モーちゃんと、もう1人の調理師専門学校のアルバイトは、二年生になりレストランのアルバイトに入る回数が減った。彼らの穴埋めは私がやった。嬉しかった反面、とても複雑だった。私は彼らを応援したいと心から思っていたし、協力しないといけない立場だったのはわかっていた。しかし、その関係は経験のある私より、将来の期待値のある彼らの方が優先的で立場が彼らの方が上だったことに、私はその現実を認めたり受け入れるのが苦しいことが度々あった。

私は調理師専門学校の2人がいるときは、ホールの接客作業、いない時は調理の仕事をした。覚えることが2倍だったからとにかく大変な日々だった。シェフのメニューは2週間に1度ガラッと変わるし、イベントも盛り沢山だったからついていくのに必死だった。その他にも、厨房ではみんなが帰った後、1人になっても残業を0時近くまでいてステンレスのダクトや壁を鏡みたいに磨いたり、水垢を取り、油の濡れも全て磨き上げて落とした。

しかし、このレストランに勤めてからある問題が起きる。腰が痛いのだ。車の運転の振動が1番痛くて汗が出るほどだった。
働いてようやく定着して自分のポジションを改めて作れた時だった。この日は20人以上の立食の飲み放題のパーティーだった。飲み放題のコーナーは楽しめるようにセッティングした。料理もたくさんあって手伝いをして予約時間に間に合うようフォローもした。
すごく動いたせいなのか腰が痛み出した。この痛みはある時とない時があってこの日は特に痛かった。しかし、イベントが始まって使用済みの食器を片付けたり、洗ったり、そして補充し、料理も無限のように出された。私はとうとう腰が痛すぎて裏の部屋に倒れた。オーナーの奥様に「どうした」と言われたが腰が痛いなんて言えなかった。腰が痛い程度でこれからの仕事に支障が出たら嫌だったから言い訳できなかった。
しかし、痛くて動けず、どうしようもなかった。しかし、イベントは続行している。少し戻ったが無理で裏部屋に戻った。ホールでは奥様が1人でやっているのに私は自分の不甲斐なさに涙した。私の腰のことは言えなかったが、モーちゃんとかみんながホールに出てやっているのがわかった。シェフから「もう帰れ!」と言われた。私はやっとの思いで得られたポジションを自滅で失ったと思った。私は涙し
ながら帰宅したのを今でもよく覚えている。



情熱の灯火が失った日


私は次の日、腰の痛みは無くなっていた。不思議で仕方なかった。転げ回るほど痛かったあの痛みは何だったのか。

私はとにかく、地元で評判の接骨院に行った。先生はどこが痛いんですか、どうすると痛いんですか、と私の腰を色々試して検査する。しかし、痛みがないので私も先生も困った。すると先生が、

「これは筋肉や骨じゃない。紹介状出すからレントゲンをとってきなさい。」

と言われたので私はそこの病院にいった。しかし、レントゲンには何も写ってないという。私は改めて接骨院で治療を求めた。しかし、接骨院の先生は今度は大きな病院の紹介状を書いてくれてもう一度見た方がいいという。

そして、検査するとレントゲンに影が写ったのである。


私は胆嚢の中に胆石ができたことが判明した。検査した先生から
「日頃、脂っこいものやカロリー多いものを食べていますか?」

と聞かれた。私はフランス料理や洋食の調理の仕事をしているから、普通の人より食べていると言った。先生は納得したように私に、

「すぐに手術しなさい。この胆石は癌になる可能性があります。そして胆嚢を取るから今後の仕事の改善をしなさい。」

と言われたのである。私はショックだった。命懸けでやっていた仕事がこんな結末になるなんて・・・。

私は、事情を言わずレストランを去った。自分の問題だったから理由つけて辞めるのは逃げているように思えたからだ。それから、言えなかった理由が、虚しすぎて泣いてしまうからだった。

20代の長い間やってきたフランス料理、洋食の仕事ができなくなった私は空っぽだった。家にいても何をするわけでも何をしたいわけでもなく途方に暮れていた。料理一筋だった私は、胆嚢を切ってから抜け殻になってしまった。

精神科の先生にもう料理は諦めなさい、もうあなたは無理です。といわれても逆らって料理の仕事を探した。しかし、ハローワークは資格もない、実績もない、おまけに仕事で入院した私に料理の仕事は一切紹介しなかった。私は四カ所のハローワークを駆け巡った。しかし、どこも紹介してくれなかった。挙句に紹介されたのは、と畜の仕事だった。肉を捌く勉強になるからと。と畜の仕事は悪いわけじゃない。私は、料理をしたいのだ、料理を覚えたいのだ。料理に人生をかけてやってきたのにハローワークでは微塵も評価されなかったのが虚しすぎてとにかく辛かった。
そして、NPOや色んな支援団体を巡って今回のフレンチレストランの店の仕事が決まった。仕事が決まったと言っても就職する条件として、1ヶ月無給で体験として働くこと、そして半年間接客でホールで働いたら料理をやらせてあげるという内容だった。それでも私はチャンスだと思って飛び込んだ。そして、1ヶ月無給の仕事、半年間の接客業をやり抜き通した。過去のトラウマやフラッシュバックにも耐えて死ぬ気でやった。ポジションを取られることもあったが着実に進んでいた矢先での手術だった。

先生から「手術だから死ぬかもしれない。」「胆嚢切ったら料理は辞めなさい。」

この言葉はさすがの私でも、もう突き進む勇気と力はなかった。それほどショックで痛ましいことだった。


奇跡の人生の岐路

私の20代の人生はなんだったのだろうか。得られたものは僅かで失ったものは多かった。死ぬほど働いて入院するほど頑張っても報われないことを知った。

しかし、次に何をすればいいのだろう?何を希望に生きていけばいいのだろう?

そんな時間を彷徨う日々を過ごしていた。

その年は残暑が長かった。気晴らしに田舎までドライブをして涼しみに触れようと思って滝に行った。その小さな2〜3mの滝は目の前まで行けてマイナスイオンをいっぱい浴びることができた。嫌な気持ちが晴れるぐらい気持ちがよかった。滝の目の前にあるベンチに座ってしばらくいた。
すると観光客が来たので私は去ることにした。けど、滝の「ざーっ」という永遠と続く音が居心地が良かった。お金はそれほどなかったが滝の目の前で経営しているカフェに入った。カウンター席にも滝の音が聞こえて癒された。私はお金がなかったので一杯のコーヒーを注文した。サイフォン式のコーヒーをマスターが手際よく作っている。コーヒーを作っている手際を見るのは楽しい。職業病かなと思った。
するとマスターが、

「どちらからきたんですか?」

と聞いてきた。私は住んでいる場所を言った。するとマスターが続いて、

「仕事は何してるんですか?」

と聞く。これには参ったなと思ったが「無職です」と答えた。するとマスターが

「前はどんな仕事をしていたんですか?」

と聞く。余計に参ったなと思ったが「料理人です」と答えた。そうですか、とマスターは満足したように頷いていた。私が料理人だったことを知るとマスターは親しげに話をしてくれた。そして、ついつい今までのことを話してしまった。手術して料理を諦めて次に何の仕事するか迷ってることを話した。マスターは暇じゃないだろうに、私の話を聞いてくれた。


そして、私に驚く意外なことを言う。



「お兄さん、料理やりたいんだろう?」


私は思いがけないことだったし、忘れようとしていたことだったが言われて数秒後に図星だったことを理解した。マスターは更に

「俺の息子も行ったんだが、〇〇調理師専門学校に行ったらどうだろうか?

と言うのだ。私は驚いた。あのフレンチレストランの出勤時に毎日見ていたスーツを着た「優等生」の彼らの学校のことだった。そして、マスターは私の運命を変える言葉を言った。

「お兄さん。今、料理辞めたら死ぬほど後悔するぞ。人生一度きりだ。やれるのは今だけだぞ!」


私の心臓は大きくドクンと鳴った。



あとがき

この物語を読んでくださり、心から感謝申し上げます。私の人生には試練や挫折がありましたが、それらが新たな道へ導くきっかけとなりました。この物語は、途中で諦めずに夢に向かって進むことの重要性を示すものです。

挫折や健康の問題に立ち向かう事は容易ではありませんが、その過程で私は勇気と希望を見つけました。何よりも、料理への情熱が私を励まし、新たなスタートラインに立たせてくれました。

私の経験から、人生の途中で夢や情熱を諦めず、新たな可能性を追求し続けることの大切さをみなさんに伝えたいと思っています。夢に向かって一歩踏み出すことが、素晴らしい冒険かもしれません。
この物語を読んでくださり、私の人生の一部を共有してくれたことに感謝の意を表します。皆さんの人生も、夢を追いかける勇気と希望で満ち溢れていますように。

最後に、今回のテーマ「スタートライン」ですが、私は元力士の稀勢の里さんのファンでした。彼は横綱になるものの怪我がとても多く苦しんでいました。稀勢の里さんを応援したのはボロボロの姿でも立ち向かう姿勢がかっこよかったからです。そして、その稀勢の里さんが現役時代に励みに聞いていたと言う曲が、「馬場俊英」さんの曲「スタートライン〜新しい風〜」でした。この曲は私が学生になった頃にとても励みになる曲でした。本当にありがたい曲ですし今でも私の応援歌の1つです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

Gutsヒロ

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最後まで読んで頂きましてありがとうございました!とても嬉しいです♪ これから更新して頑張って参りたいと思いますので今後とも宜しくお願い致します!