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【おはなし】街灯の町

 夜の空気は澄んでいて、冴えた空が膨らんでいました。

不安定な地面を、私は転びそうになりながら歩いていました。風が流れて、草の匂いがします。辺りには、私の呼吸の音だけが聞こえています。

 広場にある街灯に近づくと、根元のベンチにはすでに誰かが座っていました。
 「こんばんは」
 私はおそるおそる話しかけます。
 「こんばんは」
 「何を、してるんですか」
 この時間にこの場所で人と会うのは、初めての事でした。少し距離を取ったまま、私は尋ねました。
 「本を、読んでるんだ」
 その人がこちらを見ずに言いました。
 「こんな夜中に?」
 「昼間は廃棄場が騒がしくて落ち着かないからね」
 「ああ、今日は特にね」
 確かに、この辺りで落ち着いて本が読めるのは、この時間の、この場所だけてした。息を吸い込むと、冷たい空気が胸を冷やします。ほっとしました。周囲はあまりにも静かでした。

 「君の方は、何でこんな所にいるの?」
 控えめな声が聞こえてきました。顔は影になってよく見えませんでした。
 「ええと、それはね」
 夜に佇んでいるこの街灯に、私には私だけの目的があります。私は慌てて手に持っている物を見せました。
 「珍しいものを持ってるね」
 読んでいた本から顔を上げてその人が言いました。
 「久しぶりに本物を見たけど、ここで受信できるの?」
 「まぁ、見ててよ」

 私は携帯ラジオのスイッチを入れました。
 初めにサァというノイズが流れました。左手にラジオを持ち替えて、そのまま右手で街灯の柱を触ります。錆びてざらざらした感触が右手の指に伝わってきます。ラジオから聞こえる音が一瞬、小さくなりました。その直後、ノイズに混じって、微かに歌が聞こえてきました。
 「この柱に触ってると、音がよく聞こえるの」

 少しつまみを調整します。聞こえてきたのは、弾みながら転がっていくような、軽快な音楽でした。
 「ラジオの放送局なんてもうどこも閉鎖されてると思ってたけど、そうじゃないんだね」
 関心した様子でその人が言いました。
 「街灯がうまくアンテナの役割をしてるのかな」
 「ここで聞いてても、いいかな」
 「もちろん」
 かつてラジオや電気機器やそういったものが溢れていた時代もあったと、記録には載っていましたが、そんな時代は私には想像もつきません。
 「楽しい曲だね」
 その人は気にせず本の続きを読み始めました。
 私もその人も何も言いませんでした。街灯の明かりは、暗闇からこの場所を切り取っているようでした。夜は更けていきます。

 「そろそろ曲が終わるね」
 「さて、僕もそろそろ帰るよ。会えてよかった」
 その人が本に栞を挟んで立ち上がりました。地面に濃い影ができます。ラジオのノイズが少し大きくなりました。
 「あの、また」
 思わず右手を街灯の柱から離してしまうと、ラジオから聞こえていた音楽は、サァという音に完全に埋もれてしまいました。
 「また、会えるかな」
 歩いて行こうとする影が動きを止めました。
 「もちろん。またここに」
 その人が振り返ってにっこりと笑いました。

 私とその人は、そんなふうにして友達になりました。

ーーー

 世界が終わってから、だいたい100年か200年が経ちました。
 『世界』というのがどこを指すのか、『終わった』というのがどういう事を言っているのか、私にはよく分かりません。ただ記録にはそう書いてあるようでした。

 いくつかの国が大きな喧嘩をしたとも言われているし、隕石が落ちてきたとも言われています。本当の事は誰にも分かりません。
 人類の高度な文明が機能を停止してから、この世界は緩やかに衰退していきました。

 私が居るこの世界は、終わった後の世界なのだといいます。

 私達が棲家としているツギハギだらけの建物たち。記録によればここは人の多く住む場所だったといいますが、そんなのはずっと昔の話でした。
 建物や道は何十年もの間、補強と補修を繰り返し、壁には穴が空き柱は傾き、元の面影は殆どありません。ここはそんな建物が寄せ集まった、がれきの町でした。

 町から酉の方角にある、大きながれきが散らばる道をしばらく抜けると、緑に覆われた見晴らしの良い広場に出ることができます。広い空を遠くまで見渡せるその場所は、晴れた日には太陽の光がよく当たり、風が吹くと長い草が一斉に揺れてさらさらと音を立てます。

 地面には所々に、かつての洗練された建物や石の像や人工物の残骸が横たわっていました。しかし今では草が根を張り、徐々に分解されていくのを待つだけの土地になっています。

 その広場の中央に、街灯が一本立っていました。草原の中に街灯がまっすぐに立っている光景は、少しちぐはぐでもあるけど、見方を変えれば細くて長い木のようにも見えます。実際、子供たちの中には、それを変わった樹木だと思っている奴らもいるようでした。
 黒く錆びてしまったその街灯は、奇跡的に今も生きています。夜になるとぼんやりと光を灯し、たまにかちかちと点滅し、忘れられた土地を見守るように立っていました。

 その日の最初の星が見える頃に、私は町を抜け出して街灯の広場に行きます。

 街灯の根元にはベンチがあって、その人はいつもそこに座って本を読んでいます。私を見つけると彼は何も言わずに片側を空けてくれました。彼は名前をグレといいました。
 
 「僕は修理屋をやっていてね」
 ある日の夜、グレが教えてくれました。
 「廃棄場から使えそうな物を拾ってきて、また使えるように直すんだ」

 低くて不穏な音を立てて一日に何度か、十台程度の大型のトラックが、荷物を乗せて町の反対側の廃棄場にやって来ます。
 どこからか運ばれてくる廃棄物はけたたましい音をたてて捨てられていき、前が見えない程の砂埃が舞います。その砂埃は町や建物を、少しずつ暗い色にしていきました。

 誰があの廃棄物を運んでいるのかは分かりません。そのうち廃棄物は山のようになって、この町を見下ろすほど膨大になりました。町の空気がどこが薄汚れているのは、そのせいでした。

 「玩具とか自転車とか電気製品とか洋服とか、少し手を加えればまた使えそうな物も、廃棄場にまだ幾らかは残ってるんだ」
 影になった顔でグレが言いました。
 同じく修理屋をしていた私の祖父の姿と重なります。

 「廃棄場に出掛けた帰りなんかは、手のひらとか顔が茶色く汚れていたりしてさ、そういう時、僕もこの町の汚れの一部になったような感覚になるんだよね」
 ラジオからザァとノイズが聞こえました。この街灯も、もうずっと錆びてぼろぼろでした。右手で表面をなぞると、触れた部分が少し崩れます。もう少し強く触ったら、さらに崩れてしまうでしょう。

 「物を修理してあげると町のみんなは喜んでくれる。それは結構嬉しい気もするんだ。だけど」
 少し肩を落としてグレが言いました。
 「だけど?」
 「それにさ、その、何か意味があると思う?」
 「意味?」
 「いや、ごめん、何でもないんだ」
 私は返事をせずに、続きを促しました。
 「ええと、そうだな、つまり修理した物だってまたいつか壊れて本当のごみになっちゃうだろ」
 「そうね」
 「その、だから」
 そこでグレは言葉を切って、しばらく考え込みました。
 「この世界で物を修理する、僕自身の価値はどのくらいあるんだろうか」
 グレが遠慮がちな声で続けました。
 「この街灯だってじきに使えなくなる。世界から少しずつ、何もかも無くなっていくんだ」
 そう呟くのと同時に、街灯の明かりが明滅しました。少しグレの姿が見えにくくなりました。そのまま消えてしまうんじゃないかと思いましたが、光はまだなんとか明るさを保っていました。

 「そうやって少し、不安になる時があるよ」
 グレが言いました。
 「そっか」
 この世界の『物』の総量は決まっています。壊れたものを修理して、壊れて、また修理して、壊れて、それを繰り返していった先は、果たして閉塞した未来なんでしょうか。

 「価値なんてあっても無くても別に良いと思うけど」
 私は祖父の事を思い出していました。
 「私達は今、ここで生きてるんだから」
 未来の事を不安に思うのも、過去の事を悔やむのも、今を生きている人の権利。それはそれで、随分と価値のある事じゃ無いでしょうか。

 グレは何も言いませんでした。ラジオからはまた、転がるような音楽が聞こえていました。

ーーー

 初めてラジオのスイッチを入れた時に流れてきた音楽を、多分私は一生忘れません。それは私がいちばん最初に知った感動でした。私は毎日、祖父と一緒にラジオで音楽を聞き続けました。

 ラジオをつけると常にずっと音楽が流れています。知らない言葉の曲の時もあれば、メロディだけの時もありました。

 ラジオの仕組みも祖父が教えてくれました。
流れてくる音楽の種類、町の外にもコミュニティがある事、かつてこの場所に住んでいたという喋るミミズクの話、夜が揮発性を帯びている事、空のずっと上にも広い空間がある事。祖父は色々な話をしてくれました。にこにこしながら穏やかな声で話す彼の事が、私は好きでした。

 「町の外のどこかにラジオの基地局があってね、そこから音楽が電波になって飛んで来るんだって」
 いつものように街灯の下で音楽を聞いていた時の事でした。祖父に教えてもらった話をグレに披露していました。
 「グレは、町の外って行ったことある?」
 「ううん」
 「どうなってるんだろうね」
 「さぁ、考えた事もないな」
 「行ってみたいと思う?」
 「うーん、どうだろう」
 ノイズは前よりも大きくなっていましたが、音楽はかろうじて聞こえています。ゆったりとした、流れるような曲でした。この曲にも、私が触れている街灯も、いつかそれを作った人がいるはずです。会えもしないその人達に想いを馳せると、視界も世界も幾らか深度を増していくような気がします。
 「街灯の明かりが消えたら、グレはもうここには来ない?」
 私は尋ねました。
 「君は?ラジオの電池が切れたら、もう来ない?」
 反対にグレが尋ねてきました。どうだろう。私は考えました。

ーーー

 祖父が亡くなってから、眠れなくなりました。
 それが、私がここに来る本当の目的でした。

 目を閉じて暗闇に沈んでいくのも、そのまま知らない明日を待つのも、閉塞した世界も、全部が怖かったのです。
 眠ってしまったらもう二度と目を覚まさないかもしれない。暗闇が私を引きずって、どこかへ連れて行ってしまうかもしれない。

 そんな事を考えるようになったのは、或いは私が居るこの世界のせいでしょうか。
 私は夜の暗さから、少しでも逃げなければいけない。祖父のいなくなったこの世界を、一人で。


 「ラジオの電池が切れても、街灯が消えても、私はまたここに来ると思う」
 「どうして?」
 「ラジオで音楽を聞くのが、好きなの。街灯と手を繋ぐたびに、思い出せる事があるから」
 何度でも聞きたかった。穏やかで掠れた、がさがさの祖父の声。隙だらけで呆気なく生きていた人だったけど、廃棄場に向かう時は、やたら颯爽としていたものでした。廃棄場で古いラジオを見つけた時の、好奇心を隠そうともしないしわしわの顔。

 「だから、私はここに来るよ」
 俯いたまま言いました。鼻の奥がつんとします。街灯が瞬きました。明かりはさっきよりも少し暗くなったみたいでした。

 「じゃあ、僕も来るよ」
 グレが言いました。
 「街灯の光が無くなっても?」
 「街灯の明かりが消えても、ラジオが聞こえなくても」
 「どうして?」
 「そりゃあ」
 続きを言う前にグレがすぅと息を吸いこみました。
 「暗い夜に、君が一人じゃなくていいように」
 目を合わせないままグレが言いました。その言葉が私の、首の下の方にふんわりと膨らんでいき、そこを中心として体温が上がっていきます。流れていた前の曲が終わり、静かな出だしの曲が始まりました。
 「僕達は何となく似てる気がするよ」
 思わず街灯に触れている手を強く握り直しました。表面が錆で粗くなっていて、親指の付け根が痛くなりました。音楽に、ノイズが走ります。

 ざらついた音楽と少しの風と草と地面の匂いを伴って、ただただ穏やかな夜が流れていました。

ーーー

 夜の空気は澄んでいて、冴えた暗い空が広がっていました。

 街灯をアンテナ代わりにして、いつものように流れてくる音楽を聞いていると、上から降る光が今までに無いくらい明るくなりました。驚いてグレを見ると、彼も眉を上げてこちらを見ていました。

 そのあとジィィという聞きなれない音を立てたあと、明かりが急激に萎んでいきます。呆気なく光は小さくなっていき、気付いた時には周囲と夜空との境目が無くなっていました。

 グレが空を見上げました。つられて私も上を見ました。目の前に星がありました。嘘みたいに近くにあります。街灯が消えたせいで、それらの粒は質感が分かりそうなほど、くっきりと光って見えました。手を伸ばせば簡単に掴めそうなくらい。

 私はそのまま夜空に見惚れていました。目が慣れてくると、辺りは私が思っていたよりも明るいことが分かりました。街灯の光が照らしていたのは、私達の周りのごく僅かな場所だけだったんだと気づきました。
 グレも同じ事を考えていたようで、辺りを見渡しながら、照れたように微笑みました。

 「無くなっていく物も多いけど、ずっと変わらない物もあるよ」
 ノイズが多くなったラジオの音は、止まりそうでなかなか止まりません。グレが目を閉じて、私も目を閉じました。

 世界も街灯もラジオも壊れていくから、この時間を大事にしようと思いました。


 この街灯が、私と世界を結んでいる限り。


おしまい

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