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一家庭教師の視点から、アウグスティヌスの教育論を読み解く

これまで中学受験指導専門の家庭教師として、百名弱の生徒を個別で指導してきました。

大手塾の詰め込み教育のシステムに疲弊した結果、家庭教師のご依頼をいただき、「この子たちに勉強の楽しさを知ってもらうにはどうしたらいいだろうか?」と苦心する中で、自分なりに練り上げてきた「教育論」みたいなものがありました。

今回、アウグスティヌスの教育哲学に触れる機会があり、自分の抱いていた考えと共鳴する部分が多かったので、ご紹介させていただきます。

教師は教えることができるか?

アウグスティヌスはまず、「教師は教えることができるか?」という問いに対して、「できない」と答えます。

「教師は生徒に対して、何一つとして教えることはできない。」

この前提に、私は強く同意します。

例えば、小学生の生徒に近畿地方の地理について「教える」とします。
ここでいう「教える」とは、近畿地方の地形や河川、工業都市などについて、ただこちらが持っている知識=「記号」を生徒の頭脳の中に流し込もうとするイメージです。

しかし、「さあ、これで覚えただろう」と思って、1日後に小テストをしてみてください。

その子は99%の内容を忘れているはずです。

たとえものすごく吸収の良い子であっても、この程度の詰め込みしか行っていない場合は、テストで同じ内容について少しでも角度を変えて聞かれるとまったく答えられず、白紙の答案を提出して帰ってきます。

私自身、何度このサイクルに絶望させられたか、数え切れません。

記号が示されたとき、我々はその記号が記号としての役割を果たしているところのものを知っているか、知っていないかのいずれかである。もし、知っていないなら、記号は何も教えてはくれていないし、雑音としてしか耳に響かない。記号が示すものをあらかじめ知っている時、その記号が何の記号であるかを知るとすれば、その時もその記号は何らの(新しい)知識を伝えてくれていないことになる。

アウグスティヌス「告白」

つまり、生徒は、「すでに知っている」ことは知っているし、「知らない」ことは教師からいくら説明されても理解不能なのです。

特に小学生は、この傾向が顕著です。

教師の本当の仕事とは?

では、教師の存在は無意味なのでしょうか?

いえ、実際には多くの生徒が、確実に教師から何かしらを学び取って成長していきます。では、彼らはどのように学んでいるのでしょうか?

教師の言葉を聞いた時、散乱の状態にある記憶を再び寄せ集め、まとめ上げて、認識にもたらすのだ。

アウグスティヌス「告白」

ここでもう一度、小学生に「近畿地方の地理」について教えることを考えてみます。

例えばその子が小さい頃から大阪に住んでいるとします。しかしその子は自分が日本地図の中の「近畿地方」に住んでいるとは認識していなかったかもしれません。そして、たとえ「関西国際空港」を利用したことがあるとしても、それが日本の輸出入において重要な役割をになっているという発想に至ったことがなかったかもしれません。たとえ幼い頃に、親が「阪神淡路大震災」についてのニュースに反応しているのを耳にした経験があっても、その時に聞いた会話の内容は、彼の潜在意識下に沈んでしまっているかもしれません。

大阪に住んでいる小学生であれば、「大阪府」「関西国際空港」「阪神淡路大震災」、これらのキーワードを過去の人生の中で少なかわず耳にし、そして自分の五感を通して何かしらの関わりを持っているはずです。しかしそれらの経験は、未だ彼の中で「知識」として結晶化してはいないのです。

アウグスティヌスによれば、教師の役割とは、これらの断片をつなぎ合わせる「凝結核」を提供し、結晶化を促す触媒となることにほかなりません。

教師の言葉は所詮「塵」程度の役割を果たすに過ぎませんが、それをきっかけに生徒自身の頭の中で、断片として浮遊していた過去の経験が、「知識」という形をとって、認識の光のもとに実在化するのです。

言葉はただ我々が事柄を探求するように注意を促しはするが、我々がそれを認識するようにはそれを示しはしないということだ。

アウグスティヌス「告白」

つまり、たとえ小学生であっても、いや、小学生であるほど、「知らないこと」を教え込むことは不可能なのです。

中学生以降であれば、教師が言ったことをなんとなく自分の頭の中で過去の自分の経験と照らし合わせて考え、ただの「記号」を「知識」として吸収することもできるかもしれません。

しかし、小学生となると、よっぽど成熟した知性の持ち主でない限り、それを自ら行うことはできません。もしできるとしたら、幼い頃に両親のどちらかがそのような「教師」としての後ろ姿を示してきたからこそに違いないのです。

私を育ててくれた母の口癖

私の母は教師を志して教育学部を出た後に専業主婦になり、私を含め3人の兄弟(うち二人は東大に合格)を育て上げてきました。だから家には教育についての本ばかりでしたが、その母がいつも口癖のように言っていた言葉があります。

「Education(教育)」の語源は、ラテン語の「Educare(引き出す)」なんだよ。

母の言葉

この言葉通り、母は一切の「押しつけ」をしませんでした。常に、絵本や児童書、図鑑などの知的好奇心を「触発させる」ものを意識的に私たちの周りにおいてはいましたが、「勉強しなさい」という言葉を面と向かって口にしたり、何かについて上から教えたりするようなことが一度たりともなかったのです。

幼少期の教育のあるべき姿とは

本当の教育がこのようにしてしか行われないという認識から照らして考えると、幼稚園から小学校低学年においてすべきことは明らかです。

それは、徹底的に「具体的な経験」を積ませることです。カブトムシを取りに行かせたり、いろいろな場所に旅行したり、お絵かきをしたり、料理をしたり…。私が教えてきた生徒の中で、短期間でびっくりするような成績上昇を経験するのは、例外なく、こうした経験が豊富な生徒たちです。

ただし、例えば法隆寺に旅行をしながら、「ここが法隆寺で、法隆寺の歴史はこうで、」と説明する必要はありません。子供はただ、法隆寺の空気を、手触りを、匂いを、膨大な情報として無意識下に蓄積していくのです。それらの具体的な経験に「知識」としての枠組みを与える必要はないのです。

それらの経験が膨大に蓄積された子が、正しい教育を行ってくれる教師のもとで学べば、自然と結晶化が促され、短期間のうちに驚くほどの「知識」が身についたかのように見えるのです。それは教師の「詰め込みスキル」が高かったわけでも、生徒の頭脳が天才的なキャパシティを持っていたからでもなく、ただそれまでの巨大な経験が爆発的に開花しただけなのです。

私(教師)が真理を語り、彼(学徒)が真理を認識するときでさえ、教えるのは私ではないのである。彼は私の言葉によって教えられるのではなく、神によって彼の内奥に啓示されることによって明らかにされるもの自身から直接教えられるのである。

アウグスティヌス「告白」

教師を名乗るにはまだまだ若輩者ですが、アウグスティヌスに倣って、これからも理想の教育について考えていきたいと思っています。

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