ゆー

人類の精神を育むキノコを志す、ラディカルな若手教育者です。

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マガジン

  • とある家庭教師の独断的書評

    読んだ本について自由に感想を述べています。似たような考え方や関心を持つ方と繋がれたら嬉しいです。

  • とある家庭教師の妄想

    哲学書を読み、自分なりに考えたことを綴りました。滲み出る青臭さとアホくささを味わいたい物好きな方はぜひ。

  • とある家庭教師のイギリス留学体験記

    2020年春にイギリスに行った際、一風変わった視点でロンドンの情景を綴った6本のエッセーです。ツッコミどころ満載ですがそこも含めて楽しんでいただけると幸いです^ ^

  • とある家庭教師の洋画評

    独断と偏見で選んだ映画について論じます。名台詞からキャラクター分析、ストーリーについての感想など。英語力を楽しく磨きたい方も是非ご覧ください。(執筆者は英検1級、TOEIC満点を持ってます。)

最近の記事

「中世」は決して旧くない、むしろ新しい。

我々を支配する「直線的」な時間感覚を根底から支えるものとして、近代から始まる「思想史」の流れがある。 我々の倫理の教科書は、近代哲学を切り開いたデカルト、スピノザ、ライプニッツを指して、あたかも彼らが「それまでの中世の迷妄から脱した初めての人間たち」であるかのように描き、神学論争に明け暮れたスコラ学者たちとの「断絶」を意識させる。 しかし、この見方は本当に正しいのか? 中世史家のジョン・マレンボンによると、近代哲学は、それ以前の中世のスコラ哲学の系譜を脈々と受け継ぐ思想であ

    • 一家庭教師の視点から、アウグスティヌスの教育論を読み解く

      これまで中学受験指導専門の家庭教師として、百名弱の生徒を個別で指導してきました。 大手塾の詰め込み教育のシステムに疲弊した結果、家庭教師のご依頼をいただき、「この子たちに勉強の楽しさを知ってもらうにはどうしたらいいだろうか?」と苦心する中で、自分なりに練り上げてきた「教育論」みたいなものがありました。 今回、アウグスティヌスの教育哲学に触れる機会があり、自分の抱いていた考えと共鳴する部分が多かったので、ご紹介させていただきます。 教師は教えることができるか? アウグス

      • 信仰は弱者がすがるものか?

        現代社会において、何らかの信仰を持っていると、少なからぬ冷笑の対象となることもあるでしょう。 彼らは言います、「信仰とは弱者がすがるものだろう、私には必要がない。信仰を必要としているお前はすなわち弱者なのである」と。 そうした嘲笑に対して、「いや、信仰は弱者だけのためのものではない。むしろ強き者のためにこそあるのだ」と反駁する信仰者の方もいらっしゃると思います。もちろんそうでしょう。 しかし私はあえて、別の答え方をしたいのです。 「はいそうです、信仰とは弱者がすがるもの

        • 「何者でもないこと」の力

          世界を変えるためには、大きな力が必要だろうか? 有名になって、金を儲けて、政財界とコネを作らなければ、世界に影響を与えることはできないのだろうか? その反対だ。そうしたアプローチを取っても、すぐさま権力の網の目に絡め取られて無化される。あなたが何者かになった瞬間に、そのアイデンティティにつけこまれる。 むしろ今の時代、世界を変えるために必要なのは、「何者でもない」ことだ。 なぜ天安門での蜂起は、あれほどの弾圧を受けたのか?  それは支配者が、名付けようのない恐怖を感じた

        「中世」は決して旧くない、むしろ新しい。

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        • とある家庭教師の独断的書評
          4本
        • とある家庭教師の妄想
          4本
        • とある家庭教師のイギリス留学体験記
          6本
        • とある家庭教師の洋画評
          2本

        記事

          哲学を志す文系のための数学独習法

          哲学を志す文系にとって、数学は必須教養である。しかし数学はあまりにも専門的語彙の敷居が高く、容易に近づくことができないように見える。 しかし私は、あえて一切の数式を「流し読み」(=「スルー」)して、専門家が「大和言葉」で説明している部分だけを読むことによって(もちろん後半に付された「演習問題」等はガン無視である)、「なんとなく」の理解を塗り壁式に重ねてきた。それによる理解が、もちろん数学の専門家の方から見て浅はか極まりないことは承知している。 が、人生の時間は有限である。

          哲学を志す文系のための数学独習法

          アガンベン、時空を越える思想家

          思想家アガンベンの思考は、文字通り時空を超えている。 それは、語源学とエピステモロジーによってである。どちらも「起源に遡る」ことによって、現在の我々を取り巻く諸物の配置が、過去の我々を取り巻く諸物の配置の再構成にすぎないことを明らかにする。その世界の中で全ては「反復」であり、そこに何ら新しいものはない。 例えば、アガンベンは近代の政治哲学を、神学の変化形だと喝破する。「神」とその「摂理」の二重性が立法権と行政権の二重性に、天使のヒエラルキーが官僚の階層性に変化したに過ぎな

          アガンベン、時空を越える思想家

          どうして、名著の要約はできないのか?ー私が図書館を愛する理由

          「名著のエッセンスをまとめた本」というものがある。 「忙しいビジネスマンでも教養を身につけられる」として称揚する向きがある一方で、「ファスト教養」として唾棄する人もいる。 実際、私は学内新聞でトルストイの「戦争と平和」のあらすじを四コマ漫画にした際に、ある教授からこっぴどく叱られてしまった。 「本質が完全に抜け落ちている!」 肩を落としながら帰路についた私は自問した。 「本質を短時間で吸収するために他人の頭脳を借りることの何がいけないのか?」 「そもそも、ある本の【本質】を

          どうして、名著の要約はできないのか?ー私が図書館を愛する理由

          毎日を神秘的に生きる

          散歩は楽しい。 散歩以上に楽しいことは、人生には存在しないと思う。 中学生の時、人生がどうしようもないくらい退屈に思えたことがあって、そんな時、世界はこんなふうに見えていた。 毎日毎日、同じことの繰り返しで、所詮食って排泄して寝て食って排泄して寝て、いずれ死ぬ。予定調和の果てしないリピート。どこかで見たことのあるセリフばかりのドラマ。剽窃のつぎはぎで作られた論文。味の素ばかりの料理。のっぺりした、捉えどころのない時空間。 今まで面白いと思っていたこと、周りの人が面白いと

          毎日を神秘的に生きる

          物質世界の現実と心の世界の現実をつなぐ「トポス量子論」

          スピリチュアルな世界観は好きだが、「唯心論」にはどこか違和感を覚える。 「唯心論」とは、「客観的実在は存在せず、あなたが住んでいる宇宙は一人一人の心の中に映った現実にしか過ぎず、人の数だけ異なった宇宙が存在するんですよ」、という考え方。仏教における唯識派の思想は、たいていの場合そういった説明の仕方がされる。 だが、率直に言ってこれは嘘だと思う。嘘とは言わずとも、真理の一面しかついていない。 客観的実在を否定する「唯心論」(独我論)は、カントが代表する大陸系哲学者が好むタ

          物質世界の現実と心の世界の現実をつなぐ「トポス量子論」

          因果関係は実在しない、と考える理由

          時間論に伴って生じる厄介な問題の一つに、因果関係というものがある。 「もしタイムトラベルで過去に戻って両親を殺したら、どうなる?」などという問題である。 つまり、因果関係が存在するという理由によって、我々は時間が直線状をなすという信念を受け入れる。 しかし、ここで疑ってみたい。因果関係は本当に存在するのか? 私の現在の考えでは、因果関係は存在するが、実在はしない。 我々の意識が見る幻惑の一種としてであり、本質的な実在ではない。 前提として、「我々は蠢く砂の中に「意識移入」

          因果関係は実在しない、と考える理由

          「石蹴り遊び」の時間論

          時間について抱いていた従来の観念を、徹底的に打ち砕いてくれた作家が二人いる。 一人は20世紀を生きたラテンアメリカ作家のフリオ・コルタサル、 もう一人は同じく20世紀のサイケデリクス・ルネサンスの騎手テレンス・マッケナだ。 今回はこの二人の展開した時間論を概説しつつ、前回の記事で紹介した「微分構造としての時間」の体感的感覚についての試論を展開したい。 コルタサルの著書「石蹴り遊び」は、驚くような仕掛けが施された本である。最初のページの「指定表」は以下のように指示する。 「

          「石蹴り遊び」の時間論

          【物理学xオカルト】「時間」とは、「4番目の矢印」ではなく、「なめらかさの構造」であるのかもしれない。

          「時間の不思議」について、高校生の頃から囚われていた。 物理学では、時間は「t」と名付けられた4番目の矢印として、特権的な地位を与えられている。そいつだけなぜか、x, y, zという他のベクトルとは符号が反転しており、アインシュタインの寵愛を受けている。 僕は「時間」というベクトルが、4番目というだけで特権的な扱いを受けていることがどうしても許せなかった。おかしい。どうしてもおかしい。4次元空間があるとして、どうしてある方向だけを「時間」の方向として区別できるのか? 3

          【物理学xオカルト】「時間」とは、「4番目の矢印」ではなく、「なめらかさの構造」であるのかもしれない。

          スピリチュアルな人間たちに対して「精神疾患」という言葉をぶつけることの時代錯誤性について

          https://x.com/May_Roma/status/1767848484802052117?s=20 新興宗教の教祖をはじめ、スピリチュアルなことを言い出す人間を「精神疾患」と呼んで批判する人間がいるが、 学問としての「精神分析」が20世紀後半のヨーロッパでたどった変遷を少しでも学んだ人間からすれば、それはあまりにも時代錯誤的な言説であり、トマト祭りで投げつけられるトマトに匹敵する威力も持たないような、不発の手りゅう弾にすぎないことがわかるはずだ。 スピリチュアル

          スピリチュアルな人間たちに対して「精神疾患」という言葉をぶつけることの時代錯誤性について

          「神智学」と「ニューソート」は過ぎ去った時代遅れのブームに過ぎないのか?

          神智学とニューソートは、どちらも「もう一つの近代」を指し示す原理として一世を風靡した過去を持ちながらも、現代社会においては伏流水のように身を潜めている。それはなぜか? 「ナチス」と「オウム」を生んだ神智学 まずは神智学が歴史の影に葬られた流れを概観しよう。 ブラヴァツキ―夫人が創始した神智学は、チベット密教のシークレット・ドクトリンを近代的語彙に結晶化させ、階層的霊界論や霊的進化論を説くことで新たなオカルティズムの地平を切り開いたが、二代目のべサントとリードビーターによ

          「神智学」と「ニューソート」は過ぎ去った時代遅れのブームに過ぎないのか?

          科学哲学者ガストン・バシュラールが追い求めた「四大元素」はアストラル界の物理学を指し示している

          ①チャクラ、②火・風・水・土の四大エレメント、③アストラル界…。 数週間前までは、これらすべて前近代的で時代遅れなワードだと思っていた。 ところがどっこい、私がここ数か月間、哲学・詩学・人文学について読み漁ってきた中で「超クールだ」と思った考え方が、これらのキーワードを「縦糸」として説明できることに気づいてしまった。 つまり、上記①~③のキーワードこそ、私が思う「超クールな学問」の入り口である。 前提:「知の考古学者」としての視点 前提として共有しておきたいのは、私た

          科学哲学者ガストン・バシュラールが追い求めた「四大元素」はアストラル界の物理学を指し示している

          【対話】ニューエイジ運動の源流である「神智学」がコンピュータ全盛時代にこそリバイバルするべき理由

          以下は、神智学にハマっている弟と、理論物理オタクで現役Androidエンジニアの兄とのディスカッションを通して生まれた議論を仮想的に再構築した議事録です。 神智学は時代遅れか? 弟:神智学に最近はまっているんだ。 兄:神智学?… 弟:19世紀中葉にブラヴァツキー夫人が創始して以来ニューエイジ運動の源流として各界に多大な影響力を誇った「神智学」のことだよ。 たくさんの新興宗教を通じてその教義の断片は伝わっているものの、現代社会においてはその本質的な体系じたいは忘れ去られ

          【対話】ニューエイジ運動の源流である「神智学」がコンピュータ全盛時代にこそリバイバルするべき理由