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毎日を神秘的に生きる

散歩は楽しい。
散歩以上に楽しいことは、人生には存在しないと思う。

中学生の時、人生がどうしようもないくらい退屈に思えたことがあって、そんな時、世界はこんなふうに見えていた。

退屈な世界

毎日毎日、同じことの繰り返しで、所詮食って排泄して寝て食って排泄して寝て、いずれ死ぬ。予定調和の果てしないリピート。どこかで見たことのあるセリフばかりのドラマ。剽窃のつぎはぎで作られた論文。味の素ばかりの料理。のっぺりした、捉えどころのない時空間。

今まで面白いと思っていたこと、周りの人が面白いと思っていることが、突如として全く面白いと思えなくなってしまった。

アニメ、ドラマ、読書、勉強、会話、食事、運動、授業、睡眠、僕は多種多様なペレットを豊富に供給される一匹のニワトリだった。だから僕はあらゆる意味で「食べる」ことを嫌悪した。お腹が空いているはずなのに、お腹がいっぱいだった。

と同時に、僕は一次元直線の上の生物だった。「過去」と「未来」に挟まれて窒息しそうだった。常に何かに駆り立てられて焦っているのに、その先のゴールを見ることが怖かった。

ところが今、僕は生きるのが楽しい。毎日、楽しい。
それは、世界がこういうふうに見えるようになってからだ。

楽しい世界

世界にはその一瞬一瞬に、無限の奥行きがある。そのひだに入り込むと、その奥にもまた見たことのない空間が広がっている。汲み尽くすことなど、出来はしない。この地球において流れる時間のただ一瞬の現実をも、たとえ永遠の時間をかけたとしても僕の魂が味わい尽くすことはできない。

無限のロマンを感じるために、空想に浸る必要もなければ、宇宙に出ていく必要はない。今この一瞬の「現実」の中に、無限の宇宙が広がっている。ただ「現実」を見る目を変えるだけでいい。その色眼鏡を外すだけでいい。全てを単純化しようとする原理を放棄し、終わりなき終わりへと駆り立てる時間の流れを止めてしまえばいい。今、この場所に、この「現実」の中に、無限の奥行きがある。

ディテールのそのさらに先に、またディテールがある。ズームしてもズームしても、その先にまだ広がる奥行きがある。バルザックの「人間喜劇」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、名作と言われる小説には、こうした奥行きがあるから好きだ。哲学書も同様。一人の哲学者の奥には、彼に影響を与えた無数の人間がおり、その一人一人の人間の奥には、さらに彼らに影響を与えた無数の人間がいる。その細密画を構成するピースの一つ一つを、丹念に味わっていくことこそ、読書の楽しみだ。「この物語のあらすじは〇〇で、この作品のメッセージは〇〇で、この作者は〇〇だ」などと断定して読む態度が、一番嫌いだ。

ところが人と話していると、必ずしもみんなが僕と同じ世界を見ていないことを知った。たとえば、二分思考。「民主主義」「社会主義」などの、イズムに囚われた思考。特定の誰かや特定の集団を排除する思考。あらすじを知って満足する思考。「全てを知った」と言い切れる思考。Wikipediaに載った紹介文を知るだけである人間を知った気になる思考。ディテールを排除する思考。

二分思考

たとえば僕は今、僕の住む街に何匹のゴキブリが住んでいるかを知らない。だが彼らの生活のことを考えると、とても楽しい。そうした、一見目に見えないところにある現実が、僕の世界の隅っこにしっかりと根を張っていることに安心する。

どうしようもないディテールこそが、人生の醍醐味だ。

散歩は楽しい。散歩は、どうでもいいディテールに溢れている。
そして散歩は決して、Google Map上の点の移動ではない。

もし過去の自分に出逢ったら、こういうことを教えてあげたいと思う。

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