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たかが〝子供の宿題〟と軽んずる勿れ

学校に提出した自由研究の〝所有権〟をめぐり、学校と生徒が最高裁にまでもつれ込むほどこじれている、という話。

私事であるが…

小学校を卒業する頃、クラス担任が生徒全員に原稿用紙30枚くらいの〝論文〟を書かせるという無謀な思いつきを課した。ほとんどのクラスメイトたちは先生が例示した〝自分史〟をまとめるという形で乗り切ったのだが、私は〝論文〟というコトバを馬鹿正直に受け止め、当時興味のあった外国語の比較文法論(?!)を書き上げたのだった(私自身の〝過去史〟など書きたくも思い出したくもなかった、というその頃の感情は否定できない)。対象言語は英語・スペイン語・中国語・エスペラントだったと記憶している。その〝力作〟–––今から見れば多分稚拙な内容だったろうとは思う–––は、まぁ卒業の頃の提出と言う事もあって、その後返却される機会がなく今に至る。
ともあれ、あの頃は我事ながらワケのわからんガキだったのだな、と振り返る。

中学に入った頃には、音楽の自由研究だったかで、当時独学していた管弦楽法を頼りに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの弦オケ・アレンジ版を提出した。「へぇ、こんな段数のある五線紙があるの」という感想をいただいたものの、その楽譜そのものは、やはりいまだ手元に戻っていない。もっとも戻ったところで赤面必至、深夜の布団の中で枕抱えて悶絶する出来だったのだろうけど。

巡回展などに入選した絵も何点かあるが、それらもまた同様で、「学校という場所は、生徒児童の創意工夫や心血注いだ作品など屁とも思っちゃいないのだ」という実感は根深く心に刻まれている。

提出された宿題は、採点されたテストと同様、手がけた本人に返されるのがアタリマエの常識であり、たとえその学校がルーズでそうした管理をテキトーにやっていたのが慣例だからといって、その点を責められれば言い訳の余地などないのだ。

それに自由研究は学校に「これこれをやれ」と言われてやるものでないからこそ自由研究なのであって、どんな研究をしようがそれは学校の裁量の外であり、そこから生まれた成果はあくまでも個人に帰するものである。勝手に廃棄などもってのほか、論の外だ。

記事によれば、地裁では生徒側の訴えを認めたものの、高裁の判断は一転、一審判決を取り消したという。

こうした司法判断について、学校現場のコンプライアンスに詳しい日本女子大の坂田仰(たかし)教授は、法律論としては「妥当」とみる。
自由研究は確かに生徒側が費用を負担している。ただ、例えば給食費を生徒側が負担していたとしても、残った給食を処分するたびに許可が必要なわけではない。

sankei.com

冗談じゃない。

給食は給食のおばさんが作るが、自由研究は生徒自身が自らの手で作り上げるものだ。比較の対象にすらならないだろう。

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