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個人的リスキリングのすゝめ~朝型にあこがれる夜型人間の実験記録~

 自分の力ではどうにもならない生まれ持った性質、というものがある。利き手、運動神経、味覚の好悪。無理に矯正しようとすればできなくもないが、それには相応の努力や苦痛が伴う。理想の性質をさいしょから持っている人間を羨むことを止められず、それがために殊に子供時代は、ネガティブな思考に陥りがちなものである。

 この記事は、そんな「どうにもならない運命」に果敢に立ちむかった、一人の30代夜型人間の人体実験記録である――。


アラームという名の絶望の鐘

 朝は、いやなものだ。

 酷く眠いのに、学校や会社という社会的義務を果たすためだけに、何億年という生命の試行錯誤の歴史の末に完成した生理的欲求を放棄してムリクリに立ちあがり、時計の針を睨み恨みしながらパンを口に詰めこんで、後は野となれ山となれで玄関を飛びだしてゆく。

 起床が苦でない朝型の人が、私は昔から羨ましかった。高校の同級生は、家族全員が朝型なのだと言っていた。そして、私は理解した。これは遺伝による宿命なのだ。なにせ、うちの家族はみんな夜型なのだから。

 社会人になってからは、仕事の責任の度合が上がるにつれて、起床がさらに辛くなった。スマホのアラーム音は絶望を知らせる合図。人生で最高に眠い――睡魔に羽交い締めにされている瞬間に、「起床せよ、さもなければ社会人失格だ」と脅迫してくる。軽快なリズム、水流のような癒しの音楽、愉快なアヒルの鳴き声――スマホのアラーム音を次から次へと嫌いになって替えまくった。職場でとつぜん、心臓が飛び出すような体験をしたのもその頃だ。以前使っていたアラーム音を、同僚が着信音として設定していた。体が反射的に「恐怖」だけを思い出す。

 もちろん早寝早起きを実践したこともあったが、毎度例外なく元の木阿弥と化した。休日に早めに目覚ましをかけてみても、どうしても時計をとめて二度寝してしまう。

 寝室にパソコンやスマホなどの電子機器を置かないほうがいいと聞いて、何年ぶりかにアラームクロックを使いはじめた。酷いときには覚醒と夢のはざまを行き来して、「スマホの停止操作が急にわからなくなる」とか、「止めても止めても音が消えない」という悪夢を何分間も見ていたが、わかりやすい大きなスイッチを押すだけの置時計にしたとたんその悩みは解消された。けれど、スマホを寝室から遠ざけることで睡眠が改善されたかといえば……効果は微塵も感じなかったというのが正直な感想だ。

 休日の朝寝は、平日を無理して起きる社会人の当然の権利。かつて私はこう考えていた。平日は睡眠を削り、休日に多く眠ればつじつまが合う。計画性のない性分で、週末の外出などもその日の気分で行き先を決めて、昼前か遅いときには正午を回って出かけるのだが、帰りにかかる時間を計算に入れないものだから当然のように遅くなって帰宅。家に着いて玄関を入って初めて、家の各所を週末のうちにまとめて掃除しようと考えていたことを思い出す。だが翌日の勤務のために早く床に就くことを優先して、掃除は取りやめ――といえども、必要最低限の食事や入浴を済ませれば、翌朝の起床時間まで8時間など到底取れない。翌朝はいつも通り、限界の時刻にセットしたアラームで起きだして、慌てて出勤しようとすると、出勤用の靴は金曜に脱いだ状態のまま、埃をかぶっているのである。


みんな苦しんでいる? 関連本の増加

 そんなとき、本を読んでいてふと疑問に感じる一節に出くわした。
「両親が時間に急き立てられて慌てる姿を見たことがない。常に余裕をもって行動しているようだった」という趣旨の一節。井上皓史氏著『昨日も22時に寝たので僕の人生は無敵です~明日が変わる大人の早起き術~』という本だ。

 朝に、余裕をもって行動している人がいるの? みんな当然忙しいものなのでは……定年後のすることがない人ならまだしも。朝は慌ただしいものだから、あっという間にすぐに沸くケトルが便利なんでしょ、テレビCMでやっている。
 この書籍だけではない。睡眠に関する本が近年異様に増えてきたと感じる。少し前には「睡眠負債」というテレビ特集もあったっけ。不眠症ではないので真剣に見なかったが、長期的な睡眠不足が脳に悪影響を及ぼす、という話だったような……。他の本では、昼間のパフォーマンスを上げるために夜の睡眠を重視する、という論法になっていた。睡眠が、確実に、一時代前よりも世間の注目を集めている。

 私は閃いた。そうか、これは「ワークライフバランス」という、立ち位置によってはどんな色にも変わる曖昧な言葉にごまかされて長らく空席だった「24時間戦えますか」のアンチテーゼなのではないか、と。血気盛んな人々は、24時間戦わない代わりに、最小の時間で爆発的成果を上げようとしており、睡眠はそのためのキーアイテムとなり上がったのだ。

 同じようなテーマの数冊を読んだが、どれも不思議と朝型・夜型のことについては掘り下げていないようだった。読者が何型であろうと方法さえ学べば理想の睡眠習慣になれるということだろうか? 身をもって散々に失敗を重ねた私は思った。夜型人間の朝型化は生やさしいことではないはずだ……ここまで考えてやっと自分の愚考にハタと気づく。そもそも朝すっきり目覚めることができる人は、睡眠改善の本を読む必要なんかない。これらの本はそもそも、恵まれない夜型人間に福音を、というストーリーとなっている。


遺伝子への挑戦状、人体実験へ

 私だって夜型だろうと遺伝だろうと、朝すっきり目覚めてみたい。優雅な朝活をやってみたい。贅沢をいえば、毎日がそうであってほしい。「夜型だから夜の時間を自由に使えるじゃん。私なんて夜眠くて何もできないよ」と慰めを言われたところで嬉しくない。だれもが一度は経験したことがあるだろう、眠いところを無理に起こされるということの喩えようもない苦痛を。それを週5で強いられ、それがあと30年以上続くなんて、たまったものではない!

 早寝早起きは習慣である――そこで私は、継続することこそを最重要課題と位置づけ、完璧にこなすよりとにかく軽い気持ちで、複数の本に示された以下のメソッドを実践してみることにした。

1. 早起きする前に早寝する
2. 朝陽を浴びる
3. 平日も休日も規則正しく
4. 寝る2時間前には食事を終わらせる
5. 寝る30分前に電子機器の画面を終了する

1 最初の一歩は、起床ターンではなく就寝ターンからという話。つい「まずは早起きを」とやりがちだが、これが間違いなのは考えてみればもっともな話だ。たとえ目覚ましで起きても睡眠時間が十分でなければ当然眠いので、二度寝したり一日ぼーっと過ごしたりという結果になる。求めているのは早起きの「時刻」ではない。朝すっきりと自然に覚醒して、「朝から元気に活動すること」なのだ。
 単純なことだが、焦らない焦らない。何事も成功のカギは、一項目ずつベビーステップで着実に進むこと。

2 詳細な物質名やメカニズムは省くが、人間の脳には眠気を誘う「睡眠ホルモン」を放出する機能があり、これによって入眠がおこる。「睡眠ホルモン」は強い光を浴びることで放出が止まる。そして停止後14~16時間が経過すると再び放出される仕組みになっているという。朝起きて朝陽を浴びるのは、この仕組みを利用しようとするものだ。
 とはいえ寝起きでベランダに出るのは流石に人目が気になるので、初めは窓際までいって朝陽が直接顔に当たるように立ってみたが、この行動も簡単すぎて「こ、これだけでいいのか?」と戸惑った。じわじわ覚醒してくる自覚も感じればリアルなのだが、なにも起こらない。

3 軽い気持ちを心掛けていたものの、「就寝時間」だけは脇目も振らず守ると決めた。刻限は22時。終業が遅い日にはどうやっても間に合わないが、どんなときも諦めず可能な限り22時に近づけるよう巻いて行動し、30分オーバー程度で済んだら自分を褒め、1時間オーバーならまあいいかと大して取りあわずに寝る。脇目も振らないわりに緩いじゃないか、と思われるかもしれないが、脇目も振らないのは「刻限」についてではなく「就寝に向かって着実に行動する」という点においてである。「今日は週末だから遅くまで本読んじゃえ」のように、就寝を目的としていない行動は慎んだ。
 強敵は、金曜の夜。一週間という長き戦いを終えた達成感の波に乗って、ビールに手を伸ばしそうになり、思いとどまる。酔うと22時への決意が揺らぐし、飲みながらの食事はだらだら伸びる場合が多い。さらに「アルコールは睡眠の質を下げる」という情報もあり、「とりあえず今日はやめよう、明日飲もう」という感じで飲まずにいてみた。「ダイエットは明日から」の逆バージョンとは、我ながら天才的な発想。

 だが実際は、この時期同じ缶を何度冷蔵庫に出し入れしたかわからない。キンキンよりも適度な冷たさが好みの私は、飲む前に缶を冷蔵庫から出してしばらく常温放置しておくのだが、その間に改心して冷蔵庫に戻す……という行動を繰り返した。SNSの投稿を見たりスーパーで陳列を見かけたりするだけでゴクリとなって辛く、また、そのこと自体に驚きもした。これってアル中というやつなのでは……!

4 2時間は消化が終わる目安。22時に寝るには20時に夕食が終わる計算だが、これが思ったより難しい。計算を狂わせたのは調理時間。あれこれ作るのが好きな食いしん坊なので、際限なく料理に時間を使ってしまう。結果、2時間とれぬまま就寝時間になることも多々あった。朝は少し胃がもたれるが、まあこれも、ある程度すっきり目覚めているからこそ気づくことだろう。睡眠に自信がなければ「眠いから食欲もわかない」と論理構成するはず。継続課題である。

5 スマホ画面の排除はとくに厳しいものだった! 終了時刻を決めても、SNSが気になって「ちょっとだけ……」と開くので、スマホの時刻制限機能を導入。ご存じの方も多いかもしれないが、これはもはや意識や決意の問題ではなく、もっと脳の深淵にかかわる話だ。スマホを作った本人のジョブズ氏がお子にスマホ使用を厳しく制限していたというエピソード、これで議論終了だろう。スマホを見たい・操作したいというのは、快楽系ホルモンの働きを応用した非常に生理的な欲求で、スマホやSNSはそういう欲求が生じるようにそもそも設計されているらしい。「ツイッター見たい」が「スイーツ食べたい」と同じだなんて、恐ろしい話だ。「やめる」と念じることでやめられない以上、対策にはこれまた別の生理的欲求を用意する必要があると思う。たとえばスマホの横にかならず大好きな紙のマンガ本を置いておき、スマホが見たくなったらマンガを手に取る、とか……ウーム、こちらも研究続行。


予想だにしなかった思考の変化――後回し思考 vs 前倒し思考

 さて肝心の実験結果だが、予兆はまず、数日後の夜に現れた。

 面白い動画を見ていても、なんだろう、内容が全然入ってこない……あれほど不在だった夜の眠気が現れたのだ。それも21時頃。まだ食器も洗ってないし入浴もしていないと最初は焦ったが、だんだん学習して、この睡魔を抱きこむために逆算し行動するようになった。眠気がくるのは、朝陽を浴びたことによる睡眠ホルモンの放出だろうか。正直、本当に数分しか浴びておらず(日焼けしそうだったし)、あんなちょっとで?と疑問には思うものの、私の脳も、脳科学の研究結果通りに作動するものらしい。まるでゼンマイ仕掛け。実験経過は順調のようだ。

 ところがここで、思わぬ事象に出くわすことになる。
 22時ルールを守ろうとすると、家事の達成度より時刻を優先することになる。たとえば22時の時点で洗濯物を畳んでおらず山になっていても、入眠時刻は動かせないが洗濯物は朝でも畳めると考え、そのまま放置して寝る。確かに朝はすっきりした頭でてきぱき捌ける。だが、思った。乾いたときに畳んでしまえば、寝る時間にこんな攻防をしなくて済むのではないか、と。さらに、散乱する服を起きがけに目にしなくていいし、畳む時間をコーヒーをゆっくり淹れるだとか他の行動に充てられる。

 同様に考え、金曜夜に帰宅したら通勤靴を磨いてから家に上がるということも初めてやってみた。数年前に読んだ近藤麻理恵氏著『人生がときめく片づけの魔法』での指南事項。けれど、なんというか、磨くこと自体は1分もかからないはずが、やっている間かなり居心地のわるさがあった。本を読んだとき私はこの項目について、賛成も批判も持たず、ただ「土曜も日曜もあるのだからそこでやればよくない?」と無意識に結論づけ、今日に至っていた。そして毎週のごとく、月曜の朝になって靴が埃まみれであることに気づく。ここで金曜の自分を反省すれば翌週はうまくやりそうなものだが、その発想は不思議と湧かない。土曜か日曜の私が磨き忘れたのだと理解し、彼女らに少し苛つきながらあわてて靴を拭く。
 ほかにも多くの事柄について、後回しと前倒しの構造を理解し、思考が変化し、付随して行動も変化していった。けれど、この変化が起こる以前には、自分のことを人と比べて後回し思考だなあと思っていたわけではないし、どうすれば物事を前倒せるのか(円滑に進められるのか)というノウハウも本で読んで知識としては持っていたはずなのだ。
 それなのにやらなかったのには訳がある。それこそが、思考の「癖」だと、私は思う。他人と違う、けれど些細な、自分の特徴。大学教授に学んだ高尚な理念でも、先祖代々引き継いだ家訓でも何でもなく、バッグを右手に持つか左手に持つかくらいの意味しかない。先の例は、癖のとおりに体が行動しなかったので、脳は居心地わるく感じたのだろう。私は、思考の癖に阻まれて、片づけにおける合理的判断ができていなかったようだ。そしてその失敗を少しも自覚せずに生きてきた。
 「癖」は、人間の聡明で論理的な合理的判断をゆうに超えてくる、ということらしい。


人体の不思議と、結果の必然

 生物進化の話に、「なぜかオカピとキリンの中間の首の長さをした動物の化石が見つからない」というのがあるが、私はこの奇妙な感じが気に入っている。最近それと同じくらい不思議に思うことが、自分の身に起こっている。目覚めると、時計が5時39分を示している。これが頻繁に起こるのだ。就寝時間にばらつきがあっても起こる。

 この事実からは、二つのことが推論できる。ひとつは、人体は「何時間寝たか」より「何時に起きるか」を習慣化しようとする、ということ。これは、私がヒトの標準的個体であるなら、人体実験の結果ほぼ確実に言えるのではないかと思う。
 もうひとつは、人体が何らかの方法で「時刻」をかなり精密に知ることができる、というものだ。世に伝わりし体内時計の本領なのか、あるいは、日の出による部屋の明るさや室温上昇などで測っているのか、もしくは他の要因があるのかもしれない。近所の人がこの時刻にアラームをセットしていて、自分では意識できない小さな音波が聞こえているとか? 真相は不明。日の短い冬場にはたしてどうなるか、検証続行とする。

 飲酒についても見方が変わった。これまでは、適量を美味しく飲めて翌日も変わりなく働けている(、まだまだ若いな)と思っていたが、よく観察してみれば、飲んだ日は夜中に何度か目が覚めたりトイレに行ったりしていて、これで良質な睡眠がとれているかといえばかなり疑わしい。翌日の仕事中も、前日飲む飲まずに関わらず調子がのらないことがあったが、微弱な酒残りを睡眠不足と誤信していた可能性がある。美味しい飲酒は人生の楽しみでもあるので完全に断とうとは思わないが、同時期に偶然読んでいた垣渕洋一氏著『そろそろ、お酒やめようかなと思ったときに読む本』で、睡眠とアルコールの対立構造が述べられており、このことで減酒決意は倍くらい深くなっていた。

 そう。もうお気づきのことと思うが、私は今、アラームを使って起床していない。むろん、会社も退職していない。


エピローグ

 子供の頃、テレビゲームの続きをやるために日曜は誰よりも早く起きて、ワクワクしながら一目散にスイッチを入れていた。それに似ている。目が覚めたらまず最初に、やりたいことがフッと浮かぶ。目標のために今日も、活動の続きができるぞ。今日一日は押し付けられたものじゃない、私に与えられたものなのだ。ベッドから飛びだして、まずはスポーツウエアに着替え、玄関を出る。

 朝の空気は清澄で、緑の香りで満たされている。太陽はまだ差してこず、大地から湧きあがる湿り気はひんやりとして心地よい。歩きだすと、様々な人とすれ違う。犬の散歩、庭仕事、ウォーキングやランニングに励む人。こんなにも早い時間から、多くの人が活動していた。かつての私が熟睡するのに最適だと信じていた時間帯、こんなにも世界は動いていたのだ。

 唐突に、自己分析をすることにした。今年7月の終わり頃のこと。なぜそういう考えに至ったのか、経緯はよく思い出せない。睡眠改善をした時期と重なっているのは、たんなる偶然かもしれない。自分のことをもっとよく知りたいと思った。自分の好きなものは何か、嫌いなものは何か、好きだと思っていたものが実は「それのことを好きな自分が好きだから」という安直な理由で好きになっていないか。どんな性格で、どんなことを大事に思う傾向があり、どんな生き方を理想とするか。学生時代は、中学は、小学校は、それ以前は……現在は。
 この手の性格分析は、就活時期にアピールポイント探しのためにやったという方が多いかもしれないが、私は初めてだった。そして、愕然とした。自分がいかに自分という人間の性質を無視してきたか、過去の出来事を蔑ろにしてきたか、その場その場で流されるように、受動的に生きてきたかを痛感させられた。

 さて、私はある勉強を始めることにした。資格の勉強と言えばラストにビシッと格好がつくのだが、資格ではない。とある作業の手法に関する勉強だ。この作業から完全に開放されて暮らす人は少ない。好きでやる人もいれば、嫌で仕方ないけれど強いられてやる人もいる。物心ついたときから学習が始まり、どんな人生を歩んでいっても、仕事に就いても就かなくても、いつかは必要になる。誰もが、ある程度はできる。けれど、もっとうまく出来たらいいのにと常に願ってしまうようなもの。
 私はこの作業について、高校までの教育を終えたあと、あらためて学ぼうとせず直感的にやってきた。けれど教科書的な方法論には限界がある。探してみれば書籍もたくさん出ているし、今の時代は個人的な研究成果をネットで公開してくれている人が大勢いて、これらの解説を学べばもっと上達できるのではないか、と思い立ち、端からゆっくり読みすすめている。朝の時間を使って。
 それは、文章の書き方である。


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