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モヤモヤ啓示

モヤモヤすることが、実は自分の真実を教えてくれているのでは?と気づいたのは、モヤモヤすることが続いた一日の終わりに、今日はいっぱいモヤモヤしたので、じぶんを最高まで甘やかすぞ〜!と気合を入れて街に繰り出したとあるアフター5であった。

なぜモヤモヤしたのか。要するに、自分の信念に照らして、そぐわない事が生じたといういとも簡単な話なのだ。じゃあ、その起こった出来事がどういう形だったら、逆にモヤモヤしないのか。それがわかれば、自分がどんな生き方をしたいのかが、わかる。そう信じて、実際に起こったことではなく、こうだったらよかったのに、という方を羅列してみた。

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第一に、私は自由に生きていたい。永遠に続く孤独は苦手だが、孤高ではいたい。自由な人というのは、意思決定を全て自分で下す。人に言われたからやったり、偉い人が言っていたから追随したりしない。自分の五感をフルに使い切って、美味しいビールは、醸造メーカーやどこそこの賞を取ったとかいう話ではなく、自分で感じた味で判断したい。どこへ行くのも自分の自由でありたい。何時に、どこへ行っても問題ない。足があるのだから人は動くものだ。習慣ルートでしか動かないのは、ある種の特殊能力と言っていい。気まぐれでありたいし、気まぐれな自分の行動の先に、人生で必要な発見があると、信じてやまない。どこへ行って、それが失敗へぶつかったとしてもだ、その道を選んだ自分のせいでありたいし、その失敗を学習して次にどこへ行くかも決めたい。

第二に、私は一人より複数人と仕事がしたい。一人で家で黙々とオンラインの仕事だけをすることを理想と考えていた時期もあったけれど、尊敬する人生の先輩から、「あなたは人と関わらないようになってはいけない。外へ出なければいけない」と諭された事があった。その時は「???」と理解及ばずだったが、このモヤモヤの日に、初めて理解した。
私は、人を否定したり、否定されたりすることが苦手だ。人から否定されればすぐに萎縮してしまう。また、人を簡単に否定する人もいるが、およそ善良である人について否定や跳ね除けを行う理由が全く理解できない。その善良な人は、その人の持ちうる全ての記憶と経験とに基づいて、今の行動を判断している。それらを総動員してもできない事だったら、これから学習するか誰かに助けてもらう以外に、何か方法があるとは考えにくい。
記憶や経験は大いに人それぞれだ。その多種多様な武器を集めるのが、チームや組織であり、各人の武器をお互いに活用できないのだったら集まる意味がない。反対に、活用できればそれが競争力になる。優良な企業はそうやって切磋琢磨して結果を残している。私は、仕事をする以上、最高のものを作りたいと思っている。最高というのは、ワクワクする、楽しい、嬉しい、生きていてよかったと思える状態のことだ。マイナス面がクリアになったりするのもいい。
つまり会社に勤める以上、人々の生命力に寄与する行動がしたい、と考えている。

第三に、一人の人生を満喫していながら、どこか寂しいとも思っている。

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ビーグル号に乗ってガラパゴス諸島へ調査に出かけたダーウィンは、船に乗って初めて、日記をつけるようになった。それまで日記など書いたこともなかったという。ダーウィンは進化論体系の樹立という偉大な研究を成し遂げる。のちにダーウィンの研究者は「日記をつけたことが、功績へつながった」と結論づけた。

これは一見、当然のことのように思う。ダーウィンは思考した、そして思考をノートにした、と。しかし掘り下げてみればそうではない。記述がなければ、思考はない。全てを考え上げてから論文を書く事ができるか想像してみれば、このことは明らかだ。記述と思考は一方向ではなく、双方向に作用している。

「手を動かせ」
この意味不明な教師の指示が、正しかったことが今まさに証明された。数学の問題など、何をどう考えればいいのかわからないのに、手を動かして一体何をしろっていうんだ、という疑問も、手を動かして書いてみればよかったに違いない「一体何をしろっていうんだ」と書けば、その疑問を教師に伝えられたかもしれない。そうしたらこういう返答が返ってくるはずだ「わかっている一行目を、とりあえず書け」。

完璧主義の人なら特に、何かをやろうという時に全体像を頭の中で完成させてから手をつけがちだが、手をつけたところから次の一歩やそもそもの目的地が見えてくることもある。想像するに、ダーウィンは日中の調査を終え、明るい夕方のうちに、あるいは周囲が寝静まった夜に、船室でノートを書き綴っただろう。一行、一段落、一ページ。その記述こそが、翌日の調査の方向性を定めていった。

私は、自分の思うように生きたい。

思うように生きるなんて夢で、現実は厳しくて辛いものなのだ、という刷り込みが、頭のどこかにある。物事がうまくいきすぎると不安になるなんてことは、しょっちゅうある。けれど、その教祖もよくわからない教義みたいな教えに従って生きるのは、ちょっと違うのではないだろうか。

私はこれまで、確かにこの教義を信奉していた。ぜんぜん面白くなんかない。けれど、道を踏み外したらとんでもない不幸が待っているのではないかと怯えて、「厳しくて辛い現実の中で、小さな幸せを探していく」というスタンスを取っていた。

けれどよく考えてみれば「楽あれば苦あり、は真実だから、先に苦をやってしまって後で楽をしよう」というスタンスで生きていくとして、一体いつその「楽をする予定の『後』」がやってくるのだろう? 定年後?
楽あれば苦ありは、楽をした奴が後で苦労するという意味ではないのでは、と思った。この諺を作った人は「楽がたいてい先に来ますよ」ということを伝えたかったのではないだろうか。ブッダが出家のきっかけとした「生老病死」は、明らかに後にくるものだ。人はいつか死ぬし、多くの人はその手前で老いや病に苦しむ。

だから私は、これからは「自分の思うように生きるし、生きられる」を信奉しようと思う。そして、「とにかく手を動かして」完全でなくてもいいから、自分のノートと自分の思考の往復書簡をくりかえし、自分の思う生き方を体現し、自分の思う理想の世界をつくっていきたい。子どもたちも、子供の頃の私も、生きるのが辛いなんて思わず、毎日が楽しくてワクワクしてどんどん世の中が良くなっていっていると感じられるような社会をつくる、その一端にいつもいたい。

大人が楽しい世界を作ろうとしなくて、いつ、楽しい世界ができるだろう。けれど、生きたからには、どんな人にも幸せになってほしいし、私も自分を幸せにしてあげたい。

参考文献
アニー・マーフィー・ポール『脳の外で考える』
(表題写真)


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