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金沢JAZZ STREET 2023 人生を変えたい時に、やれること

ああ、人生は儚い。

心不全に陥った瞬間のことを考えてみてほしい。いつもと違う、不気味な動悸がする。鼓動のリズムが乱れている。おおきな拍動が押し寄せたかと思うと鼓動は一気に薄れ、細動が始まった。胸がつまる、声が出ない。これでは人を呼ぶことも電話もできない……ああそうか、これが、私の人生の終わる瞬間なのだ。まじめに勉強し、まともに仕事をし、周囲にとってある程度はいい人でいられたと思う。家族にも恵まれ、これまでにたくさんの動植物と触れあい、強烈な太陽の熱に目をほそめ、夜のしんとした静寂のなかで星や月をながめた。美味しいものを無数に食べ、最高に美味いビールを無限に飲み、人類のなかのほんの一握りの人たちと時を共有し、笑いあい、時に涙にくれ、温かいおおきな手で背中をたたいてもらったことも、一度や二度じゃなかった。

ああ、ありがとう、地上に存在するすべての私に関係したものたち。

けれど、できることなら、2週連続で新幹線旅行だなんてお金もったいないなどと言わずに、2週連続だからこそビッグウェーブに乗ったつもりで、老舗ジャズフェスに、誰に遠慮することなく、自分に後ろめたさを覚えることなく、行けば、よかった……

といった後悔を走馬灯タイムでしないためにも、仙台 定禅寺STREET JAZZ FESTIVALの翌週、敬老の日の三連休に、金沢JAZZ STREETを訪れた。

金沢のジャズーー去年のこの場こそが、私のジャズフェス初回体験となった。歴史ある大きな加賀の城下町、その商店街、市場、商業ビル、広場そこかしこにステージが設置され、晩夏の太陽がジリジリ照りつけるもとで繰りひろげられる、楽器と声と拍手の応酬。まさに祝祭的な雰囲気に、私はすっかり呑まれ、魅了されてしまったのである。

今回も、視聴したバンドの一部を紹介。そして、旅の感慨と思考をここに記す。


角間レコード

焼き菓子も売ってる古本屋みたいな、可愛くオシャレなバンド名のセンスに一気に惹きつけられた、金沢大学 角間キャンパス ジャズ研を母体としたアルトがフロントのコンボ。
というだけかと思ったら、一曲進むごとにバッグから次やる曲のレジェンドのレコード実物がぽんぽん出てくる本気っぷり。
全体がまとまっていてスタイリッシュな演奏、そしてベースのグルーヴがめちゃくちゃ良かった。

多くの会場の司会進行を、地元の高校生たちが担う。なんでもやらせてもらえる環境って、いいものだ。

平賀マリカ with ハクエイキム

金沢市役所第二本庁舎の会場は、ガラス張りで流線型の建物自体も美しく一見の価値あるが、なにより、ガラス張りの外側からピアニストの指が見えてしまうところが、いい。緊張感をはらんだ指先は、繊細に確実に、音をさぐっては紡いでいく。

ジャズの曲は、映画音楽から派生していることがよくある。
「Calling You」という曲は、映画『バグダッド・カフェ』のテーマで、小学校のとき父のかけるカーオーディオから流れてきて衝撃を受けた、というのが最初の記憶だ。

音数が少ない空白だらけの曲なのに、その何もないと思った空間はピンクやパープルのガラスで満たされている、そんなイメージが好きだ。曲間のトークで、1980年代の映画と知る。世間知らずの専業主婦が再出発するストーリーとか。

ハイソな夫と別れた、若くて世間知らずの女性が、カフェでの慣れないアルバイトをするうちに店の人々や客と交流し、やがて自分の手で幸せを掴んでいく……ふむふむ、だいたいこんな話でしょ、と予想。帰宅後に映画見てみたら大外れ! ドイツ人のおっきなおばちゃんが、アメリカの砂漠の真ん中のボロいモーテルにたどりつくところからストーリーは始まった!

コメディテイストな描写もありつつ、心デトックスと再起の物語という感じ。何もかもうまくいかない人生をどう再起動したらいいか、その過程を、見事に視覚的に表現している(後述)。

The BigBand of Music Toys

かわいらしい名称のビッグバンドは、長野県松本市を拠点とし、小学生〜高校生で構成されている。若年層なのにすごいいい演奏するなあ、と思う。

子供の頃から吹奏楽に打ち込んできた人が、うらやましい。中学のとき、同級生たちの演奏に心から感動したことがあるからだ。同い年なのにこんなに演奏できて、すごいゾクゾクずる!やってみたい!けど私とは生まれがちがうに違いない! そう思って、なにか管楽器をやってみようという考えすら浮かばなかった。何事も練習だと気づいたのは、ほんの2、3年前のこと。まあ、年を重ねればいつかは気づきをえられるという、いい教訓でもある。

Second Wax

映画『Blue Giant』の劇中曲「Count on me」が一曲目。その「好き感」を共有していることが嬉しい。

ジャズは、何百曲かある「いつもの曲(スタンダード)」を、ポップスでいうところの「カバー」で演奏するのが基本だが、もちろん、並行して新たな曲もどんどん書かれている。その新曲を、他のだれかが演奏する。その歴史を繰り返して抽出されてきたのが、現在のスタンダードだと考えると、これらは一曲一曲が、よほど洗練された曲揃いなのだということがわかる。

くりた・はまにしバンド

2本のテナーがぶいぶい言わせるバンド。すげーかっけーし、超絶技巧だし、艶もある。そして、そのエネルギー量。好きになっちゃいそうだ。

Zigension

フュージョンバンド「Dimension」カバーバンド。小柄な女性にもかかわらずめちゃくちゃパワフルなアルトプレーヤーについて、自身のトークで明らかになったその年齢。フュージョン、若返りの効能でもあるのか。

Fuji-Yama Project with Birkin

女性ボーカルとソプラノサックスがフロントのバンド。音域低めの伸びやかな歌声と、大阪弁の軽快なトーク。私はけっこう、歌詞とか作曲の背景を説明されると、ふむふむと楽しくなる。

ソプラノまじでいい! 良い楽器も上手いプレーヤーもいくらでもいるけど、こんなに味のある演奏はあまりない。味ってなんなんだろう? 譜面には表せない揺らぎのようなものか。

晴天つづきだった三連休の最終日。最高潮の暑さと熱気と盛りあがりのさめやらない街で、足早に近づいた夕暮れだけが、秋のおとずれを嘯いていた。



鈴木大拙館

夕刻のバス列に並ぶのがいやになって、黄昏の街をぷらぷら歩いていると、看板に「鈴木大拙館」の文字。これは金沢のガイドブックに必ず出てくるあれだ。まあ、よく知らない。暑いし歩きつかれたし、ここはひとつ綺麗な建物を見物しがてら休憩を……
と、一歩踏み入れるまで私は知らずにいた。翌日、朝イチでふたたびこの建物を訪れることを。

鈴木大拙(すずきだいせつ)は金沢出身の仏教哲学者。この建物は美術館でも生家でもなく、思想の館なのである。この時は企画展として、交流のあった柳宗悦の書や民藝品も展示していた。

しずしずと静謐に満たされた敷地は、周囲の住宅街と明らかにちがう空気が流れている。暗く、細い廊下が、訪う者をその世界観へといっきにいざなう。
最奥の「思想の間」は、しんと平らかな池の真ん中に、人の佇む館がただ在る。閉館間際のせわしない時間帯にもかかわらず、心がつねに騒々しい私にとって、この場所は非常な効能を発揮した。

翌朝、まだ来訪者の少ない時間をねらってオープンと共に入館し、外園を散策、鈴木の著作や関連本が並ぶ小さな図書室で文字を追い、小一時間を過ごした。旅は、必ずしも観光ポイントの通過の連続でなくてもよい。留まることでしか捉えられない、その土地の時のながれ方が、ある。

拝見したうちの一冊『翻訳できない世界のことば』は、一風変わったワードを世界中から集めた絵本。ワードは1語であるのに、それを日本語に訳すととても長い説明になる。「時間とお金は十分あるのに、それを使う心の準備ができていないこと」だとか、「洋服やアクセサリーがきつくて手首や足首にできた、あと」など。このようなことを一言で表す文化があるんだなあ、どんな場面で使うんだろう?と考えていると、「ぼけっと」というワードがでてきて笑いが出てしまった。これは確かに、英語に直そうとすればすごく長い説明になる。

言葉の壁が単なるコミュニケーションツールの違いではなく、その言語を使う人々の思考や情緒の差であることがあぶりだされて、非常におもしろい。もちろん純粋に絵本として、イラストもほっこりと可愛いのであった。

ピルスナー・ウルケル

ジャズバンドの多くはトランペットやサックスなど、大きな音が出る管楽器を使う。にもかかわらず、0時近くまで屋外で演奏をしている会場がある。それが「新天地 特設ステージ」だ。

この「新天地」という土地は、調べてみると、戦後のヤミ市に端を発していた。由来のとおり、街には無数の料理店・飲み屋・長屋、夜のおねえさんたちのドレスショップ、よくわからないお店が立ち並んでいるため、街自体が夜も寝やらず、夜中まで爆音可なのだ。そんな場所で目当てのプレーヤーを見失い、宵の暑さに疲れはて、オングラウンドでインローな一善良市民が遭遇したのは、チェコ料理店「DUB」だった。

クラフトビールが隆盛を極めている現在においても、そのシェアはビール市場全体の1%程度と言われる。そんな中99%のビールは「ピルスナー」とよばれるビアスタイル(製法)が採用されており、その元祖といわれるのが、チェコの「ピルスナー・ウルケル」。国内でも缶ビールとして普通に流通しているが、これをなんとドラフトで出している店に出くわしたのである。これは、旅の奇跡としかいいようがない。

1杯目で喉を潤し、2杯目はビールの泡を楽しむ「ミルコ」という注ぎ方で頂いた。どこまでも透き通るビールのさわやかな香り、刺激的にとおりすぎる強めの喉越し。遠くジャズが鳴りひびく熱帯夜に、気さくな店長と居合わせたお客さんたちと談笑をかわしながら、クーラーの効いた小洒落た店内でいただく最高のビール体験であった。

大和温泉

旅の間は好きなところに行って好きなことやってるせいで、歩く量が爆増するのに気づかない。
自分の鼓動の動きを、静かに座っているときに感じることができますか? 自分の臓器や体内の様子を、自分で感じ取る。こういった感覚は「内需要感覚」と呼ばれ、この感度が高いほど、言わずもがな体の疲れや危機を察知しやすい。体の声が聞こえるというわけだ。私は脳偏重人間なので、体の声を聞きのがして何度か危ない目にあっている。

聴けないのなら、疲れていると先に仮定してしまう。それが最近の旅のスタイルだ。歩数が増したら当然疲れもあるはずで、旅行中は目新しい物事ばかりで脳も興奮しているからよけい疲れに気づきにくい。そこで、温泉や銭湯を積極的に取り入れている。ホテルのシャワーや小さな湯船よりも、大浴場はやはり疲労回復に資する。
その甲斐あってか関係ないのか、旅の疲れはだいぶ持ち越さないようになった。

ゲストハウスのスタッフさんに聞いて訪れた「大和温泉」は、繁華街からちょっと離れた住宅街のさなかにあった。佇まいは小さな銭湯ながら、ほうじ茶のように赤黒いお湯、これは只者ではない…(温泉成分表は見わすれた)。脱衣室、洗い場、湯船ともにじゅうぶんな広さで清潔、湯温もちょうどいいし、サウナもあった。

知らない街の温泉ってドキドキするけど、やはり行ってよかった。

グルテンフリーの救世主

私は、小麦が食べられない。アレルギーを発症したのはほんの3年前だ。しかも検査を受けたわけではないので、アレルギーであるのかも不明である。けれど、口にするとすぐに下してしまうので、私の人体が一般的な食品であるはずの小麦を毒物とみなしているのは確かだろう。

アレルギーがない人々の間でも、近年「グルテンフリー」が流行している。グルテンフリーとは、小麦などの麦類に含まれる「グルテン」とよばれるたんぱく質を摂取しない食生活のことである。この食生活を実践したことで体調がよくなった体験者が書籍などを出版し、現在のブームに至るわけである。

そういうわけで、小麦が食べられないという話をすると「体質改善のためにやっているの?」ときかれることが多いのだが、純粋に、下すから食べないだけである。

コンコント菓子店」は、金沢の市街地から少しはなれた、往来の多い幹線道路わきにぽつんと佇んでいた。初めてきたのは去年のジャズフェスのときで、金沢在住の友人に連れてきてもらった。

年代物のオフィスビルらしき建物をリノベした店内は夢のように素朴でフォトジェニックで、ガラスのおおきなショーケースのなかには、宝石のようなケーキが美しい色彩をはなってずらりと並んでいる。だが、このお店の本当に夢みたいなところは、「全品グルテンフリーである」という点だ。いや、それどころではない。「動物性食品不使用」ですらある。

今年もまたお世話になった。大小の車がゆきかう激しい往来を眺めながら、私の心は野尻湖の湖面のように平安そのものだった。洋梨のタルトにさっくりフォークをいれ、かぐわしいブラックコーヒーで一息つく。そうだ、お菓子には心に平安をもたらす効能がある。お菓子は人生に必要なのだ。「いままで小麦で作ってきたお菓子やパスタが、米粉でできるはずがない」というのは「未研究」という意味でしかない。ありがとう、研究者の皆さん。

ゲストハウスと遠雷

旅の3日前くらいに宿を探しはじめた私にとって5,000円の宿が見つかったのは、わりと奇跡だった。民家を改装したゲストハウス「和んで」は、金沢駅至近の街なかに位置する。

簡易宿泊所など以前は眼中にもなく、安価なビジネスホテルに泊まっていたが、発想がかわったのは今年6月の弘前旅行だった。どういう心境の変化かはよく覚えていないが、とにかく「地元の人と話ができる場所に泊まりたい」と思ってゲストハウスを選んだ。2泊のうち1泊目はちゃんとした一部屋が取れたが、2泊目は予約ができず、しかたなく同施設の2段ベッドに泊まった。

2段ベッドは、垂直の梯子を登るのは緊張するし、少し動くだけで軋んだりするので、すぐ下に他人がいると思うと申し訳ない気持ちになる。それでも、一度泊まってみれば「これでも全然いけるじゃん。快適だし安いし」ということになり、以来、簡易宿泊も怖くなくなった(しかし東京のあのプラスチックのカプセルホテルは、やはり閉塞感があって閉口ものである)。なにごともやってみてなんぼ。そして、偶然が経験を呼び寄せることもある。

今回のゲストハウスは民家を改装した建物で、キッチンとダイニングテーブルが充実していた。宿泊日には、台湾からの留学生の女の子とも知りあうことができた。背景がまったく違う人との会話は、じつに興味深い。

二日目の朝は、体にせまる鈍重な衝撃波で目が覚めた。ふだん長野県で感じる、至近の山の積乱雲とは、明らかにちがう。これが北陸の雷というやつなのだろうか。果てしなく遠いところで、ものすごく大きな鉄球が地面に落とされているかのよう。起き出して、スーパーで買っておいただし巻き卵をレンジする。そのあいだに、ダイニングの窓から見える中庭のテラスは、バケツをひっくり返すようなどしゃぶりになっていたが、ほんの十数分で雨は上がった。

旅中に食べない、ということ

もちろん、旅行の目的のおおきな要素として「グルメ」を設定している方は多いと思う。しかし私の中ではこのウェイトはだんだん下がりつつある。理由は二つあって、一つは、地元ですらいい店でいい値段の特産品をめったに食べないのに(信州牛とかシナノユキマスとか)、他人の土地に行ってそれをやるほど自分、グルメなのか?とふと我にかえったためだ。もちろん、旅行にかこつけて贅沢体験がしたいのであれば、別だが。

そしてもう一つは、「疲れないため」である。まんべんなく栄養を摂ろうとすると、自然、食べる量は多くなる。それこそが体調を最高にたもつ秘訣だと考えてきたが、行動量が増大する旅行中にあっては、食物の分解すらもエネルギーの浪費につながる。そこで、「今あるエネルギーを、きっちり使い切る」という方向へ舵をきった。

最低限の栄養は摂る。それというのは「りんご」と「卵」と「米」だ。
まだまだ実験段階だが、以前より体調のいい旅ができるようになった感触は、ある。

2つのフェスを比較して思った、地の利

地形が全然ちがう。
これは、街を歩き回ってすごすジャズフェスにおいて、かなり重要な要素なんじゃないかと思う。

「仙台平野」の名称の如く、仙台は、遠く広がる街をどこまですすんでも平らである。だらだら歩いていて一向に疲れない。歩く場所も、車道脇の歩道ではなく、商業施設が立ちならぶアーケード街なので、目が飽きることがなくて楽しい。歩いていれば、いつしか次のステージから音楽が聞こえてくる。

一方の金沢はアップダウンが非常にはげしい。その上、演奏会場エリアが広大なのである。途中にはマンション街もあって、歩いていてちょっと飽きてくる。

ここで観光立国金沢、出してくるのは伝家の宝刀「バス」。ひっきりなしに走っているので、ちょっと離れた演奏会場へ行くにも、待たずにすぐに飛び乗ることができる。しかしながら、問題はバス路線の複雑さ。表示がまったく読み解けない。行先の停留所の名前をさがすのに3日かかりそう。1日券やsuicaを使えるバスと使えないバスの見分けがつかない。

ここで便利だったのが、ふつうにiPhoneのマップ。普段は車や電車での経路くらいしか調べないのだが、バス路線も熟知しているので、路線ネットワークの全容はわからずとも、ともかく至近のバス停と所要時間だけは正確に教えてくれる。田舎ではバス路線廃止が叫ばれて久しいが、街においては本当に便利でリーズナブルな乗り物である。

よく考えてみると、田舎だからって、人口減によってバスのコストがペイできないほど「移動する人」が少ないわけではない。「バスで移動する人」が少ないのである。相当の人数が、車で移動しているのである。

これは社会学の「集合行為問題……全員が自分に有利な行動をとると、全員にとって不利な状況が生まれること。駅前の自転車放置問題など」に近い感じがする。みんなで合意して、せーので出勤や通学をバスに切り替えれば、
・環境問題
・児童生徒の送り迎え
・ガソリン高騰
・見守り機能
・冬は暖機運転と雪下ろししなくていい
・残業に抑止
・帰りに飲める
・観光客も大喜び
と良い事ずくめじゃないか。送り迎えなんて2往復だしね。

ところで、これは私だけなのだろうか。その地で最初に乗るときの「先払い? 後払い? スイカ使える?」という疑問、車体に書いてあるだろうが、表示が瞬時にみつけられない。ドキドキしながら、なかば賭けのように乗る。このエキサイティングさも旅の醍醐味のひとつである。


まとめ

映画『バグダッド・カフェ』では、ハイウェイのど真ん中で、中年のドイツ人女性が夫に捨てられ、大きなスーツケースを引っぱり灼熱の荒地を歩きだすところから始まる。ここだけを観ると、この女性の再起の物語かと思われる。しかし。

歩いてたどりついたカフェ兼モーテルは、荒れに荒れている。カフェなのにコーヒーマシンが壊れており、店主の女性は夫と喧嘩が絶えず、息子は下手なピアノをやかましく弾き、娘は派手な格好でヤンキーとほっつき歩いて店を手伝わず、おまけに、赤ん坊はけたたましく泣いている。

一人ですべてを背負い込んだ店主は、家族を無理に従わせようとしじゅう怒鳴っているが、もちろん状況は良くならない。

そこへ例のドイツ人女性が唐突に現れる。そして、始めるのだ。掃除を。

But we both know a change is coming,
Coming closer sweet release

映画を見終わった今、長らく私の心のなかにあった歌詞とメロディーが、より深く心に沁みてきた。changeは最初のシーンの女性に訪れたのではない。2人の女性と、さらに彼女らを取り囲むすべての人に訪れるのだ。灼熱のゼロ出発と人生どん底の詰みカフェがかけ合わさって、埃だらけだったカフェは砂漠のオアシスのように生まれ変わる。人生とは、なんと愛おしいものだろう。

そして私は、無数の可能性にうずうずと満ちみちた全ての人生にむけて、ジャズフェス旅を提案するのである。

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