見出し画像

自分が何者であるかを追い続ける

日記をつけるという行為は、自分との対話でもあります。頭の中にあるふわっとした感情を可能な限り咀嚼し、文字としてアウトプットする。つまり、脳内を可視化するということ。もちろん頭の中を100%完全に再現することは不可能だけれど、毎日書き続けていくことで精度は少しずつ上がっていくはず。そうやって今の自分と向き合い、そして後から日記を読み返すことで過去の自分を俯瞰する。そのサイクルを繰り返すことで”自分”という存在の解像度を上げていく作業。いつになっても正解は分からない。なぜなら、僕たちは日々変化を続けているから。ただ、毎日日記をつけることでその変化をも観測可能になる。少なくとも、こうして自分を見つめるための作業をするとしないのとでは、明らかに自分自身への理解度が異なるでしょう。

なぜこんなことをするのか。大仰に聞こえるかもしれませんが、それが僕の人生の目的の1つなのでしょう。自分とは毎日一緒にいるので、常に監視することができるのも大きなポイント。他人であれば観察できない日もあるし、なんなら疎遠や絶縁の可能性もある。だったら、観察対象としてもっとも適しているのは自分でしょう。また、自分が何者であるかを知りたいという欲求は、大小あれど誰しも持っている。それが人一倍大きいのが僕のような人間なのだ。

心理テストというものがある。例えば「このイラストは何に見えますか?次の4つの中から選んでください。」というような質問に答える。その答えによって「あなたが恋愛に求めるもの」や「あなたが実は恐れているもの」なんかが分かったり分からなかったり。答えを見ると「へぇ〜そうなんだ〜」と、なんだか自分のことを理解したかのような気になる。正解なんてないのですから、言われるがままだ。この心理テストというやつのトリックは、選択肢のなかから1つを選ばせるということ。仮に、この「選ばせる」という過程をすっ飛ばして「あなたはこういう人なのです!」と指差し宣言されても「フンッ」とそっぽを向くでしょう。しかし、選択肢を自分で選んだ、という事実が、その答えをもっともらしく感じさせるのです。人は「自分で選んだ」という意識に敏感です。自分で選んだのだから、間違えているわけがない、間違えていて欲しくない、だからその先の答えを受け入れる。

近頃では、MBTI診断など有名ですね。人の性質を16のタイプ分類し、いくつもの質問に答えていくと結果がわかるというもの。ちなみに僕はENFJ-Tとかいうやつです。よく分かりません。SNSのbioに、この結果を書き記している人をよく見かけます。自己主張なのか、牽制なのか、はたまた承認を求めているのか、目的は分かりかねますが、それだけの信頼性がある記号なのでしょう。そして、皆自分が何者かを知りたがっている。心理テストおよびこうした診断は、その疑問に答えをくれる。答えをもらえば、当然安心する。しかも「あなたはとんでもない極悪人で無能でド畜生で生きている価値がないので死んだ方がいいタイプの人間です」などという残酷な結果は存在しないので、それぞれがどこか誇らしげに診断結果を掲げているようにすら思える。自分に自信を持てるということは大変素晴らしい。ただ、もっと自分に興味があるのなら、与えられた質問に答え続けるだけでは満足しないんじゃないか?自分で自分にいくつも質問を投げかけ、答えらしい何かを模索し、美醜問わず自分のすべてと向き合っていかないか?診断と違ってハッキリとした回答は得られないけれど、奥が深くて楽しいものですよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?